09. 後ろめたい私の気持ちと、チョコレートの花のひとの話
本棚の奥にある隠し扉。
日記はそこに隠されていた。
異母弟の日記を見つけたことを、私は誰にも言わなかった。
なぜそうしたのか、自分でも理由はわからない。
薔薇の園の中で、頁を捲る。
初めて見る弟の字は、癖が強い小さな字だった。余白をケチるようにびっちりと書き込まれた日記はとにかく読みにくい。いつも字が大きくなりがちな私とは大違いだ。
今、この場に居るのは、私ひとり。
いつものようにエーリオがくっ付いてこようとしたが、そんなに私と四六時中いたいのか、と嫌味を言ったら顔を真っ赤にして怒りながら行ってしまった。
追い払い作戦は大成功。だけど、あんなに怒るとは思わなかったので、少しきまりが悪い。
はっ! もしや、神殿内に好いた女でもいるんだろうか。
そして、私の護衛をしているせいでその想い人に誤解され、遣る瀬ない想いに駈られて……。
なんて気の毒な話だ。知らなかったとはいえ、そんな男の心に、私は塩を塗るような真似をしてしまったのか。
私は胸の内でエーリオに詫びた。一回詫びたら、その後は気にしなかったが。
異母弟の日記は、7歳の時から始まっていた。
始めたきっかけは、彼の母親からのプレゼント。
病床の母から、どうか楽しいことをたくさん綴って欲しいと、誕生日に贈られたそうだ。そうすれば、いつか天国に行かなければならない自分にも、レナードがどうしているか届くから、と。
どうやら、義母はその頃には死期を悟っており、また、息子であるレナードもそれを知っていたようだ。
「素敵な女性だったんだな」
日記の始まりの頁を捲りながら、ひとり呟いた。
会ったことのない義母。美しかったという話は散々耳にしたが、そういえばどんな為人だったのかを聞いたことがなかったな。
優しい母親のことが、異母弟は大好きだったようだ。
病床の母に物語を音読した日の話、果樹園で採ってきた林檎を母が喜んでくれた話、剣術大会で上位入賞を逃して泣いた日の話、親子3人で母の誕生日を祝った話…… 。
異母弟の文章は、とても単調な印象を受ける。淡々としていて、一日当たりの記述が短い。あと、微妙に三日坊主。物凄く分厚い日記帳だとはいえ、13年間も使い続けることが出来ていたのにも納得だ。
だが、三日坊主な部分に関しては、ある日を境に改善されていた。
異母弟の…… 母が亡くなった日から。
私は日記を閉じ、仰向けになった。
芝の感触が背に心地よい。薄目を開ければ、茂った葉の中で黄色い薔薇が揺れていた。
「…… 盗み読みなんて、するもんじゃないな」
誰に聞かせるでもなく、独りごちる。
――― ああそうか。
鍵の手がかりを探すためとはいえ、異母弟の私事を覗くことを、私は恥じていたのか。
だから、誰にも言いたくなかったのか、そうなのか。はは。
そんな当たり前のことに、今気付いた。
「ああ、もう、帰りたい」
ここに来て何度も呟いた台詞。
だけど、今以上に本気で言ったことはないような気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あらあら、女の子がこんなところで寝てちゃいけないわ」
目を閉じていたら、いつの間にか本当に寝てしまっていたようだ。
瞼を上げると、そこにはにこやかに微笑む女性の姿があった。
歳の頃は40代くらいで、麻の服の上に大きな紺色のエプロンを身に付けている。頭には日に焼けた麦わら帽子、手には土まみれの軍手。どうやら庭師のようだ。
「ごめんなさい。仕事の邪魔をしてしまいましたか?」
私が慌てて身を起こすと、彼女は朗らかなようすで首を横に振った。
「いいえ、大丈夫よ。でも、こんな冷たい地面の上で寝てはダメ。身体を冷やすのは、女の子にとって大敵なんですからね」
「はあ……」
めっ、というチャーミングな仕草で注意され、私は間の抜けた声を返した。
よくわからないが、確かに真昼とはいえ秋の屋外で昼寝したせいで、身体は冷えている。夕刻も近いようだし、早く部屋に帰った方が良さそうだ。
