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京の都三条の橋を起点にして、大津、草津、守山を経て近江の国を縦断し、今須宿から美濃の国へと入っていく中山道は、総延長百三十五里三十四町で江戸日本橋までを結ぶ。
現在の距離にすれば五百三十七キロメートルで、起点と終点を同じくする東海道と比べると九里二十八町、およそ三十八キロメートル長い行程であった。
往時は姫街道などと呼ばれたが、これは東海道に比して楽に移動できるという意味ではなく、将軍家に輿入れする京の宮家の姫君が中山道を利用したからこのような呼び名がついただけで、全行程中平地を進むのは江戸と近江の一部のみで後はひたすら山道を行くことを考えれば、その名称のおかしさを痛感したことだろう。
その中山道追分宿を過ぎて沓掛まであと半里という辺りの街道脇で、巡礼姿の男たちが松の根方にうずくまる女を介抱しながら困り果てていた。
袖すり合うも多生の縁とはいえ自分たちの旅の里程も稼がねばならない巡礼たちにとって、これはとんだ災難である。
御仏の加護を求めて越中立山に参詣する目的で講を組んだ彼らは、江戸神田の裏長屋に住む町人の代表として巡礼に出てきていた。
総勢百人を超える講中は同じ大家が差配する複数の長屋の住民で、そのうち籤に当たった十二人であった。
「姐さん、おいらもずっと介抱してやりてぇんだが、今日の泊りはまだ五里も先の坂本って決まってんだよ。」
「でもよぅ、こんなに苦しんでるんだぜ、このまま放っとくわけにゃいかねぇだろ。」
先ほどから同じやり取りの繰り返しなのだが、元来が気のいい連中のこと無碍な扱いは出来ないと困っていた。
街道は日も高くなって往来の数も増えてきたが、旅の途中でもあることから気軽に助けを申し出る者もいない。
誰かが手を貸そうと申し出てきたらそいつに任せて逃げ出そうと考えていると、追分の方から背に負った大きな荷物に目立つ幟を付けた男が巡礼たちに向かって近づいてきた。
「おぅ、いいところに越中富山の薬売りが来てくれたぜ。」
講の中でも一番の年嵩の男が、腹を押さえて苦しむ女に声をかけて安心させようとした。
「もう大丈夫だよ、姐さん。薬を商ってるんだから、癪に効くのもあるだろう。」
「重ね重ねお心遣いかたじけのうござります。」
言いながら立ち上がろうとした女がよろめいて、年嵩の男に抱きとめられる格好になった。
「これはご無礼をいたしました。お許し下さりませ。」
女が再びうずくまって詫びるところに薬売りの幟を立てた荷を担いで、行商の男が急いでやって来た。
「お困りのご様子と見まして急いで参りました。お女中さんと巡礼の旦那様方はお知り合いでございますか」
「いや、おいらたちが歩いてると、この姐さんが苦しんでるもんだから介抱してたんだけどよぅ、どうしたもんかと途方に暮れてたところだったんだ。」
「そうそう、薬売りの兄さん。いいところに来てくれたぜ。」
「お見かけしたところ先を急がれておられるご様子。ここは手前が引き受けますのでどうぞ先に行かれて下さい。」
薬売りの言葉を待っていたとばかりに巡礼姿の男たちは我先にと街道へ出ていった。
最後に年嵩の巡礼がひとつ頭を下げて仲間に追いつくように走って行った。
松の根方では女が額に汗を流して苦しんでいるが、薬売りはそれを無視して声をかけた。
「姐さん、もう芝居はやめな。」
「な、何を・・・。」
「だから、もう苦しんでる芝居はいいんだって。」
「そなたは何を言うのですか。うぅっ・・・。」
「巡礼の旦那方ならもう行っちまったぜ。第一癪ってのはそんなに長く続くもんじゃねぇんだよ。もういいだろ。」
そう言いながら、薬売りは女の襟足に手を伸ばして何かを摘み上げた。
キキキキキッっと鳴くそれは、蜥蜴のような形で真っ黒な体に尋常でない顔が付いていた。
「何すんだよ、気持ち悪いね。カナヘビなんぞを近づけるんじゃないよ。」
振り返った女の顔の前で薬売りの摘まんだそれは、尚も鳴き声を上げながら身をよじらせていた。
それが目に入った女の息が止まった。
「はわわわわ・・・。」
「これが何だか分かるかい。」
「顔。顔があるよ。」
「そうだな。」
「なんでカナヘビに顔が付いてるんだよ。」
女が驚いたのは、薬売りが摘まんでいる蜥蜴のようなものに人のような顔が付いていたからだった。
一目見ただけで悪寒が走るその姿は、決してこの世のものとは思えない声で鳴き続けていた。
「蜥蜴に顔なんぞ付いてるかい。」
「・・・・・。」
「姐さんにゃ、そう見えるのか。へへへへ。」
女の正気はそれが限界だったようだ。ふっと体の力が抜けて倒れこんでしまった。
「小悪党のわりにゃ気が小せぇな、こいつ。」
薬売りは摘まんだ顔の付いた蜥蜴を両手の間に挟み込んで、フッと息を吹きかけた。
するとそれは薬売りの掌に黒い染みを残して姿を消していた。
「さて、この女どうするかな。」