時に及びて穿つ雨、鉄面孔目相対す
宛城が聳える、南陽の街はひどく荒れていた。まるで土塁か何かのような粗雑な造りで築かれた城壁もさることながら、家々の荒れ具合は筆舌に尽くしがたいものがある。土と泥で出来た壁では雨を満足に凌ぐこともできず、さぞかし冷えることだろう。僕は「なんとかしてあげたい」と思うものの、己の無力をただただ痛感するばかりだった。この僕一人の命や生活で手一杯である。小雨が冷えた身体を打つ。寒気がした。
何もできないくせに。
「なんとかしてあげたい」こう思うことは、果たして偽善なのだろうか。
かつて長安を中心とし権勢を奮っていた董卓、次いで権力を掌握した董卓の残党や呂布、王允、張済様々な勢力が台頭しやがて消えていった。これはアンにわざわざ聞かずとも理解しているところだ。『三国志演義』を何度か読み直したにすぎない僕でもおおよその流れと人物関係は理解している。――ただ史実での曹昂と曹安民の関係までは僕も全くもって把握していないので、参考にするものがなく少々その距離感をつかみかねている。いや、参考にするものがないからこそ予断が入らなくて良いのかもしれないが。逆に。
こうして街を歩いているのには理由がある。早朝、いつになく神妙な面持ちのアンから
「しゅーちゃんに紹介したい人がいるの……」
と切り出され、無計画にもアポなしでその方の御宅を訪問することになったのである。
――大丈夫なのだろうか。
――まさか彼氏じゃないだろうな?ここは「家族」としてよくよく吟味する必要があるだろう。――べ、別にいじわるしようなんてつもりはないデスヨ?そういうイジメはスポーツマンシップに反すると思う。やるなら正々堂々と。
「疲れてない?」
「全然平気だ」
「もうすぐ着くから……もう少しだけ頑張って?」
僕の身体を気遣ってくれているのだろう。典韋にやられた脇腹がまだ少し痛む。しかし歩くくらいでは全く支障はない。
「僕は大丈夫……そういえばその方の名前は何ていうんだ?」
未来の婿かもしれない。デスノー……じゃなかった、僕の頭のノートにしっかり書き込んでおかねば。というか、それ依然に名前も知らずに行くなんて失礼だ。これでも僕は最低限の礼儀を心得ているつもりだから。
「ひ・み・つ」
「はぁ……」
まあいいか、あえて知らせないで済ませるところを考えると、相当気の置けない間柄なのだろう。
「あっあれ……大変だっ!」
アンが何かに気づいたようで、ある一点を指差す。その方向を見ると、眉のキリッとした気難しそうな若い細身の男性が腰の刀剣に手をかけようとしていた。その前にはややふくよかな中年の男性が必死の形相で仁王立ちをしている。穏やかな顔立ちを鬼のようにしていた。
大声で言い争っているため周りには人だかりができ、会話の内容が筒抜けだ。
「邪魔だ、そこを退け。そこの納屋に匿っている男を斬らねばならない」
太い眉の細身が強い語気で迫る。色白の肌が赤味を帯びるほど、怒気を露わにしていた。
「……男?まだ少年ではないですか?断固としてお断りする。私のような粗忽者を慕って従いてきてくれた同志をどうしても斬りたいと仰るなら、まず私を斬ってからにしなさい」
中年は譲らない。よく見れば、その年齢に相応しくない皺がいくつか刻まれていた。
「南陽の治安を与る、それがしを知らぬわけでもなかろう?法とは絶対。悪いことは言わない。降将の分を弁えてもらわねば困りますな」
「法が何だというのです?貴方は血の通った人間だ、たかが法如きで道を誤って良いのですか!?」
「盗みを働いた者は死。法にはそう在る。子供であろうが老人であろうがそれは同じだ。それがし、于文則の前でそのような不法は許されない。退け、そやつを斬る」
「嫌です」
中年は依然、譲らない。見た目に反して気骨があるようだ。
ついに男は抜刀した。人混みから悲鳴が上がる。
「おぉっ!?」
刹那、アンは僕の手をグイッと引っ張って、鬼気迫る形相で二人の間に割って入った。人だかりが割れていく。モーゼの気持ちになった。
「ちょっと待ってっ!争わないでっ!」
「安民っ!?」
「曹安民殿……」
二人は驚き、細身の男はすぐさま抜刀した剣を鞘に戻した。
どうもアンと彼らは旧知のようだ。僕は男が「安民」と読んだのを聞き逃さなかった。我ながら耳聰い。
「……何だ、今は忙しい。後にしてくれ」
「やめてよ、文則。何があったか知らないけど、こんな街中で物騒なマネはやめて!」
するとすぐさまアンを押しのけ、前に出る中年の男。僕も負けじと前へ出る。意図はしていない。身体が勝手に動いていた。
「……曹安民殿。お下がりください。危ない」
「張繍殿、お気遣い無用です。文……いえ、于禁殿は見境なく斬るほど頭の悪い人間ではありませんから」
于禁?ってあの于禁か?うわー割と有名人きた……。
アンは更に押しのけ僕らよりも一歩前に出る。
恐ろしく凄んでいた。こんな顔もできるのだと僕にはちょっと衝撃だった。伊達に戦国乱世を生きてはいないということか。
……え、というか張繍!?このいかにも優しそうなおじさんが?もっと悪い奴のイメージあったんだけどな……意外や意外。この人が僕らを手にかける(はずの)「敵」?信じがたい。
「そ……そうですか」
「文則。キミ、そんなにやりたい放題出来るほどエラいの?」
しばらく思案顔の于禁だったが、
「ふんっ……止むを得まい」
と、語気を落とした。先程までの殺気が嘘のように消えていた。
「っ!?」
すごいな、アン。
「どうせ犯罪人の目星は立っている。確かに独断ばかりではまずい。ひとまず殿にお伺いを立てるとするか」
「……退いて下さるという事ですか?」
「そう申し上げているつもりだが?」
「かたじけない」
「だが張繍殿。執行を妨害した罪は重い。この場は見逃してやるが、追って沙汰があると思って頂こう」
「承知しました、甘んじて受けましょう」
張繍は一礼したが、件の少年がいると思しき納屋の傍を離れない。
于禁はその様子を見、眉間に皺を寄せながらアンと僕の方に向き直った。
「それからそこの御二方」
「ん?」
アンはいつも通りのあどけなさの残る、呆けた顔をしていた。僕は少しホッとした。
あのままのアンだったら嫌だと思っていたからだ。付き合いにくいし、何より怖い。
「え、僕にも何かご用ですか?」
「そうだ、若殿。ご案内する」
「えっ」
「えっ?じゃないのっ!行くよ」
「はぁ……じゃあお願いします」
こうして于禁(多分あの有名な「于禁」だと思う)に連れられ、僕達はその場を後にした。
次第に小さくなる張繍が納屋に向かって、何か語りかけていたようだったがよく聞き取れなかった。
その穏やかな微笑みが印象的で――「敵」だとはどうしても思えないのだけれど。
あの人をいずれ倒さなければいけないのだと思うと、胸が痛いのだった。