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短編シリーズ

鏡の向こうの朝食

作者: 怪人工房
掲載日:2026/03/01

  目覚まし時計が鳴った。

 

 田中誠は手を伸ばしてそれを止め、天井を見上げた。

六畳の賃貸アパート、染みのついた天井、窓の外からは踏切の音。

三十二年間、この街で生きてきた。

 三十二年間。


 彼は布団から起き上がり、洗面台の前に立った。

鏡の中に、自分の顔がある。

 当たり前だ。

 でも、彼は毎朝この瞬間が少し怖かった。

どこかで、

「違う顔が映っていたら?」

……と思ってしまうから。

 歯を磨きながら、彼は職場のことを考えた。

今日は部署の飲み会がある。

あの上司の隣には座りたくない。

帰りは終電になるだろう。

明日の朝は少しきつい。

普通の、どこにでもある朝だった。


 田中誠が最後に「田中誠」だったのは、十月の雨の夜のことだ。

 本人は覚えていない。

覚えていられる状態ではなかったから。

 路地裏で傘が裏返り、彼は舌打ちをした。

その時、背後に影があった。音もなく。匂いもなく。ただ、それがいた。

 翌朝、田中誠は普通に出勤した。

 コンビニでコーヒーを買い、電車に乗り、「おはようございます」と言った。同僚の鈴木が「昨日は飲み会楽しかったですね」と言ったので、「そうですね」と答えた。

 飲み会には、行っていなかった。

 でも鈴木は気づかない。

田中誠は気づかれないように、微笑んだ。

笑い方は、もう覚えた。


 眉を少し上げて、目の端を緩めて、口角を十五度引き上げる。ヒトはそれを「笑顔」と呼ぶ。

 覚えるのに、三日かかった。

 それは自分のことを「誠」だと思っている。

 これは嘘ではない。

それは本当に、そう信じている。記憶は引き継いだ。

踏切の音が懐かしい感じがするのも、コーヒーは微糖が好きなのも、母親の声を聞くと胸が温かくなるのも、全部ちゃんとある。

 ただ、夜中に一人になると、時々、ずれる。


 腹が、減る。


 普通の腹減りではない。

コンビニのおにぎりでは満たせない、もっと深いところが空洞になるような、あの感覚。

 誠はその時、台所に行き、冷蔵庫を開け、何も取り出さずに閉める……それを三回繰り返す。

 そして窓の外を見る。

 人影が通るたびに、何かが疼く。

 でも、誠は動かない。

歯を食いしばって、というか、正確には違う何かを食いしばって、動かない。

 なぜなら、誠は「自分がヒトだ」と信じているから。

 問題が起きたのは、冬の始まりだった。


 職場に、新しい派遣社員が来た。

菊池という女性で、三十代前半、眼鏡をかけていて、よく笑う人だった。

 彼女は誠の隣の席に座り、最初の日の昼休みに

「田中さんって、なんか、不思議な感じがしますよね」

と言った。

 「そうですか?」

 「うまく言えないんですけど」


菊池は、眼鏡を押し上げた。


       「影が、ないみたいな」


 誠は微笑んだ。眉を少し上げて、目の端を緩めて、口角を十五度。

 

