第39話:おかえり、路地裏の日常と『胃袋をほどく、とろろ麦飯定食』
大極祭の狂乱から、一週間。
中央都の喧騒から少し外れた路地裏にある『食事処 藤』には、いつも通りの、だけどどこか一段と賑やかな朝の空気が流れていた。
「ちょっと千草、いつまで創のカウンターの一等地を陣取っているわけ? 昨日はあなたのガテン系のトラックが店の前に停まっていて、私の高級外車が入れなかったのだけど?」
「あぁん? 何言ってんだよ一ノ瀬! 早い者勝ちってのは中央都の鉄則だろ。私は毎日朝一で創の顔を見ないと、現場のシャベルカーを動かす力も湧かねぇんだよ!」
午前11時の開店と同時に、定位置であるカウンターの両端で火花を散らしているのは、千草さんと一ノ瀬さんだ。
大極祭で俺が優勝したことで、一時は都中の猛獣たちから包囲されかけたが、俺はすべての高級料亭や専属料理人のオファーを丁重に断り、この慣れ親しんだ路地裏の定食屋へ戻ってきた。
「お二人とも、朝から元気ですね。ほら、営業の邪魔になるから喧嘩はそこまでにしてください」
俺――藤崎 創は苦笑いしながら、清潔な白い調理服の袖をきゅっと手際よく捲り上げた。
「……ふん。相変わらず、ここは狭くて騒がしい店ね」
引き戸をそっと開けて入ってきたのは、初戦で戦った最高級三ツ星料亭の若き女帝、神楽坂 葵だった。高級な私服に身を包んでいるが、その切れ長の瞳は完全に潤んでおり、俺の姿を見るなり顔を林檎のように真っ赤に染めている。
「神楽坂さん、いらっしゃい。今日も遠くからわざわざありがとうございます」
「べ、別にあんたに会いに来たわけじゃないわよ! あんたのあの冷麺のコシを、私の料亭で再現するための『偵察』よ、偵察……っ!」
「はいはい、お仕事お疲れ様です。……おや、皆さん、随分と顔色が優れませんね?」
俺がカウンター越しに彼女たちの顔を覗き込むと、全員がバツ悪そうに目を逸らした。
大極祭という巨大な祭典のプレッシャー、そして連日の猛暑。祭りが終わった反動で、彼女たちの身体には、都会で戦う大人の『極限の夏バテと胃の疲れ』が一気に押し寄せていたのだ。
「よし、それじゃあ」
俺はいつもの裏表のない、飾らないナチュラルな笑顔を浮かべ、すりこぎを力強く握り直した。
「大極祭で僕を応援してくれた、大切な常連さんたちのために。今日は胃袋の疲れを芯からほどいて、明日からの活力を引っ張り出す『最高の養生ごはん』を作ります。食べていってください」
職人の手手解き:大地の粘りと、一ノ瀬の理性をほどく『贅沢とろろ』
俺が今日作ると決めたのは、日本の夏が誇る究極の胃腸回復メニュー『藤特製・冷やし出汁の手すり麦とろろご飯定食』だ。
連日の激務と暑さで内臓が冷え切り、消化機能が限界を迎えている都の女たち。そんな彼女たちに今必要なのは、肉の暴力でも、派手なご馳走でもない。
胃壁を優しく保護し、するすると喉を通りながらも、大地の滋養をダイレクトに吸収できる職人の『とろろ』だ。
「とろろの美味さは、摺り方と、出汁の合わせ方で120%変わる」
俺は調理服の袖を二の腕まで捲り上げ、大市場の信頼できる八百屋から仕入れた、丸々と太って土の香りが残る最高級の『大和芋』を取り出した。
タワシで綺麗に泥を落とし、皮を剥いた大和芋を、昔ながらの『すり鉢』の鋭い溝に向かって、円を描くように力強く、かつ繊細に摺り下ろしていく。
大型スクリーンならぬ、店の狭いカウンター越しに至近距離で映し出される俺の職人の佇まい。
調理服の袖から露出した、毎日包丁を握り、重い鉄鍋を振り続けて鍛え上げられた、男らしい引き締まった前腕の筋肉。すりこぎをリズミカルに動かすたびに、前腕の筋が美しく跃動し、浮き出た血管が炎のような熱気を帯びる。
