11. 思い出したくもない日と、負け犬の遠吠えの話
人間誰しも、二度と思い出したくない日というのがあるだろう。
私の場合は、あの日だ。
初恋の、貸本屋の青年が突然いなくなった日。
――― 『閉店』。
その文字しか書かれていない、味もそっけもない張り紙。
それを前に、呆然と立つしかなかった私に、
「あいつはね、好きな女を追いかけて行ったのさ」
ご親切にも、そう教えてくれたのは、隣の文房具屋のおじさんだった。
「馬鹿だよなぁ。素直になれなかったばかりに、あの娘が遠くへ行っちゃってさ。いつまでも自分を放っておくような男の傍に、女がずっと居てくれるわけないのに。人間ってのは、どうして無くさないと、大切なものに気付けないのかねぇ」
見失った大切な女性を、貸本屋の青年はずっと探し続けていたそうで、つい先日、やっと彼女の行方が分かったそうで……。
「あの馬鹿、今度は自分の気持ちを、正直に伝えられるといいんだがね」
おじさんは笑いながらそう言ったけれど、窓ガラスの向こうに掛かる重いカーテンを見つめていた私は、無様な言葉を殺す為に唇を引き結ぶことで精一杯だった。
屋敷に帰った私は、図書室に向かっていた。
手には、青年から譲り受けたあの本。
自室で大切に保管していた本だが、もう目にするのは辛かった。かといって、捨てることも出来ない。
迷った私は、図書室の書架に移動させることを思い付いた。あそこならば、本を無駄にすることもないし、普段あまり使わない棚に置けば、目にすることもないだろう、と。
今思い返すと、あの頃が私の女子黄金時間だったように思う。
――― 初めての恋と、失恋。
柔い乙女心はざっくりと傷付き、かつてないほどの痛みを逃す術もなく、ただ打ちのめされていた。
ゆえに、いつになく注意力が散漫になっていたのだ。
私は、図書室へ続く階段で異母弟と行き会ったことに気付かなかった。
あまつさえ、すれ違いざまに彼とぶつかるという失態を犯した。
気付いた時には遅かった。
手にしていた書籍が階段に落ち、大半の頁が無残に散らばる。
誰にも借りられていないと青年は言っていたけれど、古い本であったには違いない。落ちた衝撃で、紙を繋いでいた糸が切れてしまったのだろう。
(早く、拾わないと)
そう頭では分かっていたけれど、何故か身体が動かなかった。気力が湧かなかったのだ。
ただ、床の上で本の体を為さなくなった紙の塊を見つめるだけの私。
先に動いたのは、レナードだった。
彼は破れかけた表紙に手を掛け、本を拾い上げた。無造作なその仕草で、本から離れた頁が、はらはらと乾いた音を立てながら新たに散っていく。
もはや残骸というべきそれを胸元まで持ち上げたレナードは、やがて背表紙に当たる部分で視線を止めた。張り付けられた印章に気付いたらしい。
青い地に鈴蘭を描いたそれは、あの店の紋章。本が、貸し本であることを示すものだった。
その日その時まで、同席するようにと義務付けられていた食事の場以外で、顔を合わせる機会などほぼなかった弟という存在。
貴族然とした佇まいと、無感情にこちらを見る綺麗な貌だけが印象的で、会話をすることなど皆無だった。
その異母弟が、
「――― は」
笑った。
いや、嗤ったのだ。
「こんなものを、不相応に」
背表紙を見るレナードの面には、明らかに侮蔑の色が浮かんでいた。
彼はその感情を、固まったままでいた私の方へと、そのまま流し移す。
綺麗な貌。
レナード――― “愛すべき者の子”という意味の名を持つ、半分だけ血が繋がった弟。
そして、そんな全てに恵まれた人間から、明確な意思でもって、告げられた一言。
「こんなもの、あなたには相応しくない」
初めて貰った言葉は、いつになく柔になっていた私の心を、更に抉るものだった。
震えそうになった唇に歯を立て、押さえこむ。
無意識に、自分のものではないかのような低い声が零れた。
「――― お前なんか、」
直後、素早く立ち去ることしか出来なかった私は、負け犬のようだったに違いない。
彼はそんな異母姉の背中を見下ろしながら、嗤い続けていたのだろうか。
思い出したくなかった、最悪の記憶。
だから、忘れてようとした。そして事実、忘れていた。
人が持つ精神の浄化作用って、本当に凄い。そう感心する。
でも、思い出した今では、あの後、辿り着いた自室で流した涙の味までもが、はっきりと舌に蘇る。
無様だ。
こんな歳になっても、小さな子供からくらった一言で揺らがされるなんて。
「嫌いだ」
お前なんか、大嫌いだ。
真夜中に独り、死んだ異母弟のものだった寝台の上で、私はあの日と同じ台詞を、唇で形作る。
――― 負けたくは、なかったのに。




