1 血も滴るいい男
それは一瞬の出来事だった。
なめらかな白い頬に、生温かい飛沫が降りかかる。ゆっくりと滑り落ちるそれを指で拭えば、薄紅色の艶やかな爪が赤く染まった。
(これは血?)
その正体を認識すると共に、むせ返るような生臭い匂いが漂ってくる。頭部を失った魔獣の巨体からは血が噴き上がり、無造作に転がった首が恨めしげに虚空を見つめていた。
「はっ……他愛もない」
血溜まりの中、どうと倒れた肉塊を返り見ることなく悠然と立つ男が一人。全身に返り血を浴びてなお不敵に笑うその男は、血の滴る剣をひと振りすると、怯える人々を睥睨した。その途端、恐怖のあまり金切り声を上げて卒倒する貴婦人が続出し、かろうじて叫び声を飲み込んだ者たちは、真っ青な顔で視線を逸らす。
「……き、狂血公爵だ」
誰かの呟きが聞こえ、群衆が騒めきに包まれた。私はぼんやりと顔を上げ、鞘に剣を収める男を見る。すると、地面にぺたりと座り込む私に、魔力を帯びて煌々と輝く男の金眼が止まった。
◇ ◇ ◇
秋晴れのこの日、ラングディアス王国では豊穣を祝う遊宴会が行われていた。伯爵家の娘である私も、ある理由から出席していたのだけれど。
国王以下、国中の貴族たちが出席する国の行事ということもあり、会場のパライヴァン森林公園は、物々しい警備体制が敷かれていたはずであった。騎士たちがそこかしこを闊歩していたのでそれは間違いない。しかしそこへ突然、狂化した魔獣たちが乱入してきたものだから、会場内は騎士たちの怒号と逃げ惑う貴族たちの悲鳴で地獄絵図と化してしまったのだ。
群衆が、誘導する騎士の元へ移動していく。私も同じように逃げている途中、群衆に押しやられて取り残された老夫婦を見つけた。足の悪い夫の杖が折れ、夫人が人々を呼び止めようとするも、誰一人として手を貸そうとしない。方向転換して駆け寄った私は、「一緒に逃げましょう」とその老夫婦の手を取ろうとした瞬間、背後から空気を震わせるほどの咆哮が聞こえてきて、ぎくりと立ち止まった。嫌な予感に背中に冷や汗が流れ落ち、私は両手を広げて振り返る。
(そんな、バックホーンだなんて)
そこにいたのは、禍々しい魔力をまとった大型の魔獣。太い前脚で地面を抉り、鼻息も荒く濁った眼で私を捉えていた。正確には、ヒラヒラと舞う私の薄紅色のドレスの裾を凝視している。わざわざ遊宴会のために見繕った晴れ着が、魔獣の格好の標的となってしまったことは言うまでもない。そして間一髪、魔獣の餌食となるはずだったその瞬間、私は血の雨を浴びることになってしまったというわけだ……ただし、自分の血ではなく、魔獣の血を。
ゆっくりと歩み寄ってきた男が、手を差し伸べるわけでもなく、ただ私を睨めつける。
「どうした、私が怖いか?」
狂化した魔獣を目にも留まらぬ一閃で屠った男だ。怖いか怖くないかと言われたら、怖い部類に入るのだろう。しかし血塗れになってすら損われることのない美貌故か、あまり怖さは感じられなかった。むしろ、この姿こそがあるべき姿であるような錯覚に陥ってしまいそうだ。魔獣とやり合った直後なので、顔が凶悪なのは否めないけれど。
「いいえ、ガルブレイス公爵様。ご健勝のご様子にて何よりでございます」
「くくっ。状況を理解できていないのか。怪我はないな」
「はい、大丈夫です」
血塗れの男――ガルブレイス公爵様が、私を値踏みするように金眼を細めた。色が抜けたような灰色の髪まで赤く染まっている。なるほど『狂血公爵』とは、ここからきているのだろう。世間に疎い私ですら知っている噂だ。血を好み、常に血臭を求めて魔獣を屠る変わり者。残虐非道の血に狂った公爵。その公爵様の、端正ながらも悪鬼のような顔を滴り落ちてきた血が、歪められた口端に入っていく。
(あっ、それは少しばかり駄目なやつです!)
