遠水は近火を救わず
雨はすっかり上がっていた。郊外の小高い丘の向こうにはうっすら太陽が顔を出している。
次第に平静を取り戻しつつあった空だが依然、曇りは晴れないままだ。視界もあまり良いとは言えない。生暖かい風が吹きさらしの一室をさらった。甲冑を外し、藍の着物に着替えたアンの後ろ髪がわずかにたなびいていた。その脇には髭面の大男が胡座をかいて座っている。
もう一雨来るかもしれない、そんな気がしていた。
「話はお嬢からだいたい聞いた」
うんうん、と頷くアン。腕組みをし、眼を瞑る典韋。僕はといえば、典韋の審判を仰ぐかのようにじっと典韋を見つめていた。実際そのくらいの心境だ。
アンはきちんと話をしてくれたのか。信じたいところではあるが、何しろアンだ。
少し、いや非常に不安である。「ふざけてんじゃねえぞ、青二才!」とか怒鳴られ、その場で短い生涯を終えることも無きにしもあらずである。そのくらいの典韋の背丈と迫力。まさに戦々恐々だ。
「はい……典韋さんの力が必要なんです、助けてください」
「ぐぬう……残念だが、本当にお嬢の言った通りのようだな」
典韋は諦念の入り交じった、落とした声でため息をつく。
「……はい」
「こりゃよっぽどの重症だな」
「へ?」
「「え?」」
僕とアンは思わず顔を見合わせる。
きちんと話が伝わっているのだろうか?
「……あのね、あっちゃん?ちょっと確認していい?」
「なんだお嬢?」
「しゅーちゃんが『てんせー』した未来人だって話したよね?」
「あぁ……全部俺のせいだ」
「え?」
「若が意味わからんことを口走るようになるなんて……嘘や誇大妄想を吐かないこと、見かけや身分だけで人を判断しないことだけが取り柄の若をこんなにしたのは全部俺のせいだっ!すまないっ!」
「へ?」
僕の告白、まさかの嘘や誇大妄想扱い?まあ無理もないか。
というか、「だけ」って何?それしか取り得なかったの、僕?
曹昂しっかりしてくれよ……。
「違うよっ!」
おっ!?アン、いいぞ、ちゃんと言ってやれ!
「シモジモのみんなには優しいけど、名士相手には傲慢で高慢ちきだよ!身分で判断しまくりだよっ!」
アン……そこじゃないよ。否定すべきはそこじゃない。
曹昂イメージがどんどんひどいものになっていく……やめてくれ。
「そうだったな……悪い」
典韋は「失敬失敬」と言いながら、アンの入れたお茶を啜る。
「……」
なんで僕の悪口大会になってるの?ねえ、僕なんか悪いことした?
神様ごめんなさい?
「若、許してくれ。頭叩きすぎておかしくなっちまったんだな……俺が148回も叩いたから……」
168回だ。ちゃっかり20回も減らそうとしないでくれるかな?罪は消えないよ?
少なからず馬鹿になってるはずだし、責任とってくれ。
「僕はおかしくなってなんかない」
「……本当か?」
「心配いらない」
「そ、そうか……」
どうすれば信じてもらえるのか……。典韋は彼なりに責任を感じているようで、申し訳なさげに俯いていた。
そうだっ!