そのあまりにも雄々しく、だけど目の前の芋をいたわるような優しい手元に、千草さんも一ノ瀬さんも、そして葵までもが「っ……!」と熱い吐息を漏らし、顔を真っ赤にして俺の腕の筋肉に釘付けになっていた。
「大和芋は粘りが強烈だから、ここに昨日からじっくり冷やしておいた、一滴の濁りもない『昆布とカツオの冷やし濃いめ出汁』を、少しずつ、少しずつ足し算していくんだ」
すりこぎで大和芋に空気を巻き込むように混ぜ合わせると、出汁を吸ったとろろが、まるで白雪のようにフワフワと泡立ち、ボリュームを増していく。仕上げに、ほんの少しの本醸造醤油と、香りを引き締めるひとつまみの塩。
合わせるお米は、ふっくらと炊き上げた白米に、プチプチとした食感が楽しい『押し麦』を3割混ぜた、炊きたての『麦飯』だ。
お椀に高く盛った麦飯に、すり鉢から直接、フワフワの、だけど驚くほどコシのある琥珀色のとろろをドバッと豪快に回しかける。仕上げに、パラパラと鮮やかな青のりを散らした。
「お待たせしました。『食事処 藤』特製、冷やし出汁の手すり麦とろろご飯定食です。噛まずに、喉越しで一気にいっちゃってください!」
都会の猛獣たちの完全な解放、そして路地裏に満ちる愛
「麦とろろ……? 確かに、今の私のクタクタの胃袋には、この優しい香りが一番ありがたいわ……」
一ノ瀬さんが、お茶碗を両手で持ち上げ、とろろがたっぷりかかった麦飯を口へと流し込んだ。
ツルツルッ……じゅわああああああっっっ!!!
「ーーーーーーーーっっっ!!!!」
一ノ瀬さんの身体が、カチコチだった高級スーツの上からでも分かるほど、フニャッと一瞬で脱力した。あまりの心地よさと、冷たい出汁の旨味がお腹の中に染み渡る衝撃に、目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「な、何これえええええええっ!? とろろが……とろろが信じられないくらいフワフワで軽いのに、口に入れた瞬間、大和芋の濃厚なコクと大地の香りが、お出汁の旨味と一緒にじゅわぁって広がっていく……っっ!!」
「どれ、私にも食わせろ! ……ズズッ、ハァァァァァァン味付けが完璧すぎる……っっ!!(悶絶)」
千草さんも猛烈な勢いでお茶碗に食らいついた瞬間、カウンターに突っ伏してハァハァと激しい吐息を漏らした。
「押し麦のプチプチした食感がアクセントになって、噛むたびに楽しいのに、とろろのおかげで、何の抵抗もなく胃の中に吸い込まれていく……っ! ニンニクやウナギのスタミナとは違う、身体の芯から『生気』が蘇ってくるような、圧倒的な優しさだ!! 創、おかわり! おかわりをくれ!!」
「う、嘘でしょ……ただのとろろご飯なのに、どうしてこんなに奥深いのよ……っ!」
葵もプライドを忘れて、ツルツル、ツルルッと夢中で麦とろろを喉に滑り込ませ、そのあまりの包容力と胃袋がほどけていく快感に、顔を真っ赤にしてお椀を抱え込んだ。
都会の猛獣たちが、連日の疲れも、大極祭の緊迫感もすべて忘れ、ただの一人の「お腹を空かせた少女」に戻って、笑顔で麦飯をかき込んでいく。
「美味すぎる……っ! 創、あんたの飯は、なんでこんなに人を幸せにするんだよぉ!?」
「大極祭でみんなが一生懸命応援してくれたから、その疲れを全部『引き算』してあげたかったんです。これが、僕の定食屋としての恩返しですから」
俺が頭を掻きながら、包み込むような大人の包容力に満ちた笑顔を向けると、千草さんも一ノ瀬さんも、そして葵までもが、カウンター越しに俺の両手をがっしりと握りしめた。
「創!! 頼むからもう私のタワマンに来てくれ! 毎日このとろろを擦って、私を癒やしてちょうだい!!」
「ずるいわよ一ノ瀬! 私の料亭のすべての権利をあなたに譲るわ! だから私と結婚して、毎晩私を甘やかして!!」
「いや、皆さん落ち着いてください。お店では喧嘩禁止ですよ。ほら、おかわりならまだたくさんありますからね」
