『竜宮城 再び!』
砂浜には、引き波の音だけが虚しく響いていた。
マサトは、脇腹の鋭い痛みと、口の中に広がる鉄の味を感じながら、冷たい砂の上に横たわっていた。茶髪の男たちが浴びせてきた罵声と暴力は、マサトにとって珍しいものではなかった。社会から、人生から、ずっと投げつけられてきたものの延長線上に過ぎない。
「……何やってんだ、俺」
独り声は、潮風にかき消された。
目の前には、マサトが身を挺して守った小さなカメがいた。甲羅には、蹴られた時に付いたのであろう小さな傷があった。
人生に、良いことなんて一度もなかった。
だからこそ、マサトは賭けたのだ。このカメを助ければ、何かが、奇跡のような何かが起きるのではないか。この汚れた、報われない現実から、どこか遠くへ連れ去ってくれるのではないか。
カメは、波打ち際で一度止まった。そこで、ゆっくりと首を振り返り、マサトを見た。その瞳は、深海の底のように静かで、すべてを見透かしているようだった。
「……行けよ。さっさと行け」
「あの~、もしもし~」
「いけって・・・え?しゃべった??」
マサトは痛みを忘れ、目を見開いた。声は間違いなく、目の前の小さなカメから発せられていた。
「本当に助かりました。あなたが助けてくれなかったら、確実に死んでいました」
カメは深々とお辞儀をするように首を下げた。
「その、お礼をしたいのですけど、一緒に海の底まで来ていただけませんか?」
突拍子もない誘いに、マサトは思わず自分の頭を触った。殴られすぎて、いよいよ脳がおかしくなったのかもしれない。
「……待て。俺、人間だから、潜れないぞ。それに、お前そんなに小さいのに、どうやって俺を運ぶんだよ。乗れねえだろ」
マサトの尤もな指摘に、カメは少しだけ困ったように目を細めた。だが、その口元が、わずかに緩んだように見えた。
「私はただのカメではありません。私の姿を見て、驚かないでくださいね」
次の瞬間、カメの体が眩い光に包まれた。砂を巻き上げながら、その小さな甲羅がみるみるうちに膨張していく。軽自動車、いや、立派な乗用車ほどの大きさになったところで、変化は止まった。
ただ大きくなっただけではない。甲羅の側面は滑らかに膨らみ、そこには磨き上げられたような丸い窓がいくつも並んでいた。
「さあ、どうぞ中へ。水は入ってきませんし、息も苦しくありませんから」
カメの横っ腹が音もなく開き、マサトを招き入れるような入り口が現れた。マサトは呆然としながら、誘われるままにその奇妙な「乗り物」へと足を踏み入れた。
中はふかふかのクッションのような床で、外の暴力的な暑さとは無縁の、ひんやりとした空気が流れていた。マサトは恩返しなんて物語の中だけの話だと思っていたが、目の前の現実に、冷え切っていた胸が急速に熱くなるのを感じた。
「おい、カメ。お前の言う海の底ってのは、やっぱりアレか? うまい料理とか、腰が抜けるような美人のお姉さんとか、そういうのが待ってるのか?」
期待を隠しきれないマサトの問いに、カメはくすりと笑ったような気がした。
「もちろんです。鯛や平目が舞い踊るような豪華な宴に、地上では決してお目にかかれないような、それはそれは美しいお方たちが、今か今かとあなたを待っていますよ。お腹も、心も、存分に満たして差し上げますから」
その言葉を聞いた瞬間、マサトの脳裏にはまばゆい楽園の光景が広がった。
(……一発逆転だ。俺の人生、ここに来て一発逆転したんじゃねえか?)