「光の加減じゃないですか?」


 菊池は「そうかな」と言って、弁当の蓋を開けた。

 その日の夜、誠はいつもより長く窓の外を見た。

 菊池さおりには、特技があった。


 彼女は「ずれ」がわかる。子供の頃からそうだった。

動物の死体を見ると悲しいのに、どこかで「これはもう抜け殻だ」とわかる、あの感覚に似ている。

 中身と外側が一致していない時、空気の色が少し変わって見える。

 田中誠の周りは、いつも少しだけ、灰色だった。

 でも、変な人じゃない。むしろ、親切だ。

困っていると気づいてくれる。

お礼を言うと、嬉しそうな顔をする。

     あの笑顔は、ちゃんと本物に見える。

 だから菊池は、自分の感覚の方がおかしいのだと思うことにした。

 三ヶ月、そう思い続けた。

 転換点は、小さな事故だった。

 コピー機に指を挟んで、菊池が声を上げた。誠が飛んできて、「大丈夫ですか」と言いながら、彼女の手を取った。

 傷口から、血が少し滲んだ。


  誠の表情が、変わった。


 菊池には見えた。ほんの一瞬、〇・三秒くらい、田中誠の顔が別の何かになった。

鼻の穴が広がり、瞳が細くなり、唇が微かに開いた。まるで、いい匂いを嗅いだ獣のように。


 次の瞬間にはもう、普通の田中誠に戻っていた。


 「絆創膏、持ってますよ」


  と彼は言い、引き出しから取り出して、丁寧に貼ってくれた。

 菊池の手が、震えていた。

 「ありがとうございます」

と彼女は言った。声が震えないように、気をつけながら。

 その夜、誠は眠れなかった。

 自分が何をしたか、覚えている。

いや、したわけじゃない。しそうになっただけだ。

でも、したかった。一瞬、本当に、したかった。

 誠はベッドの上で膝を抱えた。

 「俺は田中誠だ」

 声に出して言った。

 「この街で生まれて、この街で育って、踏切の音が好きで、コーヒーは微糖で、母さんの声を聞くと胸が温かくなる」

 全部、本当のことだ。

 「俺は、ヒトだ」

 沈黙が答えた。

 本当に?

 誠は立ち上がり、洗面台に行った。鏡を見た。田中誠の顔がある。三十二年間、見てきた顔だ。

 でも。

 一度だけ、本当に一度だけ、誠は自分に正直になった。

 あの夜、路地裏で何があったか。

自分が何を、誰を——

 「やめろ」

 彼は声に出して言い、水道を全開にした。

冷たい水で顔を洗い、鏡の自分を睨んだ。

 「俺は田中誠だ」


 鏡の中の男も、同じ口の形で、同じことを言った。

 翌日、菊池は会社を休んだ。

 その次の日も。

 三日目に出勤してきた菊池は、誠に「おはようございます」と普通に言った。

 誠も「おはようございます」と返した。

 二人は何事もなかったように、仕事を始めた。

 ただ、菊池はもう、誠の隣に弁当を食べに来なかった。それだけだった。

 昼休み、一人でコンビニのサンドイッチを食べながら、誠は窓の外を見た。

冬の空が白く、乾いていた。

 人間とは何か。

 誠はそんなことを考えた。

 記憶があること? 感情があること? 誰かを好ましく思うこと? 誰かを傷つけまいと、歯を食いしばること?

 だとしたら、俺は。


 彼は残りのサンドイッチを口に入れた。

 味がした。パンと、チキンと、マスタードの味。

ちゃんと、美味しかった。

 腹の奥で、別の何かが、まだ空腹だったけれど。

 春になって、菊池の契約期間が終了した。

 送別会で、誠はちゃんと笑った。

眉を少し上げて、目の端を緩めて、口角を十五度——でも今回は、それだけじゃなかった。

彼女の最終日が寂しかった。本当に、寂しかった。

 「田中さん、お体に気をつけて」

 菊池は最後にそう言った。

 意味深な言葉かもしれなかった。

でも誠は、素直に受け取った。

 「ありがとう。菊池さんも」

 それだけだった。

 今日も、目覚まし時計が鳴る。

 田中誠は手を伸ばしてそれを止め、天井を見上げた。

六畳の賃貸アパート。染みのついた天井。窓の外からは踏切の音。

 洗面台の前に立つ。

 鏡の中に、自分の顔がある。

 彼は今日も、少しだけ怖い。

 でも、歯を磨いて、コーヒーを入れて、「行ってきます」と誰もいない部屋に向かって言う。

 誰かが教えてくれたわけじゃない。田中誠が、そうしていたから。

 扉を閉めて、踏切の音がする方向へ歩いていく。

 彼の影が、アスファルトに薄く伸びている。

 ちゃんと、ある。


 ——今朝は、あった。

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