18. 悪魔の夢を育てる人の話
「聞いたことのない国の言葉なのね、その歌詞」
昼の陽が差しかかる、薄暗い店内。本の手入れをするあのひとが、いつも口遊んでいた歌。
聴いていると、その歌詞は知らない単語ばかりで、全然意味が分からなくて。
「そうらしいんだ。僕にも、歌詞の意味は分からない。すごく、凄く遠い…… 簡単には行けない国の歌らしいよ」
彼は私の方を見て、でも私を見ずにそう言った。
知らない言語の知らない歌を、音だけで覚えているんだね。
それだけ、彼が歌っていたひとの傍で、たくさん聴いていたということ。ずっと、そのひとと一緒にいて、そのひとの声に耳を澄ましていたという証拠。
彼が誰を思いだしているのか知らないけれど。
いまこの国でこの歌を歌えるのは、私と彼だけ。
そうであったら、どんなに素敵だろう。
少女だった私は、そう思ったのだ。
水の音がする。
頬に、凍えた水の感触。
自分の意識が緩慢に覚醒していくのを感じる。
「ああ、目覚めましたか」
その声は、私の変化を見逃してくれなかった。
覗きこまれる気配と、ぼんやりとした白い膜が晴れて行く視界。
その先には、もはや見慣れた、今は見たくなかった顔が笑みを湛えていた。
「ロ、イダンさん」
声が、自分のものじゃないみたいに擦れた。声が腹部に響き、痛みをもたらす。吐き気もする。たぶん殴られたせいだなと、頭の裏側で理解する。
痛いのを我慢してやっと出した私の呼びかけに、ロイダンさんは意外そうな表情をした。
「おや、もっと驚愕するかと思いましたが」
「十分驚いてます」
そう、感情が表情に出にくいだけで、しっかり驚愕しているから安心して欲しい。
「けれど、そうですね。考えてみれば、あなたほど私を監視する人間として相応しい者はいなかったのではないかと」
言葉を口にしながら、さっと周囲に視線を巡らせる。
ふむ。どこの部屋だか知らないが、どうやら廃墟に近い建物の地下室らしい。ひどく黴臭い部屋の中には、私たちの他に複数の人間。
両手足を拘束されているみたいだから、隙があっても逃げるのは難しそうだし。うーん。
状況は最悪に近いなと、異常に速い鼓動を響かせる身体とは裏腹に、思考は冷静な判断を下す。
「そう言われると心外ですね。貴女とは割りと上手いお付き合いが出来ていたと思うのですが」
「モテ男の自信ですか。あんまり否定出来ないところが少々悔しいですが、私ももう、恋に夢見るお年頃は終えてますので」
「そんなご謙遜を。貴女は十分に素敵な女性だ」
「あー、それこんなことする前に言って欲しかったですけど。また別の機会に言ってください」
「機会があれば、ね」
「何はともあれです。エーリオたちを除けば、私に一番近しいのは、あなたたちだった。……… そうだよね?」
と、ロイダンさんの背後で青い顔をして立っている彼に声をかける。
「マイス君」
びくりと身体を揺らした彼は、何も言わないまま唇を噛み締め、俯いた。
その様子を目にして、安堵する。良かった。
「良かった、って何がですか?」
おっと、声に出ていたか。失敗。
緩んだ口元から笑みの空気を洩らした私を見て、ロイダンさんがその切れ長の瞳を不愉快そうに眇めた。
「現状、貴女に良いことなんて一つもないでしょう」
「いいや、ありますよ。マイス君が、望んで私を陥れたんじゃないって分かっただけでもね。嬉しいです」
よいしょ、と痛みを訴える身体に鞭打って半身を起こし、私の発言をいぶかしむロイダンさんと真正面から向かい合う。少し眩暈がするが、大丈夫。
「脅迫してますよね。マイス君を」
「…… 随分、自信ありげにおっしゃるんですね」
「ええ。だって、彼の様子を見れば明らかでしょう。ネタはそうですね…… 彼の妹さん」
しばらく会っていなかった。
自室に籠り切りで、あの庭にも食堂にも顔を出していなかったから、彼らがこんなことになってるなんて、全然分からなかった。
「ごめんね、マイス君」
君も君の妹さんも、いつも私を気遣ってくれてたのに。
いつだって曲の録音や資料収集に尽力してくれたし、私が研究の為に我を失いつつある中、毎食欠かさずに食事を届けてくれていた。いつ頃からか、あまり部屋にやって来ない時間が増えたことにも、自分勝手な私は気付かなかった。
今にも泣き出しそうな顔で、こちらを見つめるマイス君と視線が合う。馬鹿だなあ、私を心配するなんて。自分だって、一杯いっぱいだろうに。
「気を逸らさないで頂けますか」
その瞬間、上腕に衝撃が走った。
なに、と疑問に思う時間もない。振り仰いだ私に満足そうな表情を見せるロイダンさんを認識した直後、今までに経験したことがないほどの痛みが、湧き立つように広がった。
視界の端で、何を大声で口にしながらこちらに来ようとしたマイス君が、近くにいた服数人の見知らぬ騎士に殴り飛ばされ、床に引き倒されたのが映った。
多分、私も何かを叫んだと思う。でも、それが何かは分からない。
だって、刺された。剣で刺されたんだ。有り得ないっ!
