16. 朝靄の時間の話
しばらくの間、解析の研究をしながら図書館で楽譜を集め、それをマイス君に演奏して貰うという日々が続いた。
変わったのは、エレナちゃんとしばしば親しく話すようになったことや、彼女とともにレジーさんのお茶会に強制連行されるようになったことだろうか。
廊下でエレナちゃんと話していると、どこからともなく現れるんだよね、レジーさん。ちゃんと仕事してるんだろうか。少し心配になる。
お腹が例のお湯でタプタプになる以外は、取り立てて何事もない日々が続いた。
「へ、ユージェニア、また体調崩してるの?」
執務席に座っていた私は、頬杖をついたまま、知らせを持ってきたエーリオの方を仰ぎ見た。
ヤツは赤毛頭に手拭いを巻き、せっせとハタキを振るっている。例の調査は続行中らしく常に忙しそうだが、最近、時間を見つけては掃除用具を手に押しかけて来る。
曰く、私の散らかしようが我慢ならない、と。
オカンか、お前は! と突っ込みたいところだが、部屋が綺麗になるのは喜ばしいので放置している。
私はエーリオが持参した焼き菓子を一つ摘まんだ。木の実が沢山練り込まれていて、香ばしい。美味い。
どこの店で買ったのかと聞いたが、知らないと返された。持って来ておいて知らないとはどういうことだと思ったが、美味いのでまぁ良しとする。
「この前、あんなに元気だったのに。もしかして、何か持病でもあるのか?」
こちらが胸や消しそうなくらい、バクバクと菓子の山を平らげていた姿を思い返す。とてもそんな風には見えなかったけど。
「そういう訳じゃないんだが…… まあ、お元気でもないんだよ。ちょっと体調を崩してるだけだ。もともと、そう丈夫な方でもないしな」
「えぇ~、意外。食べ過ぎが原因じゃないだろうな」
「んなわけあるか」
エーリオは憤ったけれど、あれが何の病の原因にならないってのは、それはそれで凄いような気もする。
ふーむ。確かに線が細い体つきをしてはいるが、虚弱体質だとは思っていなかった。どちらかというと、健康そうに見え…… は! あれか、あれなのか、胸囲にボリュームがあるせいなのか。
ともあれ、今日はユージェニアのあの無駄話を聞かされずに済みそうで何よりだ。
そんな考えが表情に出ていたのだろうか。エーリオは呆れを含んだ息を吐いたあと、これからの予定を聞いてきた。
「今日はまた楽師部屋に行くんだろう? ロイダンとマイスが来るだろうから、例の録音も出来そうだな」
「ああ、神殿楽人たちの練習室を借りることになってるんだ。録音用の魔導具も、たっぷり仕入れてきたしね」
机の上に置いてあった木箱を叩きながら、私は出かかった欠伸を噛み殺した。こちらを見ていたエーリオが眉を曇らせる。
「お前も、いい加減にしとけよ」
「は?」
「いや、根を詰め過ぎるなっていうか……」
「何言ってるの。ここに私を無理やり引っ張って来て、この仕事の完遂を命じたのはあんたたちでしょうが」
そうだが、と口籠るエーリオから視線を外して、執務椅子の背凭れに身体を預ける。
勝手なことを言わないで欲しい。
本来ならここに滞在すること自体、大いに不本意なのだ。多少の無理だってするのは当たり前だ。いつもの無表情が崩れてしまいそうなくらい、イライラした。
「…… 早く帰って、自分の研究を再開したいんだ」
そう告げたところで、丁度、ロイダンさんとマイス君が迎えに来てくれた。私は楽譜と魔導具の箱を運ぶように頼むと、足早に部屋を後にした。
エーリオは何か言いたそうな表情をしていたけれど、気付かない振りをした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
なぜ、こんな時間に目が覚めたのか分からない。
ここ最近は、朝に目を開けることがひどく億劫だったのに。
まだ朝日すら上り切っていない時刻に寝台から下りた私は、何かに誘われるかのように部屋を後にした。
誰も居ない、薄らと霧のかかった暗い回廊は少し不気味だ。
信仰熱心な神官は起き出してどこかで働いているのかもしれないが、今のところ出くわしてはいない。
日中、どこへ行くのにもついて来るエーリオやマイス君、ロイダンさんも、この時間にまでドアに張り付いている訳もなく。
ふと思い返すと、こんなに長時間ひとりで歩いたのは、ここに連れて来られて初めてだと思い至った。どれだけプライバシーを侵害されているんだ、私。
ここに来た時に貸し与えられた神官服の裾が、冷やかな早朝の空気に揺れる。すっかり身体に馴染んでしまった服の着心地を苦々しく思いながら歩き続けていると、いつのまにか見慣れない回廊に立っていた。
「まずいな……」
この歳で、まさかの迷子。有り得ない。
後で、エーリオとかエーリオとかマイス君とかエーリオとかに、どれだけ馬鹿にされることか!
慌てて辺りを見回し始めたとき、ふと、視界の端を白い物が掠めた。
人気のない場所に、白い影?