そう考え、日記を拾い上げた私は庭師に別れを告げようとした。だがそれよりも、私の腕を取って歩き出した彼女の動きの方が早かった。
「さあ、行きましょう」
「どこへ?!」
「いいところっ」
ふふっ、と肩越しに向けられた笑み。
それを目にした私は、ふと不思議な既視感を覚えた。
目尻や口元には皺があり、頬や鼻の上にはそばかすが散っている。不器量ではないが、美人ともいえない。
聖女に近しい者はみな、能力だけでなく容姿も優れているべきだという、ふざけた基準があると聞いた。だから、彼女には悪いが、ここに来て出会った人間の誰にも似ていないはず。
でも、その笑い方が誰かに似ている。
そんな気がした。
なぜ、大人しく付いて来てしまったのか分からない。
連れて来られたのは、薔薇園を抜けた先の東屋だった。
白い円形の建物を囲むのは、焦げ茶色の花。無数の花が風に揺れる様は壮観だが、豪奢な東屋の装飾に対して、少々色が地味過ぎる。
「香ってご覧なさい」
庭師の女性――― レジーが差し出した一輪の茶色い花を、恐るおそる鼻に近付けた。次の瞬間、驚いて目を見張る。
「これ、チョコレート?」
「そうよ。面白いでしょう」
そう言えば、花弁の色もそれに似ている。
「こんなコスモス、初めて見ました。ピンクとか白ならあるけど」
「そうなのよねー。あれもとっても綺麗なんだけど、ありきたりじゃ面白くないかなって」
「え、それが理由?」
「んー。いけないかしら」
「そんなことないですけど。…… チョコレートがよほど好きなのかなって」
「わたし、どちらかというと甘い物よりも辛い物の方が好みなのよ。まあ、お酒が入ったチョコレートは大好きだけど」
神殿で働く者らしからぬ発言をしたレジーは、何とも言えない思いをしている私に、温かいカップを勧めてきた。
カップの中で揺らめく液体に色は付いていない。口に含むと、ほんのり刺激的な香味が舌に広がった。不思議な味だ。腹に落ちた液体が心地良く、ほっと息を吐く。
「悪くないでしょう。お白湯を飲むのは美容にもいいのよ」
「これ、ただの白湯ですか? なんか味がしますけど」
「あ、わかった? でも、味付けはひ・み・つ」
そう言って、人差し指を当て、可愛らしく笑ったレジー。
…… 別に、教えていただかなくても結構です。
そう答える代わりに、私は渇いた笑みとお礼を送った。 ――― この人、善良そうな人なんだけど、なんか苦手だ。
飲み物は頂いたし、そろそろ帰り時を見極めよう。そう思ったのだが、レジーはまったく空気を読んでくれない。
私が何か言い出そうと、すかさずお代わりを継ぎ足すのだ。おかげで、胃がタポタポしているではないか。どうしてくれる。
(よし、今度こそ帰ろう!)
そう決意して腰を上げかけたのに、性懲りもなく6杯目のお代わりをカップに注ぎ足し始めたレジーが、唐突に訊ねて来た。
「ねえ、ステラさんはどうしてあんなところに一人でいたの?」
「………」
当たり前だが、他人さまの日記を覗き読んでました、だなんて白状できない。
なので黙秘することにしたのだが、無意識に、テーブルの傍らにあった日記に触れてしまった。ぐぬ、罪悪感のなせる技か。しかもレジーさん、その仕草をばっちり目撃してるし。
果たして、私が触れたそれが“日記”だとは知らないレジーが、何を思ったのかは分からない。
「ふぅん。ナイショなのね」
面白がるような声音が怖い。
でも、何も言わない私の顔をたっぷり時間をかけて見つめたのち、ふ、と笑んで彼女は申し出た。
「もし、今度一人で居たいことがあれば、ここをお使いなさい。ここは、滅多に人が来ないの。 誰にも見つからないわ」
「…… いいんですか?」
「ええ、もちろん。って、わたしが言ってしまって良いのかは分からないけど、ね。だから、あんな冷たい所に、長時間座っているのはお止めなさい。女の子はね、腰を冷やしちゃいけないのよ?」
いいわね、と言ったレジーの言葉に、私はなんとなく頷いてしまった。
不本意ではある、がしかし。
私は、誰にも邪魔されることのない居場所を、思いがけず手にした。