断言する。今、人生で一番痛い!
私の血で赤く汚れた剣先が、ゆっくりと引かれる。それにより、更に与えられた激痛で声を上げた私を見下ろすロイダンさんの顔は、いつも通り優しそうで。
「やっと俺だけを見て下さいましたか」
ぞっとした。
私は、笑顔を浮かべることが小さい頃から苦手だったから、自然に笑むことが出来る人を羨ましいと思ってきた。けれど今、時として、笑顔は人に恐怖を与えるものなのだと知った。
「ああ、そういう表情をしていると、少し似ていらっしゃいますね」
苦痛に歪んでいるであろう私の顔。
彼は顎に指を掛けて上向かせ、嬉しそうに覗き込んできた。
「全く似ていないと思っていましたが、やはり血を分けた姉弟。こんなところが似通ってるとは、本当に面白い」
心底愉快そうに嗤うロイダンの言葉に、私は目を見開いた。
「どこで…… いつ、あのこの」
「ああ、痛みを堪える表情を見たか、ですか? 貴女は賢い人だ。そんな問いは、愚問でしょう」
答えは聞くまでもなく分かっているくせに、と、口付けでもするかのような距離で囁く。
「貴女の弟君が死に逝く、まさにその時ですよ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺はね、下町の生まれなんです。
身内は母だけ。父親は、神殿で神官職を担う貴族だったそうですが、顔は知りません。…… ははっ、どこかで聞いたような話でしょう?
母は神殿で下働きをしながら、俺を育てていました。それこそ、襤褸布のようになりながらね。
自分の母のことをこういうのはなんですが、美しい女でしたよ。
だからでしょうか。あんな惨い殺され方をしたのは。
そう、母は神殿内で殺されたんです。
母を失った俺は、死に物狂いで努力し、神殿に入り込みました。
母が神殿内で色々世話になっていたという連中に、俺も世話して貰いながらね。下町では何かと面倒事を引き寄せていた母譲りのこの顔も、随分役に立ちましたよ。
無事、神殿騎士に取り立てられるまで苦労しましたよ、本当にね。
誰が母を手に掛けたのか。それだけが知りたかった。だから堪えられた。
犯人を調べるのに時間がかかるだろうと、子供だった俺は覚悟していました。でも、実際はあっさりしたものです。すぐに見つかりました。
というかね、皆知っていたんですよ。母を殺めたその貴族が誰か。どうやって、いつ殺されたのか。何から何まで、ね。
その時の俺の絶望がわかりますか?
誰もが知っていたんだ。秘されていたわけじゃない、母の死の原因を知っていて見過ごしたんだ。
母のことをこっそりと教えてくれた女官は、諦めろと、俺に言いました。泣き寝入りしろとね。…… そんなこと、出来る訳ない。
下の地位でどれだけ声を上げても取り上げて貰えない。だったら上にのぼり詰めて、貴族にも対抗できる人間に直接訴えかければいい。
そう思って、近衛騎士団を目指したんです。
だが、現実はやはり甘くない。ご存じですか? 実力世界だと言われている神殿騎士団ですが、聖女や賢者と直に面通り出来るのは、貴族出身者ばかりだと。同じほどの力を認められても、結局は生まれ持った地位と権力に左右される。
人を馬鹿にするのも大概にしろ、そう思いませんか?
