千里眼の懐刀
曹操が張繍を降した頃、彼は袁紹に臣下の礼を取っていた。
袁紹。幽州の公孫讃を滅ぼした後、豊穣の地、冀州を中心に河北の地盤固めに努めていた。
袁紹は自らの息子たちに勢力圏を割り当て、各自一州ずつ統治させることにした。無論、後継としての能力を見極めるために。袁紹が長子、青州の袁譚、次男、幽州の袁煕、三男、冀州の袁尚、甥、并州の高幹といった具合である。
平原城。袁譚が居城。
しかしながら、現在。その主の名は、袁秀。
袁譚は遠征で不在にしていた。留守を預かる袁秀は長くせめぎ合っていた峰古城が青州黄巾の残党に攻め落とされたとの報を受けすぐさま出陣、瞬く間にこれを鎮圧した。
袁秀。袁紹が娘でありながら、戦場では常に陣頭に立ち、もしも男であったのならさぞかし名を成したであろう……悪くいえばとんでもなくお転婆な少女である。しかし最近になって目の病を患い、弱視となってからは彼女自身、あまり活動的な生活を避けるようになっていた。あくまで彼女自身は、だが。
彼女には己が眼では見えずとも、果ては千里まで届く「眼」がある。その輝く瞳は彼女に寄り添い、彼女もまた片時も側を離れることはない。
宮城の居室、通称「姫の間」はいたるところ、各地からの書簡で溢れていた。
数多の書簡にうもれるようにして座に腰掛ける少女は自慢の黒髪を弄りながら、そわそわしていた。怪しく光る碧眼を少しばかり潤ませ、何やら周りが気になるご様子である。
「高宮?」
少女は不安げに虚空に問いかける。
「ねぇ……高宮?」
「高宮はいますか?」
ため息一つ。やれやれとばかりにどこからともなく現れ、頭を抱える青年。麻の狩衣かりぎぬを纏い、烏帽子を目深に被る青年、高宮はどこか浮世離れした出で立ちをしていた。まさに彼女の「眼」その人である。
「いるよ、いるっての。いつだって近くにいるだろうが。なあ姫さんよ」
「そうですか、それならば良いのですが」
先ほどの表情はどこへやら。澄まし顔を決め込む少女。口調とは裏腹にまだあどけない顔立ちをしており、真一文字に結んだ意志の強そうな唇がどこかちぐはぐな感じがする奇妙な少女。この少女こそ高宮と呼ばれた青年の主、袁秀である。
「……今日は一段と多いな。ざっと150回くらいか、俺を呼んだ回数」
「そんなには呼んでおりませんよ、せいぜい100回くらいでしょう?」
「そうか?そんなもんか、悪かったな。姫」
「あのー」
「ふんっ、許さないわよ。私が貴方がいないと生きていけないことくらい知ってるのに」
「そのー」
「わあったよ、悪かった。悪かった」
「ふんっ、いっーだっ!」
「もう諦めていいかな……それがし吐き気がしてきたのだが。というか耐えられないのだがこの雰囲気。もう帰りたいのだが」
手首を縛られた男が嘆息し、遠くを見つめていた。捕られ、引き出され、何をされるかと思えば、ただ放置されるという意味不明な仕打ちに男はただ当惑していた。
敗軍の将。語る言葉なし。男は死を覚悟する……いや、しているのだが、この放置は逆に堪えるものがある。
「あっ、悪かったな、顔醜。まるでお前がいないかのようにくつろいじまって。しかしなーお前の部屋居心地良いな、さんきゅっ」
「顔良だ、馬鹿野郎。間違えんな」
「あ、めんごめんご」
「はぁ……よくわからんが、お前が本当に高宮殿か?なんでも人心を惑わす邪教の徒ともがらであると聞き及んでおるが」
「ん?邪教だって?ひでーな、邪教じゃねーよ。千里眼だ、千里眼。しかも使えるのは俺じゃねえ、姫様だよ。俺はちょっとばかりその手助けをしてるだけだ」
「千里眼?」
「未来を予測する力だ。俺はな、信じているんだよ。姫の可能性を、だ」
「未来を予測……だと?」
「信じられないだろうな。だが本当にあるんだよ。千里眼ってのはな」
「では……まさか。それがしの失策の数々も……?」
「はっ当たり前だろ。失策?そんなもんじゃねえよ、あんたは確かに優秀だった。優秀すぎる、程にな。だけどよ、残念ながら全部お見通しだった。ただそれだけだよ」
「チートってやつだな」
ぼそっと言った一言は顔良には意味のわからない単語だった。北方の異民族の言葉、そう受け取るしかなかったが、その単語の意味はさして重要ではなかろうと判断し、そこで思考を止める。
「でだ、折り入って頼みがある、顔良」
「……なんだ?頼むも何もなかろう、敗軍の将に」
「まあそう言うなって。でだ、頼みなんだが……」
「降参してくんないかな、俺らに」
「ふっ馬鹿な。ありえん」
「殺したくないんだよね。あんたみたいな優秀な人間。あ、こう見えて俺の幕下には優秀な奴が揃ってるんだぜ?決して飽きさせない保証はある。あ、それともーなんなら逃がしてやろうか、もう一度。どうせ何度やっても全部読めてるから負けるわけないし、な」
「高宮らしいわね」
袁の刺客が不敵に笑う。顔良にはその意図が読めない。ただ一つはっきりしているのは--侮られている、ということだ。
「面白いことを言うな、高宮殿は」
顔良は心底不愉快だとばかりに、床に唾を吐いた。
「高宮殿に恩情を掛けられるほど、落ちぶれてはいないつもりだ。早く牢にぶちこめ。さもなければ首を刎ねるがいい。化けて出て喰ろうてやろうぞ」
「そっかー」
ポンと手を叩く高宮。相変わらず澄まし顔のつもりだろうが、うっかり口元が緩んでしまっている姫。何が面白いのか。
「そっか、そっか。んー残念だな。……おい、そこのお前。顔良を牢に連れて行け。丁重に、な」
「はっ」
「うっかり食べちゃダメだぞ、男色だからって」
「ちっ違いますよっ何を仰るんですか、殿」
「えー違うの?」
「ち・が・い・ま・すっ」
頬を膨らませ、怒った少年衛士が顔良を連れ、その場を立ち去った。
「良かったのですか?高宮」
「いいんだよ、これで。あいつは言わばエサだからな。狙いは別にあるんだよ」
「さて、あいつはどう動くかな?ふははは」
「高宮は完全に悪い奴ですよね」
「はぁ?どこが、だよ」
「笑い方ですよ、その笑い方。ふはははってどこの三下軍師ですか」
「うるせーよ、ほっとけ」
「ふふふ」
「敵とは恐ろしいな、姫。敵と見える相手ほど恐怖心を煽るものはない。できれば戦いたくないもんだ」
「そうですね、高宮」
「そしてもっと恐ろしいのはまだ敵ではない敵なんだよ。潜在的な……」
「つまり味方のような敵ってこと?」
「そうだ」
「それって、もしかして」
「ああ……」
「私のこと?」
「……んなわけあるか、馬鹿」
「馬鹿じゃないです、馬鹿っていったら貴方が馬鹿です、馬鹿」
「もういいや、ごめんな」
高宮はおもむろに手を伸ばす。
「ちょっ!?いきなり撫でんな!?」
「地が出てるぞ、ふははは」
「むー、覚えてなさい。っておい、高宮。誰がやめて良いと言いましたか?」
「はいはいわかりましたよ、撫でますよ。撫で回しますよ」
「わかればよろしい」
「へーへー」




