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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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 追分宿から軽井沢を過ぎて江戸へと向かう二人の前には、中山道最後の難関となる碓氷峠が控えていた。


 峠の頂はおよそ四千尺の高さにあって、江戸から上る者にとってのみ天下の倹たる様相を見せていた。


 京から江戸へ下る者にとってはそれ以上に標高の高い峠をいくつか越えてきたことと、最も天に近い和田峠は標高五千三百余尺でも、始まりの下諏訪宿から和田宿まで行程五里十八丁その間の高低差は二千六百余尺と、一日をかけて通る分には然程大変というほどでもない道程に比べて、坂本宿から軽井沢宿に至る道筋は行程二里十六丁の間に高低差二千三百余尺という、目を疑うような難路であった。


 二人の目指す江戸へは、かなり急な下り坂でしかなかったから、宿場の間が短く楽な道行きに思えたが、これが逆向きの行程なら女がどんな顔をして坂を登ったことかと、内心笑いを堪えていた薬売りが言った。


「この峠にゃ、恐ろしい妖が出るそうな。」


「また妖かい、ここらにゃ人より妖の方が余計に棲んでるんじゃないかね。」


「なんでも日が暮れてここを通り掛かると、後ろから抱き付いて峠の下まで転がり落ちるって話だ。」


「じ、冗談じゃないよ、こんな崖を下まで落ちようもんなら、そのままあの世行じゃないか。」


「そういうこった。」


「で、その妖にゃ、名はあるのかい」


「おうさ、土ころびっていうらしいぜ。」


「やだやだ、あたしゃそんなのと道行なんてご免だね。」



 

 軽井沢の宿を未明の七つに発った二人は、下り坂の利を活かして一気に坂本宿を過ぎ、更に二里十五丁先の松井田宿を目指した。


 松井田宿は本陣二軒脇本陣二軒飛脚問屋二軒を擁する、近郷一の規模を誇る大きな宿場である。


 旅籠の数こそ坂本宿には及ばなかったが、それは碓氷峠を控える宿場としては当然のことで、大井川を控えた東海道の島田宿には及ばないものの、街道を行き交う人にとっての避難所といった意味合いが強かったから、これは例外といったところだろう。


 十五軒ほどの旅籠が櫛比する宿場町は、二人と同じように碓氷峠を越えて一気に松井田宿までたどり着いた旅人もいたようで、草臥れ果てた姿のまま旅籠の呼び込みに腕をとられて中に連れ込まれていく者もいた。


「あれじゃ護摩の灰と同じだな。」


「あ、あたいはあんな阿漕な真似はしなかったさ。」


「ふん、どうだかな。」


「そんなことより、今日はどこに泊まるんだい。」


「おめぇさんにゃ悪いが、今晩の泊りは旅籠じゃねぇや。」


「まさか、野宿ってわけじゃないだろうね。」


「そのまさか、と言ったらどうするんだ。」


 無言で睨みつけて来る女の視線を躱して、薬売りは脇道へと入って行った。


 慌てて追いかける女を視線の端に捉えながら、男は尚も足を速めて旅籠の裏から畠へと続く細い道を黙々と歩き続けた。


 畠が終わり、やがて藪に差し掛かろうとする辺りに、小さいながらもよく手入れされたお堂が現れた。


「ここが今晩の宿ってわけだ。」


「お堂に入り込んでもいいのかい。」


「構わねぇさ。というより、おめぇさん、信濃の生まれじゃねぇのか。」


「なんでそんなこと聞くんだい。」


「信濃の冬は凍えるからな。旅人を凍え死にさせないための善根宿でもあるってこった。そんなこたぁ信濃の者なら誰だって知ってることだろ、違うか。」


「そりゃ、聞いたことあるけどさ、こんなによく手入れされてるお堂なんて見たことないもの」


「ま、これにゃわけがあってな。」


「なんかあるのかい、ここ。」


「おっと、着いたぜ。」


 女をはぐらかす様に言った男は、お堂の扉を開けて中に入ると、まず本尊に合掌して何やら唱え始めた。


 それは女には覚えがなかったが、女の身体から妖の子種を取り去る折に唱え続けていた薬師真言だった。


 訳が分からないなりに見様見真似で本尊に合掌した女は、男が真言を唱え終えるのを待って尋ねた。


「あんた、やっぱり御行じゃないのかい。」


「だから違うと言ったじゃねぇか。」


「ただの札撒きがお経なんて知ってるもんかね。」


「おいら、薬売りだ。薬売りとお薬師様にゃ深ぇ縁ってもんがあらぁな。」

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