目にした一瞬、背筋をゾッとしたものが駆け抜けたが、それが白い服を着た人であると気付き、肩から力を抜いた。
白一色を纏った背の高い男。あれは、賢者のアルゲン様。
ひとり、小さな何かを手にして回廊を行く彼の後を、足が勝手に追い始めていた。
しばらく歩いた後、アルゲンは一つの扉の中へと消えた。出て来る気配はない。
締め切られておらず、ほんの少しだけ開いた隙間から中を覗き込むと、跪いた彼の背中だけが見えた。
――― 何をしているのだろうか?
そっと覗きこんだだけのつもりだったが、触れた拍子に動いた扉が思いのほか大きな音を立てた。
慌てた私の方を、アルゲン様が振り返る。
ああ、ヤバい! 別に悪いことをしている訳ではないのだが、瞬時にそう思った。
「おや、貴女は…… 確か、クロッソン伯爵の」
驚きに自分の目が軽く見開いたのを自覚する。
凄い、この人。一度だけ、しかもほんの短い間顔を合わせただけなのに、私のことを覚えている。
「お、おはようございます」
とりあえず挨拶をした私に、彼は柔和な笑みで応えてくれた。
「お早いのですね。お散歩ですか?」
「まあ、そんなところです」
迷子になってますとは、恥ずかしいので言わない。
さりげなーく帰り道を聞き出せないものだろうかと企みつつ、私は会話を繋げる努力をする。
「アルゲン様こそ、さすがですね。こんな早朝から祈りの努めを行っていらっしゃるなんて」
彼の前には、シンプルな木製の祭壇。移動して使えるような小さなものだ。その上には、白い花を生けた花瓶が置かれている。
部屋に足を踏み入れた私は、ぐるりを中を見廻した。
何もない、本当に家具一つない、がらんどうの部屋。
「ここは、礼拝室の一つなんですか?」
「いいえ」
否と返したけれど、彼は再び祭壇へと向き直り、目を閉じる。
礼拝ではないのならどうして、と怪訝に思った私が問う前に、アルゲン様は答えを与えてくださった。
「今は、神に祈っているのではありません」
「では、何に?」
「ここでは、三人…… いえ、二人の尊い方が亡くなったのです」
それが誰だったのか。なぜ、何故人数を言い換えたのか。
分からないことは幾つかあったけれど、その意味を呑み込む前に、口から勝手に問いが出た。
「親しい、方々だったのですか?」
「そう問われると、非常に難しいですね」
ふ、と笑った彼は、肩越しに視線だけ投げてきた。
その目は、小さな子供の質問にどう答えようかと迷う大人の目。昔、散々向けられたその困ったような視線に、少しだけムッとする。
「一人の方とは、面識はありましたが親しいというほどではありませんでした。もう一方の方とは、よく顔を合わせてはいたのですが……ある意味、一番遠い人だったのでしょう」
要するに、二人とも親しくなかったということじゃないのか?
そう考えたのが、おそらく顔に出ていたのだろう。白い賢者は、再び小さく空気を揺らした。
そして、とんでもないことを口にし始めた。
「正直、こんな場所で失われてしまった彼ら自身のことを、私は愚かしいと思っているのです」
「は?」
「彼らがそれぞれに築いてきたものも、それを支えてきた周りの人間の献身も、何もかもが一瞬で無駄になってしまった。彼ら二人が失われたのは、彼ら自身の責任。無念でしょうが、本人たちは結末を呑み込むことが出来るかもしれない。だが、彼らを囲んでいた人々は? 何年も護り尽して来た存在が、取るに足らない理由で失われたという喪失感を、何で埋めれば良いというのでしょうか」
私は、黙って彼の白い背を見つめた。
「彼らの死は本当に迷惑で、私は腹立たしくさえ思っている」
「………」
「けれど、彼らが失われたことを、心の底から惜しんでいる。それも、私の心なのです」
「だから、祈るのですか?」
「ええ」
アルゲンは、もうすでに視線を前に戻していたので、その表情を窺い知ることは出来なかった。
ただ一つ言えるのは、白く長い髪と衣装、そして真っ直ぐに伸びた背中は、揺らぐことを知らないように見えたということ。
多分、彼はただ言葉を吐き出しただけなのだろう。
私に語りかけた訳じゃない。祈る、ついでのようなもの。
きっとこの人は、そうやって己の内にあるものを噛み砕いてきたのだ。年齢を重ねた、こんなに周囲から認められた人間でさえ、そういう術を必要としている。
私には失われたという二人の人間のことも、彼が何を無念に思っているのかも分からないし、理解する気もない。
でも、この部屋に入った時、悪いことをしたと思った理由だけは分かった。
きっと、これは立ち会ってはいけなかった時間。朝霧に包まれたまま、覆い隠されなければならない一時だったのだ。
「貴女は、祈らずにはいられない、そんな経験がありますか?」
最後に、賢人は私に問うた。
「ありません」
「それは、残念ですね」
彼は振り向かないまま言った。
本心からの言葉かどうかは知らないが、声だけは、心から残念だと思っているようだった。




