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曹操孟徳の長男として  作者: 二人兄弟
宛城の戦い
10/14

君子は終身の憂いあるも

 日もいよいよ暮れてきた。灰の雲は名残惜しそうに、夕闇に色を染めていく。


 于禁はわずかに空いていたふすまから廊下を覗き、うなづいたかと思うと隙間なく閉じた。徐に声を落とす。


「張繍ですが」


「はい」


 貴重な情報がもたらされるかもしれない。


「略奪を為す者、脱走を図る者、登録なく勝手に自軍に合流する者等の取締強化の為、付与された権限の拡大を願い出、許可された模様です」


「……権限?」


「はい。自軍の兵をある程度自由に動かせるようにしたい、と」


「っ!?それは危険じゃないんですか?」 


「それがしも意見を申し述べる機会がありまして、お止めしたのですが『余は奴を信じる』の一点張りで……。荀彧じゅんいく殿がその場にいらっしゃればお止めになったかもしれませんが……」


 于禁は何故か于温に目配せし、于温はらしくもなく、そんな彼を睨み返した。


 よくわからない親子関係だ。于禁は額の汗を拭い、言葉を続ける。于温は無言の圧力を加えるが、依然押し黙ったままだ。


「張繍の人柄、賈詡かくの才覚に惚れ込んだのでしょうね……それがしは信用に足るとは到底思えませんが」


 確かに張繍は見るからに人が良さそうだったしな……。仲間を大切にする人間が裏切るとは思わないよな。


「どう取り入ったのか……特に賈詡を大層お気に入りのご様子。荀彧殿に頼り切りでしたからな……どうも本来の殿ではないようで心配です。そして何より今は呂布との二方面作戦を強いられており、絶対的に兵が不足しています。張繍の兵の統制までは面倒を見切れないのでしょう」


 神妙な面持ちのアン、その前の于温はいつの間にか正座から胡座に変えていた。――疲れたのか?


 いや、その眼を見て驚いた。


 ……于温の鋭い目付き。狼のような、今にも喰われてしまいそうな恐ろしさを僕は感じていた。本当に「ただの」老人か?


 でも于温うおんという名前は聞いたことないし、名のある将とは思えない。一体何者なんだ?気になる。


「……荀彧は?今どこに?」


 張繍が反乱を起こす。そして僕らは死ぬ。


 確定した最悪の未来がすでにわかっているのだから、このまま手をこまねいているわけにはいかない。


 荀彧といえば、参謀の筆頭格だ。きっと発言力もあるだろう。どこかに行ってしまっているのなら至急呼び戻す必要がある。


 どう説得するかは後で考えるとして。とりあえず場所だけは聞いておかねば。


濮陽ぼくよう攻撃中の臧覇ぞうはに対する為、一昨日出立されました。張邈ちょうばくの残党を糾合しその数なんと数万に膨れ上がっているとか」


 一昨日というと、僕がこちらに来る一日前か。


 これには何か意味がある?


 例えば「この危機は荀彧なしで乗り切なければならない」とか。第一呼び戻せたとして、到着が反乱に間に合うかどうかまではわからない。


 せめていつ反乱を起こすのかさえわかれば、と歯がゆい。


「そうですか……」


「ところで張繍とは関係ありませんが……是非お耳に入れておきたい噂があるのですが。よろしいでしょうか?」


「はぁ……なんでしょう?」


 聞いた話では、何でも「怪物」が出るらしい。


 2尺ほどの大きさで、人を喰らうとのこと。張繍の兵や青州兵(曹操が自軍に編入した強力な元黄巾賊の兵のことだ)にも被害が出ているらしい。


 近々、五百斤の荷物を背負い、一日七百里を歩くことができると噂される(どうせ誇張だろうが)張繍軍所属の胡車児こしゃじ将軍を筆頭に討伐隊が結成されるらしいとのことだ。


 「怪物」だなんて、御伽噺のようだ。多分虎とかそういった類のものだろうが、怖いことには変わりない。早く退治されることを願うばかりだ。



 于禁邸からの帰り道。アンがしばらくぶりに口を開いた。


「荀彧は嫌い」


 俯きがちに話すアン。


「なんで?」


「嫌いなの。理由は……言えない」


 人には言えないこともある。僕にだってある。


 アンと「家族」としてやり直したいという思いはあるけれど。「家族」に縛り付けてはいけない気もする。


 そんな揺れ動く想いの中で、決めかねている自分の歩むべき道。


 人様に言えるような、全うな理由もなく人を嫌うなんて最低だと思う。しかし、そんな自分をついに発見して――最低だ。たまらなく嫌だ。


 野村修士は最低なのかもしれない。


「アン?」


「ん?」


「これから先だ」


 ボクが言うと、アンは顔を上げ立ち止まる。


「見つめるべきはこれから先なんだ。一年後、二年後、十年後、二十年後なんだ」 


「どうしたの……?」


「死んでたまるか……」


 アンは手ぬぐいを取り出し、僕の額にそれを当て始めた。嫌な汗をかいている。


「実はね」


「なんだ?」


「なんとなく……ね。察してたよ?張繍が裏切ること、それをアンに教えたってことはきっとアンも無事では済まないんだよね?」


「……ああ」


 隠しきれないか。


「だから必死なんだよね?」


「ああ、そうだ」


 いつか言おうとは思っていたけれど。ついに促されるまで、言えなかった。アンにはすまないと思う。


「でも、あいつはダメ。あの女顔だけは頼っちゃダメ。あいつに頼るくらいなら死んだほうがマシ」


 女顔?――ああ、そういうことか。


 典韋も嫌いだったな。そういえば。


「わかった、理由は聞かないよ」


「……ありがと」


「どういたしまして」


 


 ■ ■ ■ ■



 于温は二人が去ると、いきなり畳に寝そべり始めた。


 于禁は一礼し、急いで下座に移動する。于温の張り付いた笑顔はすっかり消え失せていた。


「于禁」


「はっ」


「余計な事をべらべらとよくも申してくれたな?」


「申し訳ございません。この首差し上げる覚悟で若殿に申したのです」


「そうか?余に申しておるように見えたが?」


「出過ぎた真似を致しました」


「余は信じるぞ、あやつを……そして賈詡も、だ。あの食えぬ男を余は使いこなしてみせる」


 于温は握りこぶしを作る。


「……張邈殿の為ですか?そう思われるのは」


「……何が言いたい?」


「裏切りとは自身の不信を招くもの。しかし殿はむしろ盲信を招いておられる――その心やいかに?」


「……于禁」


「はっ」


「お前はいつも核心を突くな、于禁」


「恐縮です。ところで」


「なんだ?」


「知っていらっしゃったのですか?大して驚いていらっしゃらなかったようですが、あの若殿の妄言?」


「ああ、そのことか。昂が倒れたと聞いてな、下女に身辺を調べさせた。突如気を失ったそうだが、毒でも盛られたのかと思ってな」


「なるほど」


「それでな、こうの服からこんなものを見つけてしまったのだ。これだ、見よ」


 于温が懐からあるものを取り出す。


「これは……一体何でしょうか?白く……そして随分薄いのに丈夫な袋ですね。絹、ではなさそうです」


「……余にもわからん。だが面白いではないか」


「はあ……」


「昂はもしや本当に……ふむ。ふははは面白い、面白いぞっ!」


 于温は高笑いをし、于禁は苦笑する。


「……殿の悪い癖です」


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