これまでの惨めな日々、一方的に奪われ続けてきた歳月。それらすべてをひっくり返せるほどの何かが、この先に待っている。マサトの心は、見たこともないまばゆい光景を想像し、かつてないほどにうきたっていた。
カメの体がゆっくりと波を切り、深く、暗い青の世界へと潜り始めた。
しばらく潜り続けると、窓の外に見えていた海面の光さえも届かなくなった。世界は、完璧な静寂と濃密な闇に支配されていた。唯一の道標は、カメの両目から放たれる強烈なサーチライトの輝きだけだ。真っ黒な深海の闇を鋭く射抜くその光の帯は、浮遊するマリンスノーを照らし出し、幻想的な道を作り上げていた。
さらに深く、深く潜っていく。
すると、そのサーチライトの先に、ぼんやりとした巨大な影が浮かんできた。近づくにつれ、それは信じられないほど壮麗な姿を露わにしていく。
「……あれが……」
マサトは思わず窓に張り付いた。そこには、深海の底に鎮座する巨大な御殿があった。朱塗りの柱と黄金に輝く瓦、反り返った屋根。それはまるで、古の中国の宮殿をそのまま海の底に移したかのような、圧倒的な威容を誇っていた。
カメがその巨大な正門の前に静かに降り立つと、入り口が音もなく開いた。おそるおそる外へ一歩踏み出したマサトは、思わず息を呑んだ。
そこには、海水がなかった。
「……なんだ、これ」
見上げれば、遥か高いところに、青く揺らめく海が天井のように広がっている。けれど、自分の周りには地上と変わらない透明な空気が満ちていた。マサトは胸いっぱいに空気を吸い込んでみた。肺に流れ込むのは、清らかな風だ。
重圧も、息苦しさも、水濡れさえもない。目の前にあるのは、ただ静かに、連ねて圧倒的な輝きを放つ宮殿の正門だけだった。地上での地獄のような日々が嘘だったかのように、マサトの体は軽くなっていた。
「私は、先に行ってここの主、乙姫様に報告してきます」
カメが静かに告げた。
「あなた様は……お名前を……」
「マサトだ」
「……マサト様。では、あちらに見えます建物で、まずはお召し物をお着換えください。それから、侍女が中をご案内いたします」
カメの視線の先には、透き通るような白壁の美しい建物が立っています。マサトがそちらへ歩み出すと、音もなく二人の女性が後ろについた。
案内された部屋で、マサトはこれまでの人生の垢を洗い落とすように、泥に汚れ服を脱ぎ捨てた。用意されていたのは、雲のように軽く、絹よりも滑らかな、見たこともないほど豪華な衣装だった。袖を通した瞬間、マサトの体には力が漲り、鏡に映った自分の姿が、まるで別人のように凛々しく見えた。
部屋を出ると、控えていた二人の女性が同時に深く頭を下げた。
「マサト様。私はタイと申します。こちらへどうぞ」
「私はヒラメと申します。マサト様、どうぞこちらへ」
二人は鈴の鳴るような声で自らを名乗ると、マサトを左右から優しく包み込んだ。その手は驚くほど柔らかく、そして魚の精らしく、ひんやりとしていて驚くほど心地よかった。
二人の侍女は、一人が先導役、もう一人はマサトの手を握りついてくるように促した。
「マサト様、まずはこの『翡翠の回廊』をご案内いたします……」
タイが透き通るような声で案内を始める。場所が変わり『真珠の庭』へと差し掛かると、二人は鮮やかな所作で役割を交代した。
彼女たちのひんやりとした感触と、穏やかな「マサト様」という呼びかけ。その清涼な温もりに導かれながら、マサトは自分の人生を呪い続けた心が、少しずつ解けていくのを感じていた。
やがて、二人の侍女は立ち止まり、白い霧が静かに溢れ出す豪華な扉の前で足を止めた。
「マサト様。この先には、大浴場がございます。どうぞ、まずはおくつろぎくださいませ。その間に、私たちも準備を整えてまいります」
「あ、ああ……分かった」
タイとヒラメは、含みを持たせた艶やかな微笑みを残すと、マサトを浴場の入り口に残し、奥へと消えていった。
一人取り残されたマサトの胸は、これまでにないほど激しく波打っていた。
(準備って……おい、まさか。本当に、あんな綺麗な二人と……?)
マサトが先に湯船の方へ進むと、そこは息を呑むほど広い空間が広がっています。立ち込める白い霧の向こう、広大な湯船を覗き込んでみると、底の方では海藻がゆらゆらと揺らめいている。
マサトが湯船に身を沈めていると、背後から音もなく二人の気配が戻ってきた。
「マサト様、お背中をお流しいたしますわ」
現れたタイとヒラメは、さらに薄い衣に身を包み、マサトのそばへ跪いた。ひんやりとした海水を桶で汲み、マサトの火照った体にかけていく。
「……っ」
ここはそういう温泉なのだろうかとマサトは思った。そして、さらなる期待に、まさとは聞いた。
「……あ、あの……その……俺と、この後……が、合体とか……す、するのかな?」
あまりに直接的で、不器用な問い。すると、背後から鈴の鳴るような笑い声が湧き上がった。
「いやですわ、マサト様。それでは、まるで地上の獣たちみたいではありませんか?」
「本当ですわ、変なことおっしゃいますのね……」
冗談めかした彼女たちの言葉に、マサトの期待は空を切ったが、彼はすぐに気を取り直した。
(……いいさ。合体がダメでも、俺にはまだ『食い気』がある!)