夢のお告げというのはどうか。そうだ。夢のお告げ、ということにそうしよう。
とにかく、まずは死の危険を避けられれば良いわけだからこの場はとりあえずこれで乗り切るしかない。子供騙しに引っかかるわけない、そうお考えだろう。しかし、世は宗教が強く根付いた古代中国だ。迷信、まやかしは使い方によっては強い武器になる。夢だって似たような類だろう。
一応一つの有効な手立てではある。ヒントは僕の好きな曹操の参謀、程昱にまつわる話だ。
程昱は元々、程立という名前だった。ある日、泰山に登り両手で太陽を掲げる夢を見たことから曹操に喜ばれ、その後改名したらしい。他に、昱という名が付く者がほとんどいないこともあって、気になって調べたからよく覚えている。
もしかしたらそのうち本物の程昱にも会えるかもしれない。それは楽しみだ。
とにかく、「夢のお告げ」と言っておけばとりあえず信じてくれるはずだ。僕は「嘘はつかない」評価してくれてるし。なんとかなる……はず。
「典韋さ……いや典韋」
アンによると、典韋には基本的に呼び捨てだったらしい。ならば、直さないと不審がられるに違いない。アンの眼が「あきらめたね?」と語りかけてくるが無視する。こっちの苦労を知れ。
今は僕に対する理解よりも発言に対する信頼の方が優先だ。時間もない。後でゆっくり説得しよう。
それに、あながち嘘ではない。夢(?)のようなものは確かに見ている。ありのままを伝えよう。
「おぉ……ようやく戻ったか若。一安心だ」
典韋は胸をなで下ろした。
「は……ああ。無論だ。ちょっと頭を打っただけだ」
「そうか……良かった。ところで若、俺に話ってのはなんだ?」
「ああ忘れていた。張繍についてだ」
「張繍?……何か不穏な動きでも?」
典韋が予め人払いをしていたようで、下女さんが一人も部屋に入ってこない。
「いや、特にはないが夢を見た」
さぁ、いけるか?
「夢?どんな夢だ?」
「城周りが焼け、兵に襲われる夢を見た。典韋が足がすくんで動けない僕を必死に守ってくれていた」
これは事実だ。嘘ではない。
「……その兵は紫だったか?」
「ああ」
「そうか、成程な。……確かに今の若なら有りうる」
今の若なら有りうる?どういうことだ?
今の僕なら襲われかねないってこと?
一度倒れたわけだから無理もない。
「わかった。実は俺もな、張繍は信用ならねえやつだと思ってた。大して戦いもしねえで降伏しやがったからな。どうも変だと思ってたんだ。何か変わったことはなかったか……俺なりに調べてみるぜ」
「……どうやって?」
「はあ?何言ってんだよ、若。しっかりしてくれ。親方の護衛を任されてるのはどこのどいつだよ?俺だろうが」
「なるほど」
張繍は降伏したばかりで恐らくどこの軍団にも編入されていないはずだ。すると、一時的に曹操が直に率いることになる。となれば曹操に会わないはずはない。その際、張繍に探りを入れてみるということか。もしかしたら曹操にもたらされるVIP情報も聞けるかもしれない。
「親方には一応申し上げておくか?」
「やめてくれ、そうそ……ごほんっ、『父上』に笑われる」
笑われる程度で済めば御の字だろう。下手すれば斬られかねない。
「そうとも限らねえ。夢の話だなんて言ったら案外面白がってくれるかもしれねえぞ?」
「それはやめてって!」
突然、今まで押し黙っていたアンが間に入って、口を挟んできた。
場違いに必死な形相。どうしたんだ……?
「あいつが近くにいたらどうするの?」
「そうだったな、やめておこう。あのいけすかねえ女顔にぞっこんらしいからな、親方は。変な告げ口でもされて若がもし殺されでもしたら死んでも死にきれねえわ……」
女顔?誰のことだ?後でアンにでも聞いておくか。
何か浅からぬ縁があるようだし。
「でしょ?あっちゃん、とりあえず張繍について何かわかったら教えてね?」
「おぅ、任せろ。じゃあな、これからまたお勤めだ。だらだら休みとると相棒に悪いしな」
相棒?……ああ、これはだいたい察しがつく。
「うん、お勤めがんばってね、あっちゃん」
典韋は軽く会釈すると大股で一度部屋から出ようとしたが、くるりとこちらを向き直し、お得意の仏頂面をアンに突き出しこう言った。
「だからあっちゃんじゃねえっていってんだろうがっ!恥ずかしいんだよ、お嬢!」
「「え、今更?」」
この時代にノリ(?)ツッコミを入れようという度胸だけは買うけれど、正直いまいちだった。