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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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 気を失ってぐったりしている女を肩に担ぎあげて、薬売りは二町ほど先に見えるこの辺りの百姓の納屋を目指して歩き始めた。


 途中、軽井沢から小諸陣屋一帯を彩る蕪の畑を通る。


 信濃も東端にあるこの天領は、近くを千曲川という大河が流れているにもかかわらず、灌漑用水に窮していた。


 その理由はこの地形を見れば一目瞭然で、千曲川から別れた支流ですら田畑のはるか下を流れて、継続的に必要な農業用水を揚げる技術がなかったからというに尽きる。


 古来地味に乏しい信濃では、国としての括りが広大であることに反して、石高は異常に少なく、戦国時代を振り返っても信濃一国を単独で支配できた領主は存在しなかった。


 常に近隣諸国の侵攻を受けて、領主や家臣団はもちろんのこと、領民たちも疲弊しきっていた。


 徳川家康が江戸に幕府を開いてからもその傾向は変わることなく小藩の乱立を許していたが、碓氷峠を控えてさらに標高の高くなるこの一帯は開幕当初から天領とされて、百姓たちは小藩の領主たちによる搾取に喘ぐことなく暮らしてきた。


 しかし、江戸期を通じて天領の年貢率は四公六民が標準であったが、表石高に対しての実収が極端に少ない軽井沢近辺では二公八民とされてもまだ暮らしを立てることが容易ではなかったようで、生まれた子供のうち無事三歳の誕生を迎える者は珍しく、成人して後、男は江戸へと流れて働き口を求め、女は近在の遊郭に売られることが絶えなかった。


 この女も、こういう土地柄から護摩の灰の真似事をするようになったかと考えながら納屋の戸を引き開けて女を藁の上に下ろした薬売りは、女の左の身八つ口から入れた手を背の方に回して、帯の結び目の下に隠してあった巾着を抜き取った。


 しばらく女の顔を見ていると、大きく息継ぎをして女が目を開いた。ここがどこか分からぬように周りを見回して、目の前にいる薬売りに気が付いた。


「あ、あんた誰だい。」


「おいらは見ての通り越中富山の薬売りさ。」


「・・・・・。」


 女は何かを思い出すように薬売りの顔を凝視していたが、ふいに大声をあげた。


「さっきの・・・。さっきのあれは何だったんだい。」


「あれ。あれというのは何のことかな。」


「とぼけるんじゃないよ。」


 薬売りの胸元に掴みかかって、尚も女は叫ぶ。


「さっきの黒いカナヘビ。あれにゃ顔があったじゃないか。」


「へぇ、そうだったかい。」


 薬売りはさも知らぬという素振りで呟いた。


「あ、あんなモノがなんであたしにくっ付いてたんだよ。」


「だから、何の事だか分からねぇって。」


 問いかけを無視して、薬売りは更に一言女に呟いた。


「おめぇ、名はなんて言うんだ。ここらじゃ見かけねぇ顔だな。」


 不意に現実に引き戻された女はぐっと生唾を飲み込んだ。


「知っての通り、護摩の灰は盗っ人だ。代官所に突き出せばおいらにゃ報奨金が入ってくらぁ。もちろん、たんまりってわけにゃいかねぇがな。」


「何のことを言ってるんだい。あたしにゃ関係ないことだよ。」


「ほぅ、そうかい。じゃ、さっきの立山講の巡礼から抜き取った巾着はお前の仕業じゃないってことだな。」


「あ、当たり前じゃないか。あたしがそんな悪さ、するわけないだろ。

 第一、巾着って何のことだか分からないね。」


 シラを切り通そうと言い抜ける女の目の前に、薬売りは先ほど女の背から抜き取った巾着をぶら下げて見せた。


 女の顔色がすっと白くなり、目が細められると、手甲の下から鋭利な錐のような刃物を出して薬売りに切りかかった。


 が、女の手と刃物は薬売りの顔にわずかに届かず、勢い余って体制を崩したところを逆に抑え込まれてしまった。


「ほら、ふざけるんじゃねぇ。」


 利き腕側の右肩を膝頭で押さえられて、女は苦痛に顔を歪ませながら声をあげた。


「てめぇ、こんなことして只で済むと思ってるんじゃないだろうね。」


「ほぅ、この成り行きでまだ強気だな、おめぇさんも。」


 呆れたように呟いた薬売りは、諭すように続けた。


「この巾着を持って陣屋へ行こうか。そうすりゃおめぇさんが言ってることが嘘か真か分かるってもんだ。ついでに江戸から来た巡礼の様子も言い足せば、もっと手っ取り早いかねぇ。」


「そんなことしてみやがれ。ただじゃおかないよ。」


「するってぇと、この巾着は陣屋の役人に渡さなきゃなんねぇか。それじゃちっとばっかり面白くねぇな。」


 女の抗議の声を無視して、薬売りは独り言を続けた。


「やっぱり、軽井沢の宿場に飯盛り女として売った方が旨味があるか・・・。」


「な、何を・・・。」


「なぁ、おめぇ。名はなんというんだ。」


「ふんっ。知らないね。」


 足掻く女を更に力を込めて押さえつけて、薬売りが懐から匕首を抜き出した。


「じゃ、逃げられねぇように、ちょいと怪我してもらおうか。暴れさえしなきゃ大怪我にはなんねぇからよ。じっとしてな。」


「ち、ちょっと何する気だい。やめな。やめなってばさ。」


「ほら、じっとしてりゃすぐ済んじまうよ。」


「やめろ。 やめてー。 いやだー、やめてよー。」


 張り詰めていた心の糸が切れたように、女が鳴き声を上げ身を震わせた。


 それをまるで意に介さず、薬売りは女の着物の裾を捲りあげて太ももをさらし、肩を押さえているのと反対の足で女の右足の踝を搦めとって固定した。


 女は恐怖に震えながらも抵抗をやめようとはしなかったが、薬売りは更に腰巻を捲って女の秘所を露わにしてそこに狙いを定めたように匕首の先を突き立てた。


「・・・・。」


 激痛が襲ってくると半ば覚悟していた女は、痛みの感覚が麻痺したのかと勘違いした。


 薬売りの持つ匕首がどこを目がけて突き立てられたか、見えなくても女には分かった。


 分かったはずが痛みを感じないことに拍子抜けして気を緩めた女の目の前に、匕首の切っ先に貫かれた蜘蛛のようなものが下りてきた。


 それは初めに見た蜥蜴のように黒く、そしてやはり、人の顔がついてギーギーと鳴き声を上げていた。


 そこまでが、またしても女の限界であったように、意識が途切れた。


「けっ、この女、全身に憑りつかれてやがる。」


 呟いた薬売りは女を押さえつけていた膝を外して立ち上がると、また顔の付いた蜘蛛を両手で挟み込んでフッと息を吹きかけた。









 

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