序章─天人に選ばれた少年─3
少年は男が自分の目の前から去っていったのを知るや、立ち上がり、土を払うこともせずに再び走り出した。
天竜の悲痛な嘆きを訴える鳴き声が少年の頭に響いて離れない。少年は、混乱状態に陥った生きている人に冷静になって欲しい気持ちを心中に思うが、子供の自分が言っても説得力はない。だが、冷静を欠いているのは自分以外だけではなく、自分自身だった。天竜のことが何より心配で堪らないだけではなかった。天竜の嘆き悲しむ声を誰よりも聞いているのは、紛れもなく彼だけだったからだ。声に誘われるように、走りすぎて鳩尾が痛もうとも、足が悲鳴を上げようとも、少年は天竜の元へ向かった。
少年の長い前髪から、強い輝きを放つ金色の目が覗く。
彼には血の繋がった実の両親は居なかった。だが、物心つく前からヘーゲリッチで育ち、育ての親である老夫婦の家で暮らしていた。だが、その老夫婦は賊によって惨殺されていた。ヘーゲリッチの長であった男、ジールは、妻のグランセと共に謎の飛空船の出現で民達が騒ぎ立てているのを聞き、少年に家から出るなと強い口調で伝えた後、家から出ていき、殺された。老齢でありながら背筋がしゃんと伸びた夫婦は、無惨に切り殺されていた。それを言い付けを守らず家から出た少年は目撃していたのだ。
少年は殺された二人のことを頭の隅に追いやろうと躍起になっていた時、少年の体力が底を尽き欠けてきたのか、よろよろと覚束ない足取りで歩み始めている。
少年の眼前に、石台が映し出される。祭壇のような、神聖な空気を感じた。端から見れば殺風景なのかもしれない。しかし、ここの空気は全くといって違っていた。
突然、風が吹いた。風は益々強くなっていき、少年は瞼を閉じた。
「――汝は何を欲するか」
凛とした声が少年の耳に届く。
少年はゆっくりと目を開き、目の前にいる存在を視界に入れる。
翡翠色の、巨大な翼を生やす、尾の長い竜。少年と同じ色の金色の瞳には、少年の顔が映っている。
「――汝は何を欲する」
少年は天竜の問い掛けを聞き、理解し、自分が欲しい物を伝えた。
「俺は、強くなりたい。もう誰も傷つかせない、苦しませない力が欲しい。そして、俺は世界を守りたいんだ。……世界を守れる力が、欲しい」
「――汝の願い、我らは聞き入れたぞ。汝の名は何という」
「――フェニードル。フェニードル・クレイステン」
「――フェニードル。その名を我らは心に刻もう。……我らは汝に力を与える。心して受け取るがいい」
少年、フェニードルの周りに風が吹き荒れ始めた。風はフェニードルを包んだと思えば、淡い緑色の波動がフェニードルの身体に入り込んできた。フェニードルは、言い様のない強い力を体内に取り込み始め、疲労感が募っていた身体からは疲労感が抜けていき、血の滲んだ掠り傷すら完治していった。治癒を施したのは、『風』だった。そして、フェニードルは風の声を聞く。
『……僕達が、君を助けるよ』
「……え?」
フェニードルは金色の双眸を驚いたように見開き、静かに自分の周りに吹く風を見ていた。
微かに風が笑ったような気配を感じる。不可思議な現象を体感したというのに、不思議とフェニードル自身も笑みを溢した。
背後から爆音が聞こえてきた。
フェニードルは背後を見て、黒煙が立ち上っているのを目にする。
「――フェニードル。我らは汝をこの地から遠ざけよう。風は汝の味方になってくれる」
再び風が吹き荒れた。フェニードルを包むように、ゆっくりとフェニードルの身体は上昇していった。
「――フェニードルよ。汝は我ら『天竜』の魂を授けられし人――天人。汝は力をつけ、強くなる存在だ。そして、約束をしよう。汝が強くなり、成長した時、この地に再び来て欲しい。……最後の約束を聞いて欲しい。『輝光賊』を解体し、その賊頭であるケーフェスを抹消して欲しいのだ」
天竜はフェニードルにそう伝えた後、直ぐに風を操り、フェニードルを遠くへ運んだ。
「――頼んだぞ、フェニードル。……我ら天竜の『子』よ」