意識する距離感と面従腹背
「張繍か……」
張繍。後に曹丕に「よくも兄上殺したり典韋殺したりしてのうのうと生きてられますね」なんてネチネチいじめられたりするかわいそうな人……という印象しか正直ない。しかしこの当時の張繍は曹操と渡り合っていたわけだからそれなりの人物なんだろう。
腕を組み、思案顔の僕に、らしくもなく眉間に皺を寄せたアンが「それがどうかしたの?」と問いかけながら傍らの距離を詰める。
けれど。ちょっとこれは……。
「ち、近いっ!」
「……あ。ご、ごめん、しゅーちゃん」
耳に息でも吹きかけるつもりなのかと言いたいくらい、至近距離なもんだから少し距離をとってもらうことにした。距離感は大事です。
耳打ちしなければならないほどまずい話をしているわけではないし、露骨に耳打ちなんてしようものなら悪巧みでもしているのではないか、と下女の皆さん(召使いさんのことを「下女」と呼ぶらしい。アンに聞いた。)に邪推されかねない。
このようなところではどこから情報が漏れるかわからないから、極力自然に、つまるところいつも通りの「曹昂」を演じなくてはならない。ただアンによると、一度倒れたことはすでにかなり広範囲に伝わっているらしいから、さっきの賈詡の時のようなヘマは二度と犯さないようにしなくては。
それはそうと。いつも通りの僕って何だ?
「あ、ああ……こっちこそごめん……」
ぎこちない関係だと思う。
ここにいるのは従姉弟同士とはいえ、中身だけ見れば完全な他人だ。打ち明けてしまったからこそ、逆に意識してしまう部分もある。
「その……張繍がどうかしたの?」
アンは少し頬を桜色に染めながら、静かに言葉を紡ぐ。慎重に言葉を選んでいるようだ。
おとなしいアンはなんだかしっくりこない。
「あ、ああ。そ、そう。そいつが問題なんだっ」
差し当たり一番問題なのはアンとの距離感かもしれないけれど。
これもこれで生死懸かってるし、割と大事な問題だ。
「ん、どういうこと?確かに、張繍は憎っくき劉表と手を組んで散々おじさまを苦しめてきた強敵だけど……もう降参したんだよ?」
アンはきょとんと小首を傾げる。
「うん、そうだろうな。僕の知ってる歴史でもそうなってる。でもな奴は……」
「やつは?」
「奴は……」
『三国志演義』の記憶はうろ覚えで定かでないけれど。さすがに張繍が曹昂や曹安民、そして典韋を殺した奴だってことくらいはしっかり覚えている。正確にいえば彼の命令で動いた軍だけど。
でも、ちょっとここで立ち止まって考えてみる。
ここで話していいことなのだろうか。「歴史が変わってしまう」だのタイムスリップのSFモノにはありがちなことだけど、ここで「張繍が僕たちを殺す」なんて言ってしまったらそれこそ「歴史が変わってしまう」。
僕の知ってる曹操という男は身内に甘い男だ。そこが織田信長のようでもあり、僕の好きなところでもあるけれど。
とにかく甘い。殺された父の為に虐殺を行なったり、大敗北を喫した将軍を降格程度で済ませるようなそんな男だ。
万が一。万が一、この僕、曹昂の妄言とも取れる発言を信じて張繍を謀殺しようものなら――きっと「歴史が変わってしまう」。
「歴史が変わってしまう」とどうなるか。例えばこの僕、「曹昂が死なない」シナリオ。恐らく、嫡男の僕が死んだからこそ曹丕が「文帝」として登板できたわけで。とにかく僕の知っている歴史とは全く違うものになってしまう。場合によっては僕が「文帝」になることもあり得るわけだ。そんなの務まる気がしないし、それは影響が大きすぎる。
もしかしたら歴史を変えずにいっそ死んでしまった方が世の為人の為なのかもしれない。何より、もう一度転生をやり直せる可能性だってある。どうだろうか、このままおとなしく死ぬというのは?
――いや、無理だ。よく覚えていないけれど、僕は一度死んだからきっとここにいるんだ。痛い思いをしたかもしれない。それなのに何故わざわざ痛い思いをしなきゃいけない?意味不明だ。それに。
なにより、アンが死ぬのを見たくない。これは嘘偽わざる気持ちだ。その為なら、歴史なんて知るもんか。変えてやる。
僕の腹は決まった。この温かみを守る――と。
――えっ?温かみ?
「わぁっ!?」
「どしたのっ!?」
手を繋いだままだった。あぁ……びっくりした。不安だったとはいえ、これじゃシスコンと勘違いされる。
あー危ない危ない。何故か名残惜しそうに、そっと手を離したアンだった。僕のことをそんなに慕ってくれてるのか……有難い。
「ええと、そうだな……どこから話したものか。ちょっと耳貸せ」
「うん」
今度は絶妙な間合いを取るアン。やればできる子だ。素晴らしい。
「張繍は僕の未来ではもう一度裏切る」
単刀直入になってしまったが仕方ない。そんなに時間はないはずだ。
一度降伏してから間もなく裏切るはずなのだから。
原因はええと、なんだっけ?肝心な部分が思い出せない。無理もないよなあ。曹昂がメインのお話なんてないしなあ。
「え、ほんと!?」
「ああ、嘘じゃない」
「う、うん…そうだね。しゅーちゃんはウソつかないよね」
「しゅーちゃんはウソつかない」?この場合の「しゅーちゃん」といえば野村修士の方ではないはずだ。
――何か意味ありげだな?
まあこの際気にしてはいられない。
「あぁ。それでだ、最近変わったことはないか?」
「へんなこと?」
「そうだ。張繍に不穏な動きはないか?」
「えーと……特にはないかなあ。賈詡に探りを入れるか、おじさまに聞いてみるしかないんじゃないの?」
賈詡か曹操って、究極の選択だな。油断できない相手。恐ろしい。――ん?曹操はそうだとしても。
「なんで賈詡?」
「張繍の参謀じゃん、あいつ」
「あ、そっか……そうだったな」
これか引っ掛かってたのは。すっかり失念していた。軍略の天才、曹操が苦しんだのはほとんど賈詡のせいだったな。
あれ――?とすると、さっきのミスって痛恨だったりする?まあそれはそうと。
「……他にいないか?」
「んー。あ、そうだっ!」
「誰かいたか!?」
「ふっふーん、適任さんがいるよん♪」
「誰だ!?」
「こ、声大きいっ!しー」
「す、すまない。で、誰だ?」
思わず立ち上がってしまった。急いで座り直し、定位置に戻る。
にやにやしているアンを見る。
ちょっとイラっときたが、ここはおとなしく教えを乞うことにしよう。お願いします。
「かーんたん、あっちゃんに聞けばいいと思うよ?」
「……え?あっちゃん?」