俺がいつものように優しく微笑みながら、三人の空になった茶碗を受け取り、ふっくらとした麦飯を再びよそい始めると、女たちは「あ、あのすべてを包み込む旦那力……やっぱりズルすぎる……っ!」「もう一生この店から離れないんだから……っ!」と、顔を真っ赤にして悶絶し、幸せそうにカウンターに突っ伏してしまうのだった。
大極祭という巨大な嵐を越えて、路地裏の小さな定食屋に、いつもの、だけど少しだけ愛の密度が増した、温かい『食事処 藤』の日常が帰ってきたのだった。
創流・冷やし出汁の手すり麦とろろご飯(2人前)
材 料
【フワフワの絶対領域 極上出汁とろろ】
大和芋(または長芋、自然薯):200g
冷ました極濃和風合わせ出汁(昆布とカツオ):60ml〜80ml(★芋の粘り気に合わせて調整)
本醸造醤油:小さじ1
塩:ひとつまみ
【プチプチ食感の 黄金麦飯】
米:1.4合
押し麦(市販のもの):0.6合(★米7:麦3の藤黄金比)
水:麦飯の規定量(押し麦の分、少し多めにする)
【仕上げのアクセント】
青のり(または刻み海苔):少々
卵黄(お好みで):2個分
作り方
1. 黄金比の麦飯を炊く
1. お米を研いで炊飯器の2合の目盛りまで水を入れ、そこに押し麦と、押し麦の規定量の水を足します。
2. 30分以上しっかり吸水させてから、通常通り炊き上げます。炊き上がったら全体をさっくりと混ぜ、余分な水分を飛ばしておきます。
2. 大和芋の下処理(変色を防ぐ引き算)
1. 大和芋はタワシで土を綺麗に洗い流し、皮を剥きます。
2. 酢を数滴落とした水(分量外)に5分ほど浸けてアク抜きをし、キッチンペーパーで水分を完璧に拭き取ります(これで変色を防ぎ、綺麗な白雪色をキープできる)。
3. すり鉢の空気揉み(技術による足し算)
1. 大和芋をすりおろし器で一度すりおろしてから、すり鉢(なければボウルでも可)に移します。
2. すりこぎを使い、すり鉢の溝にこすりつけるようにして、円を描きながら滑らかになるまですり潰します。
3. 冷ましておいた極濃和風出汁(大さじ4〜5程度)を、3〜4回に分けて少しずつ注ぎ入れながら、その都度すりこぎで空気を含ませるように力強く混ぜ合わせます。
4. 全体がフワフワと泡立ち、ボリュームが出てきたら、本醸造醤油と塩を加えてサッと混ぜます。
★職人の技術ポイント
出汁を一度にドバッと入れるのは絶対にNG。少しずつ足しながら、すりこぎで「空気を巻き込むように」摺ることで、芋の強烈な粘りがフワフワとした雲のような軽い口当たりに変化するのさ。これが、一ノ瀬さんたちが「口に入れた瞬間じゅわぁって広がる」と悶絶した、職人の空気の足し算なんだ。
4. 運命の喉越し仕上げ
1. お椀にプチプチと炊き上がった熱々の麦飯を高く盛ります。
2. その上から、すり鉢の極上とろろを、お米が見えなくなるくらいドバッと豪快に回しかけます。
3. 仕上げに、鮮やかな青のりをパラパラと散らします。お好みで中央に濃厚な卵黄を落としたら完成です!
店主(創)からのワンポイントアドバイス
「お待たせ。大極祭を全力で応援してくれたみんなの、クタクタの胃袋をほどくための麦とろろご飯さ。
食べる時は、上品にちびちび食っちゃダメだぜ。お茶碗を持ち上げて、麦飯ごとツルツル、ツルルッと喉越しで一気に胃袋へ流し込んでくれ!
大和芋の濃厚なコクと極濃出汁の旨味が、プチプチした麦飯と一緒に何の抵抗もなく身体に吸い込まれていくはずさ。
ニンニクやウナギのスタミナもいいけど、都会の暑さで疲れた時は、こういう大地の優しさが一番身体に効くからね。
葵さんも料亭のプライドを忘れて夢中ですすってたから(笑)。さあ、しっかり食べて、明日からの元気をチャージしてくれよな!」




