鏡の向こうの朝食
目覚まし時計が鳴った。
田中誠は手を伸ばしてそれを止め、天井を見上げた。
六畳の賃貸アパート、染みのついた天井、窓の外からは踏切の音。
三十二年間、この街で生きてきた。
三十二年間。
彼は布団から起き上がり、洗面台の前に立った。
鏡の中に、自分の顔がある。
当たり前だ。
でも、彼は毎朝この瞬間が少し怖かった。
どこかで、
「違う顔が映っていたら?」
……と思ってしまうから。
歯を磨きながら、彼は職場のことを考えた。
今日は部署の飲み会がある。
あの上司の隣には座りたくない。
帰りは終電になるだろう。
明日の朝は少しきつい。
普通の、どこにでもある朝だった。
田中誠が最後に「田中誠」だったのは、十月の雨の夜のことだ。
本人は覚えていない。
覚えていられる状態ではなかったから。
路地裏で傘が裏返り、彼は舌打ちをした。
その時、背後に影があった。音もなく。匂いもなく。ただ、それがいた。
翌朝、田中誠は普通に出勤した。
コンビニでコーヒーを買い、電車に乗り、「おはようございます」と言った。同僚の鈴木が「昨日は飲み会楽しかったですね」と言ったので、「そうですね」と答えた。
飲み会には、行っていなかった。
でも鈴木は気づかない。
田中誠は気づかれないように、微笑んだ。
笑い方は、もう覚えた。
眉を少し上げて、目の端を緩めて、口角を十五度引き上げる。ヒトはそれを「笑顔」と呼ぶ。
覚えるのに、三日かかった。
それは自分のことを「誠」だと思っている。
これは嘘ではない。
それは本当に、そう信じている。記憶は引き継いだ。
踏切の音が懐かしい感じがするのも、コーヒーは微糖が好きなのも、母親の声を聞くと胸が温かくなるのも、全部ちゃんとある。
ただ、夜中に一人になると、時々、ずれる。
腹が、減る。
普通の腹減りではない。
コンビニのおにぎりでは満たせない、もっと深いところが空洞になるような、あの感覚。
誠はその時、台所に行き、冷蔵庫を開け、何も取り出さずに閉める……それを三回繰り返す。
そして窓の外を見る。
人影が通るたびに、何かが疼く。
でも、誠は動かない。
歯を食いしばって、というか、正確には違う何かを食いしばって、動かない。
なぜなら、誠は「自分がヒトだ」と信じているから。
問題が起きたのは、冬の始まりだった。
職場に、新しい派遣社員が来た。
菊池という女性で、三十代前半、眼鏡をかけていて、よく笑う人だった。
彼女は誠の隣の席に座り、最初の日の昼休みに
「田中さんって、なんか、不思議な感じがしますよね」
と言った。
「そうですか?」
「うまく言えないんですけど」
菊池は、眼鏡を押し上げた。
「影が、ないみたいな」
誠は微笑んだ。眉を少し上げて、目の端を緩めて、口角を十五度。
「光の加減じゃないですか?」
菊池は「そうかな」と言って、弁当の蓋を開けた。
その日の夜、誠はいつもより長く窓の外を見た。
菊池さおりには、特技があった。
彼女は「ずれ」がわかる。子供の頃からそうだった。
動物の死体を見ると悲しいのに、どこかで「これはもう抜け殻だ」とわかる、あの感覚に似ている。
中身と外側が一致していない時、空気の色が少し変わって見える。
田中誠の周りは、いつも少しだけ、灰色だった。
でも、変な人じゃない。むしろ、親切だ。
困っていると気づいてくれる。
お礼を言うと、嬉しそうな顔をする。
あの笑顔は、ちゃんと本物に見える。
だから菊池は、自分の感覚の方がおかしいのだと思うことにした。
三ヶ月、そう思い続けた。
転換点は、小さな事故だった。
コピー機に指を挟んで、菊池が声を上げた。誠が飛んできて、「大丈夫ですか」と言いながら、彼女の手を取った。
傷口から、血が少し滲んだ。
誠の表情が、変わった。
菊池には見えた。ほんの一瞬、〇・三秒くらい、田中誠の顔が別の何かになった。
鼻の穴が広がり、瞳が細くなり、唇が微かに開いた。まるで、いい匂いを嗅いだ獣のように。
次の瞬間にはもう、普通の田中誠に戻っていた。
「絆創膏、持ってますよ」
と彼は言い、引き出しから取り出して、丁寧に貼ってくれた。
菊池の手が、震えていた。
「ありがとうございます」
と彼女は言った。声が震えないように、気をつけながら。
その夜、誠は眠れなかった。
自分が何をしたか、覚えている。
いや、したわけじゃない。しそうになっただけだ。
でも、したかった。一瞬、本当に、したかった。
誠はベッドの上で膝を抱えた。
「俺は田中誠だ」
声に出して言った。
「この街で生まれて、この街で育って、踏切の音が好きで、コーヒーは微糖で、母さんの声を聞くと胸が温かくなる」
全部、本当のことだ。
「俺は、ヒトだ」
沈黙が答えた。
本当に?
誠は立ち上がり、洗面台に行った。鏡を見た。田中誠の顔がある。三十二年間、見てきた顔だ。
でも。
一度だけ、本当に一度だけ、誠は自分に正直になった。
あの夜、路地裏で何があったか。
自分が何を、誰を——
「やめろ」
彼は声に出して言い、水道を全開にした。
冷たい水で顔を洗い、鏡の自分を睨んだ。
「俺は田中誠だ」
鏡の中の男も、同じ口の形で、同じことを言った。
翌日、菊池は会社を休んだ。
その次の日も。
三日目に出勤してきた菊池は、誠に「おはようございます」と普通に言った。
誠も「おはようございます」と返した。
二人は何事もなかったように、仕事を始めた。
ただ、菊池はもう、誠の隣に弁当を食べに来なかった。それだけだった。
昼休み、一人でコンビニのサンドイッチを食べながら、誠は窓の外を見た。
冬の空が白く、乾いていた。
人間とは何か。
誠はそんなことを考えた。
記憶があること? 感情があること? 誰かを好ましく思うこと? 誰かを傷つけまいと、歯を食いしばること?
だとしたら、俺は。
彼は残りのサンドイッチを口に入れた。
味がした。パンと、チキンと、マスタードの味。
ちゃんと、美味しかった。
腹の奥で、別の何かが、まだ空腹だったけれど。
春になって、菊池の契約期間が終了した。
送別会で、誠はちゃんと笑った。
眉を少し上げて、目の端を緩めて、口角を十五度——でも今回は、それだけじゃなかった。
彼女の最終日が寂しかった。本当に、寂しかった。
「田中さん、お体に気をつけて」
菊池は最後にそう言った。
意味深な言葉かもしれなかった。
でも誠は、素直に受け取った。
「ありがとう。菊池さんも」
それだけだった。
今日も、目覚まし時計が鳴る。
田中誠は手を伸ばしてそれを止め、天井を見上げた。
六畳の賃貸アパート。染みのついた天井。窓の外からは踏切の音。
洗面台の前に立つ。
鏡の中に、自分の顔がある。
彼は今日も、少しだけ怖い。
でも、歯を磨いて、コーヒーを入れて、「行ってきます」と誰もいない部屋に向かって言う。
誰かが教えてくれたわけじゃない。田中誠が、そうしていたから。
扉を閉めて、踏切の音がする方向へ歩いていく。
彼の影が、アスファルトに薄く伸びている。
ちゃんと、ある。
——今朝は、あった。