そう感じていた頃ですよ。
俺と同じく、貴族に大切な者を傷付けられ復讐を願う者が、神殿内に多くいることを知ったのは。
そして、王城の官吏をしている連中――― 同じ平民出身の人間から、とても愉快な復讐方法を持ち掛けられたのは。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――― 〈夢魔の花〉」
私の目前で揺らされる小さな瓶の中で、黒い液体が踊る。
「権力を笠に、人を害すことを何とも思わない貴族や、その娘を罰することが出来る、魔法のような薬ですよ」
光る粒子を含むそれは、水よりも粘着性がありそうな、どこか生き物を思わせるようなものだった。要約すると、すっごい不気味。
「この薬をせっかく上手く神殿内に広めたというのに、貴女の弟君ときたら……。今邪魔をされるわけにはいかない、ならばと始末したのに、証拠となる書類を遺していて、それを姉の協力で手にしようというのだから、本当に困りましたよ」
「こっちも望んだことじゃなかったんですけどね」
そう毒づいた私にロイダンは、でしょうね、と苦笑した。
「貴女は、俺と少し似ている。だから、貴女のことは割と気に入っていたんですが」
似ている、という言葉に、思わず全身が反応した。
でも、と彼は続ける。
「その顔を見て気が変わりました」
にこやかなままの表情。
そのままの笑顔でもって、彼は剣で私の足の縄だけを切った。
何の思いやりもない動き。切っ先が当たり、皮膚をいくらか裂く。続いて神官服の帯紐を切られれば、私もいい歳をした女だ、彼が何をしようと考えているのかくらい察しがついた。
周囲の雄たちの嗤い声が耳に煩い。
「さあ、ステラ・クロッソン嬢。伯爵家の掌中の珠たるお嬢さん」
そんなけったいな珠になった記憶など一切ない。ついでにお嬢さんと呼ばれる年齢でもない。そう反論したかったが無理だった。
胸倉を掴まれ、引き寄せられる。引っ張られた影響で、肩の傷がこれ以上ないくらいに痛んだ。
「全てが終わった後、無残に壊された貴女の姿を見て、皆どんな表情をするでしょうね?」
親指でこじ開けられる口元。
開けられた小瓶の蓋と、唇に押し当てられる冷たい硝子の感触。
そして―――――……、
「愉しみだ」
悪魔の夢が、舌先に触れた。
「残念ながら、お義姉さまのそんなお姿を拝見することはないでしょうね」
可憐な声が、場違いなくらい綺麗に響いた。
続く、轟音。
部屋の唯一の扉が吹っ飛び、近くにいた男たちを粉塵の中に巻き込む。倒れた彼らを、室外から乗り込んで来た影たちが次々と取り押さえて行った。
現れた彼らが一様に身に纏っているのは、
「…… 近衛、騎士団」
そう呟いたロイダンと、抱えられたままでいた私の元に、周りの誰よりも素早い動きで近付く一人の騎士。
鮮やかな深紅の髪色をした彼は、止めようのない流れるような動きでロイダンの剣を薙ぎ払った。獲物を弾き飛ばされた反動で姿勢を崩した男の腕から、私の身を奪い取り後退する。
ロイダンの周りを他の騎士が取り囲んだのを見届けたのち、やっと彼は青い視線を私に落した。
「エーリ、オ」
なんで、そんな恐ろしい目に合ったような顔をしているんだろう。実際怖い目に合っていたのは私の方なのに、ヘンな奴。
手は拘束されたままだったけれど、震える指先を何とか伸ばして奴の制服の胸元を握る。大丈夫だからと知らせたくて。でも次の瞬間、ああ、しまったと思った。
「ごめん、白い服、せっかく綺麗なのに、汚しちゃったね」
傷口から溢れた血と、手に付いていた血で、純白の生地が赤く染まっている。
悪いことしたな、と珍しくもこちらから素直に謝った。それから、これ以上汚してはいけないと思って身を離そうとしたのに、
「馬鹿っ! そんなのどうだっていいんだよ!」
と、物凄い剣幕で怒鳴られ、渾身の力で拘束された。何でよ、何で怒るんだよ、理不尽だ。
「あらあら、さっそく仲良しなのねぇ。若いわぁ、照れちゃうわぁ。おばさん、妬いちゃうー」
場違いな、でももはや聞き慣れた、のんびりとした独特な声。
まさかと思ったが、その主に視線を向ければ、やはりレジーさんの姿が。
ん? 何であなたも騎士の服を着ているんでしょうか、と疑問符を浮かべた私は、苦々しく応えたエーリオの台詞に目を剥いた。
「団長…… いや、女王陛下。やっぱりいらっしゃったんですか。来ないでくださいと申し上げたはずでしょう。御身は、即位と同時に騎士団から籍を抜かれたのですから」
「えー。エーリオってば、つれないわねぇ。長い付き合いだっていうのに。ステラちゃんのピンチなのよ? じっと待ってなんていられないじゃなーい」
「い・い・か・げ・ん・に、してください! 宰相からドヤされるのは俺だから、迷惑だっつってんですよ!」
「もう、冷たい子。そこは黙って耐え忍んでよぅ。ね、そう思うでしょ、ステラちゃん」
ね、とか言われても…… 団長? え? 女王陛下? どういうこと?