気になって気になって仕方がなくなった私は、思わず口を開いてしまった。
「公爵様」
「なんだ」
「その、そ、そこのバックホーン種は狂化の傾向が顕著ですので、血が完全に魔毒におかされている恐れがあります。お口を濯がれた方が賢明かと」
「は?」
公爵様が、あっけに取られたように目を丸くする。
「生き血は新鮮ですが、魔毒を含む血を飲むと、発熱や激しい腹痛に見舞われてしまいます。狂化していなければ血の腸詰にもできたのですが残念です。魔毒は厄介ですから。でも見たところ、比較的若い個体なので身は柔らかそうですね。二週間ほど低温熟成させたうえで毒素を抜き、十分加熱して食せばいけないことはないかと」
バックホーン種は大型の四つ脚蹄の魔獣だ。頭から背中にかけて生えている角の数でだいたいの年齢が判別できる。気性が荒く、仕留めるには熟練の猟師が三、四人は必要だというのに、ガルブレイス公爵様はたった一人で仕留めてしまった。しかも綺麗に首が落とされているので、血抜きまで完璧だ。惜しい、非常に惜しい……これで狂化さえしていなければ、手間をかけることなく美味しくいただけるのに。
一人あれこれ考えていると、公爵様はさらに近寄ってきた。服が黒くて遠目ではわからなかったけれど、その上衣が大量の血を含んで濡れている。魔毒におかされた血は肌からも吸収されるのだろうか。もしそうであれば、早急にお召替えをしていただかなければ。
「……お前、名はなんと」
名を問われ、私はまだ礼すら述べていないことに気づく。公爵様の御前で失礼なことをしてしまった。急いで立ち上がった私は、魔獣の血が飛び散ったドレスの裾を摘むと、深々と腰を落として一礼する。
「失礼いたしました。私はマーシャルレイド伯爵が娘、メルフィエラにございます。ガルブレイス公爵様、此度は助けていただきありがとうございました」
「ほう、お前がマーシャルレイド伯の娘か」
「はい」
「魔獣に詳しいのか?」
そう聞かれ、私ははたと考えた。確かに魔獣に詳しいのかもしれない。しかしそれは、私のある趣味の副産物だ。追求するあまり、魔獣の生態に詳しくなったというべきか。魔獣はもとより、魚、植物、爬虫類、昆虫、さらには菌糸類と、食せる可能性を秘めたありとあらゆるものに興味があるだけなのだから。そう、私の趣味というのは――
「私は魔獣というよりは、食物に興味があるのです」
「食物、だと? お前にはこの魔獣が食物に見えるというのか」
「はい、もちろんです。食べるからには美味しくいただきたいですから!」
私が勢い込んで説明すると、ガルブレイス公爵様は、これでもかというくらいに驚愕したような顔になった。そういった反応にはもう慣れてしまった私はとりあえず微笑んでみる。すると今度は、公爵様が片手で顔を覆ってしまった。しばらくして指の隙間から私をチラリと見てきたので、もう一度微笑んでみる。公爵様は何故か、「うっ」と小さく声を漏らした。もしかしたら、バックホーンの血が口の中に入ってしまったのかもしれない。革手袋もたっぷりと血を吸い込んでいるので、その顔が違う意味で真っ赤になっている。
「なるほど、悪食令嬢とは言いえて妙だが、やはり噂は当てにならぬものだ。メルフィエラと言ったな」
「は、はい、公爵様」
まさか名を呼ばれるとは思わず、私は緊張して背筋を伸ばした。悪食なのは自覚があるので否定できない。それに、社交界では自分が『悪食令嬢』と呼ばれていることも知っていた。しかし、公爵様から改めて言われると、何かこう、悲しいものがある。取るに足らない令嬢の悪食の噂が公爵様の耳にまで届くなんて、社交界とはそんなに暇なところなのだろうか。かくいう私も狂血公爵の噂を聞いたことはある。まあ、私と公爵様では、知名度的にも天と地ほども違うと思うのだけれど。
「お前の名、覚えておこう」
「あ、ありがとうございます」
「そこの騎士、何をしている! この場所を封鎖しろ……ああ、待て。先に浄化水を持て」
ガルブレイス公爵様は私をもう一度見ると、集まってきた騎士たちにあれこれと指示を始め、その場から立ち去ってしまった。私もようやく、自分の惨状を思い出す。薄紅色のドレスが赤い水玉模様になってしまっている。ただの血ではなく、魔毒におかされた血なので放置するわけにはいかない。
私はこの会場のどこかにいるであろう付添人を探すため、騒めく群衆に目を凝らす。取り残されていたあの老夫婦は無事だったようだ。騎士に付き添われて引きあげていく後ろ姿を確認し、私はホッと胸を撫で下ろした。
騎士たちが別の場所へと誘導してるので、どうやらこの場所は封鎖されるようだ。私も皆について行こうと一歩踏み出そうとして――
「おい、どこへ行く」
腕を掴まれ引き止められた。振り向くと、今しがた立ち去ったはずのガルブレイス公爵様がいる。まだ何か、私に聞きたいことでもあるのだろうか。
「公爵様? あの、私、付添人を探しに」
「その姿でか。私はまだいいが、仮にもお前は伯爵家の令嬢だろう」
「大丈夫です。これくらいの汚れなら気合いを入れて洗えば落ちます」
「そうではなくてだな……まあいい、先ずはこれを飲め」
そう言うと、私の腕を掴んだままのガルブレイス公爵様が、私に小瓶を差し出してきた。
「浄化水だ」
「そこまでのお気遣いは」
「魔毒は厄介なのだろう? 流石のあくじ……お前も口にはしていないだろうが、飲んでおけ」
「……ありがとうございます」
見たところ、この場所で魔獣の血を浴びてしまったのは公爵様の他は私だけのようで。私は素直に受け取り一気に飲み干すと、公爵様は血のこびりついた顔で満足そうに頷いた。
「気分は悪くないか? 頭痛は?」
「特に今のところは何もありません」
「ならばついて来い」
公爵様がついて来いというので、ここはついて行くしかない。しがない伯爵家のこれといった特徴のない令嬢にとって、公爵様と直接言葉を交わせたことは奇跡に等しい。血塗れの悪鬼……ううん、血も滴るいい男は、何をしても様になる。見た目はともかく、噂の狂血公爵様はお気遣いのできる紳士だった。