お風呂から上がったマサトは、新しい衣装に着替え、ついに乙姫様が待つ「歓迎の間」へと通された。
だが、一歩近づいたマサトの動きが、ぴたりと止まった。そこにあったのは、山積みにされたありとあらゆる「海藻」だけの料理だった。
「……あれ。その、ヒラメのお刺身とか……カレイの煮付けとか、タイのご飯は……?」
あまりの衝撃に、話に聞いてイメージしていた竜宮城とあまりの違いにびっくりして、本音がこぼれる。「いや、海藻ばかり食えねぇし……」
その瞬間、歓迎の間は地獄のような静寂に包まれた。
ここまでの案内役だったタイもヒラメも青ざめた顔をしている。
給仕の人たちも、震えています。
「貴様、わらわたちを……わらわの民を、いけにえにせよと申すのか! その身を煮て、焼いて、食わせろというのか!」
乙姫様の激昂が響き渡る中、マサトは一気に現実に引き戻された。
「……あ、あー、分かった。もういい。全部俺が悪かったよ。食事はいらねえから、もう帰らせてくれ」
マサトの潔すぎる諦めに、乙姫様も毒気を抜かれたように押し黙った。しばらくの沈黙の後、乙姫様は美しく装飾された小さな箱を運ばせてきた。
「マサト。帰られるのなら、この玉手箱をお土産に渡そう。決して、地上へ戻るまでは開けてはならぬぞ」
「……お土産? へっ、最後はそれか。分かったよ、大事に持っていくさ」
マサトは乙姫に別れを告げると、箱を脇に抱えて宮殿を後にした。案内もなく、一人で歩いて向かった先は、最初にたどり着いた竜宮城の浜辺だ。宮殿から少し離れたその静かな波打ち際で、カメが所在なげにマサトを待っていた。
「……なんかすいません。マサトさん。せっかく来ていただいたのに、あんなことになってしまって」
「いいよ、別に。お土産ももらったしな……って、待てよ」
マサトは、浜辺でカメと向かい合ったまま、脇に抱えた「玉手箱」をじっと見つめた。乙姫は「地上へ戻るまでは開けるな」と言っていた。
(……怪しすぎる。しかも、戻るまで開けるなだと?玉手箱と言ったら・・・)
ふと、マサトは昔読んだ本の内容を思い出した。浦島太郎という男が帰り際にもらった箱。それを地上で開けた途端、白い煙が出てきて、一瞬で年寄りになってしまったという、あの救いのない結末だ。
(……これ、開けたらヤバいことになるフラグじゃねえか。あの乙姫、絶対、俺を年寄りにして仕返ししようとしてるに決まってる。若さまで奪われてたまるか)
「カメさん、ちょっと待っていてね。ちょっと用事思い出した。すぐに戻るから!」
「えっ? マサトさん、どこへ……」
マサトはカメに乗る直前、くるりと背を向けると、宮殿へと続く道を一気に駆け戻った。砂を蹴立て、息を切らして、まだ閉じきっていない竜宮城の巨大な門の前にたどり着く。
マサトは立ち止まると、抱えていた玉手箱の紐だけに指をかけ、一気に引き抜いた。だが、蓋は開けない。
「こんなもん、ここで捨ててってやるよ!」
マサトは紐の解かれた箱を、門の内側へと思い切り投げ込んだ。
カコン。
石畳に虚しく響く、その一度きりの乾いた音。
それだけを確認すると、マサトは脱兎のごとく、カメが待つ浜辺へと再び走り出した。背後の門の向こうで何が起ころうと知ったことではない。
「カメさん、帰るぞ! いいから急げ! いっそげ~~~!!」
「わわっ、分かりました!」
必死の形相で戻ってきたマサトを乗せ、カメは全速力で海面へと浮上し始めた。
しばらくして、地上の浜辺に着くと、マサトはカメに言いました。
「竜宮城にはもう、帰らないほうが良いぞ」
「え?」
「じゃあ、またな」
「それは、どういう……?」
カメの困惑したような問いかけが、波音に混じって背中に届いたが、マサトは一度も振り返ることなく、泥のような現実が待つ街の方へと歩み出した。
玉手箱の中身が何であったかは、もう一生知ることはない。けれど、彼は確かに、自分の人生を自分の手で守り抜いたのだ。
おしまい