回り切らない頭を抱える私を見下ろしながら、レジーさんはいつも通りのほほんと、でもどこか悠然と笑んだ。
「びっくりさせてしまって、ご免なさいね。でも、今日は特別。あの娘がどうしても出るって聞かないから」
「あの娘? それって」
そんな会話をしていた私たち横を、真白い人が通り過ぎる。
騎士団のそれよりさらに純粋な白を纏った、華奢な背中。
光を集めて紡ぎあげたかのような金糸の髪を持つその人は、部屋の中央で取り押さえられたロイダンの前に立つと、稀有なる美貌で彼に笑んだ。
場違いなようでありながら、そこにいま在るのが当たり前のような存在感。
彼女は問うた。
「わたくしが、誰だかわかりますか」
「………」
目を見開いたまま、彼女―――― ユージェニアを凝視するロイダン。
その口は、何らかの答えを返したようだったけれど、ここまで届かない。しかし、音になり切らなかったその言葉でも、正面にいたユージェニアにはきちんと届いたようだった。
望む応えを得、男を嘲笑う笑みを湛える娘は、それでもなお純粋で美しい。
「ねえ、ロイダン。ここは誰のお庭? 主のわたくしに無断でお花を育てて咲かせるなんて、本当にいけない子」
唄うように言葉を紡ぎながら、彼女は床に転がっていた小瓶を手に取った。
騒動の中、かなり零れてしまっているが、まだ〈夢魔の華〉は瓶に半分近く残っている。しなやかな指で小瓶を揺らすユージェニアは、醜悪な液体に青い双眸を細めた。
「とても醜い黒いお花。馨しく香るわけでも、甘く舌を蕩かすこともないなんて、本当に無益。こんなものはわたくしのお庭には必要ないわ」
そう言って、彼女はロイダンの顔に影を落としながら、この上なく華やかに微笑みを刻んだ。
「目障りだから、植えた貴方自身が始末してくださいね?」
誰も止める間などなかった。
呆けて半開いたロイダンの口。ユージェニアはそこに瓶を当てたかと思うと、一気に傾けた。
口腔に消える黒い華の液体。神殿に仕える人間が、そんな暴挙に出ようとは予測していなかったのか、ロイダンは全て飲み干してしまったようだ。
耳を劈くような絶叫ののち、痙攣しながら床をのたうつ男の姿。それを目の当たりにし、私は震える息を呑みこんだ。
アレを飲まされるはずだったのは、私。ああなるのは、自分だったはずなのだと思うと、今さらになって恐怖が襲ってくる。
「間に合って良かったわ、お義姉さま」
発狂する人間の様。誰もが目を背けたくなるようなその光景を背景に、こちらへ足を向けた娘は清らかに微笑う。
「ご無事そうで何より」
「ばか。無事な個所の方が少ないでしょうが」
どこ見て言ってるんだと詰れば、軽やかな笑い声が返って来る。
その笑顔に毒づいたのを最後に、私の意識は暗転した。




