沈殿少女
ふわり。
眠りから覚めるように、まどろんだ意識を徐々に回復させる。
ここは、ああそうか。いつもの場所か。いつもの、水の中だ。
水中に音は存在せず、果てしない虚無が広がっている。
私は沈んでいく。
ゆっくり、ゆっくりと。
あの日に私は、水の中に放り込まれた。いや、自ら飛び込んだのかもしれない。
その日のことは曖昧で、どうして私がこんなことになっているのか、自分でもよくわからない。
ただ、苦しい。
苦しい。苦しい。苦しい…………。
どうにかもがこうとしても、口からはぼこぼこと泡が吐き出されては昇っていく。
何かを掴みたくても何もないし。そもそも動くことができているのかすら……。
沈みゆくという現実を受け入れるしかないのだ。嗚呼……なんと無慈悲な。
しかし、不思議な感覚だ。
確かに苦しい。苦しいが、それは思うように体が動かせないからなのか、はたまた息ができないからなのか。息ができないにしては、ずいぶん長い間意識がある。
それに、沈むスピードもものすごく遅い。
なんなんだろう。どうなっているのだろう。
神様、教えちゃあくれませんか。
…………と願ったところで教えてくれるほど神様も甘くない。それどころか自分で考えろ、馬鹿者。とか言われそう。
私は、この運命を受け入れるしかないのだ。
運命? これが、この結末も用意されていないような状況が?
そんなものは、運命なんて言わない。ただのクソッたれだ。
思い出すのは、いつもあの光景。
茜色が差し込んでいる、人気のない薄暗い教室。
椅子は机の上にのせられ、整然と並んでいる。
吹き込む風が、カーテンを大きく揺らす。
毎日使っている教室が、まるで別物に感じるその時間帯。
彼は、いた。
私は、たまたま忘れ物を取りに、教室に戻っただけだった。
いつもなら、生徒が帰った後は閉まっているはずの扉が開いていて、不思議に思った。
誰かいるのか。
教室に入ると、まるで異世界に迷い込んだかのような錯覚に陥る。
薄暗い教室は、茜色の陽光に照らされ、整頓された机は、時の流れが止まったかのような感覚を与える。
普段使っている教室が、こうも違った一面を見せるものなのか。
私は忘れていたノートを取り出し、教室を出ようとした。そう、その時だった。
「うわっ」
風が、流れ込んだ。
静止していた空間に、動きが、生まれる。
そして初めて気づいた。
窓際に座っている人物に。
そいつは、私のことなど一切気にせず、というか、気づいていないのか、真剣な表情で本に視線を這わせていた。
まさかこの教室に人がいるなんて思ってもいなかったから、そりゃあ驚きもしたが、それ以上に、何故か、そいつのことが気になった。
見た感じ、これ以上ないっていうくらいのザ・文学少年。眼鏡、体格、雰囲気。すべてが私の想像しているそれにぴったりだ。
こんなやつ、うちのクラスにいたっけ?
ほら、私の記憶にすら引っかからない。普段なら相手にしない部類のやつ。私とは真逆の存在といってもいい。
なのにどうして。
「おい」
私は声をかけてしまうのだろう。
「何読んでんだよ」
どうして、こんなにも心が揺れるのだろう。
また、水の中。
私はゆっくりと沈んでいく。
あの日から、私は、あいつと話をするようになった。
夕陽が教室を照らすころ、私とあいつは言葉少なに話をする。
あいつの話す内容はいちいち難しいし、私も私であいつのレベルに合ったことなんて喋れない。
そもそも、あいつと私では頭の出来も、普段の素行も真逆なのだ。当然と言えば当然。
そして、あいつは不思議なやつだ。
あいつと話している間、私は何故か、満ち足りた気持ちになれるのだから。
水の中、苦しい。苦しい。
けど、今ではこの苦しみの中に、確かな幸せを感じる。
二つの感情が表裏一体の関係で存在している。
なんなんだ、この感覚は。
頭の中がもやもやする。しかし、心は躍るようだ。
私は水面を見上げた。そして目を見張った。
光が水中へと溶け込み、淡い蒼色から、光のカーテンが垂れている。水面の波は光の明度を変え、まるで宝石箱をひっくり返したよう。
ゆらゆらと形を保つことなく、何とも幻想的な光景。
水面へと昇る気泡は
こんなにも、ここは綺麗な所だったのか。
苦しい、だけど満たされる幸福感。そしてとめどなく溢れる切なさ。
そして美しい世界。
私はどこにいる?
私は、どうすればいいのだろう?
自問自答は止まらない。
しかし、私の中でとうに答えは出ていたのかもしれない。
きっとこの世界は、私の気持ちそのもの。
私は、あいつのことが××なのだ。
ああ、××というのは、なんて儚く、辛く、そして、美しいのだろう。
そう思うと、案外この空間も悪くはないな。
そして私はそっと瞳を閉じた。
また、あいつと、夕陽が差し込むころの教室で。