第9話:断罪の顎、泥濘の終焉
次回、エピローグです
二十メートルの巨躯が宙を舞い、月光を遮る巨大な影が私を飲み込もうとした、その瞬間。
「クリスティア様、伏せて!」
鋭い叫びと共に、横から強い衝撃が私を突き飛ばした。フェデリだ。
直後、空気を切り裂く凄まじい音が響き、サメの鋭利な胸ビレが、私を庇ったフェデリの右肩を容赦なく引き裂いた。
「が、あぁ……ッ!!」
泥の上に転がったフェデリの肩から、鮮血が噴き出す。泥と混じり合い、おぞましい赤黒い染みが広がっていく。肉が抉れ、骨が覗くほどの重傷だ。
「フェデリ!」
「構わず、投げてください……今です!」
フェデリが苦悶に満ちた声で叫ぶ。
跳躍し、泥沼に着地しようとするサメは、その巨体ゆえに一瞬だけ無防備な腹部と、火傷で爛れた口内を晒していた。
「……よくも私の騎士を!」
私は怒りと共に、右手に握りしめていた特製の発火袋を、奴の喉の奥深くへと叩き込んだ。
同時に、フェデリが仕掛けていた予備のワイヤーをサメの古傷がある右ヒレに強引に絡め、その巨躯を泥の最も深い「底なし」のエリアへと誘導する。
ドォォォォォォンッ!!!
着地と同時に、サメの口腔内で発火袋が爆発した。
内側から吹き出す炎と煙。サメは悶え苦しみ、泥の海を激しくのたうち回る。その凄まじい衝撃波と泥の津波が、足元で震えていたアンジェロとニッコラをさらなる深みへと押し流した。
「ひ、ひいいいっ! 助けて、アンジェロ様、引っ張って!」
胸まで泥に埋まったニッコラが、必死にアンジェロの足を掴む。
だがアンジェロの瞳に宿っていたのは、愛でも慈悲でもなく、むき出しの生存本能だった。
「離せ、この売女! お前さえいなければ、僕は今頃安全な王宮にいたんだ! お前が死ねば、あいつの腹も少しは膨れるだろう!」
アンジェロはニッコラの顔面を泥まみれの足で何度も踏みつけ、彼女をサメのいる方へと蹴り飛ばした。
「なんてひどい…! アンジェロ様、あなたこそ、その醜い脂肪をあのお魚に献上なさいませ!」
ニッコラも負けてはいない。泥の中からアンジェロの腰に抱きつき、無理やり彼を深みへと引きずり戻す。
泥の中で組み合い、互いの顔を殴り、髪を引き抜き合う王太子と伯爵令嬢。
その醜悪な争いの最中――。
突如として、二人の上に広大な「夜」が訪れた。
「……え?」
二人の動きが止まった。
重苦しい殺気と、熱い蒸気が上空から降り注ぐ。
二人が絶望に染まった顔でゆっくりと上を見上げると、そこには、月を背負った二十メートルの顎が、門のように開かれていた。
焼け爛れ、煙を吹く口内。
幾千もの剃刀のような歯が、銀色に光っている。
もはや逃げ場などない。
「嫌あああああああああああ!!」
「やめろ、来ないでくれ! 僕は王太、じゅ――」
――グシャアッ!!!
言葉を最後まで紡ぐことは許されなかった。
サメの顎は、組み合ったままの二人をセットで、無慈悲に、かつ豪快に噛み砕いた。
泥沼に響き渡ったのは、二人の絶叫を断ち切る、骨が粉砕される鈍い音と、肉が引き千切られる濡れた音だけ。
伝説のサメは、二人を飲み込むと、満足げに喉を鳴らした。
水面に残ったのは、ニッコラの桃色の髪を飾っていたリボンと、アンジェロの金の髪が混じった、おぞましい赤黒い泡だけだった。
「……ざまぁないわね、殿下」
私は、肩から血を流すフェデリを支えながら、静かに告げた。
そして二人を飲み込んだことで、サメの動きが一瞬だけ止まった。胃袋に大きな異物が入り、重心が狂ったのだ。
「終わりよ!」
私は、沼一面に撒いていた油の膜に向かって、最後の一本の松明を投げ込んだ。
ボォォォォォォォォォォッ!!!
一瞬で、泥の沼は灼熱の業火に包まれた。
火に巻かれ、底なしの泥に沈み込んでいく伝説のバッドボーイ。
奴は最後の足掻きとして、私の方へ向かって大きな口を開けたが――既にその巨躯は、泥の深淵へと引き摺り込まれていた。
バシャアン……。
最後の一際大きな水音が響き、二十メートルの影は、沼の底へと消えていった。
激しい炎が収まり、あたりにはパチパチという油の爆ぜる音だけが残った。
沼を覆っていた泥は熱で乾燥し、ひび割れ、伝説の捕食者を永久にその下へと閉じ込めたようだった。
「……助かった…のね」
私は手に残っていた火の粉を払い、緊張の糸が切れたのを感じた。
アドレナリンが引き、急激に襲ってくる疲労感と、夜風の冷たさ。
そして何より、隣で支えになっていたはずの存在が、崩れるように泥の上に倒れ込んだ。
「フェデリ!」
私は慌てて彼を抱き起こした。
彼の右肩は、サメのヒレによって無惨にえぐられている。流血はまだ止まっておらず、シュミーズ姿の私の胸元が、彼の温かい血で染まっていく。
「……あ…はは。クリスティア様…ご無事……ですか」
フェデリは、死人のような顔色をしていながら、それでも私を心配して弱々しく微笑んだ。そのあまりの自己犠牲精神に、私は胸の奥が焼けるような痛みを覚えた。
「無事よ! 無事に決まっているでしょう、あなたのおかげでね! でも、なんで…なんであんな無茶をしたのよ! 私を庇わなければ、あなたは傷を負わずに済んだのに!」
叫ばずにはいられなかった。
私は自分のシュミーズの裾をさらに引き裂き、彼の肩に強く押し当てた。
「……さあ…なんで、でしょうね。…ただ、あなたに……あんな汚らわしいサメに…傷ひとつ、付けさせたくなかった…」
フェデリの瞳が、ゆっくりと微睡むように閉じようとしている。
彼は満足げに、消え入るような声で続けた。
「……君は……気高くて、美しい、から…」
その言葉を聞いた瞬間、私の目から、今まで一度も流したことのなかった涙が、泥の地面に零れ落ちた。
「…バカ! 大バカよ、フェデリ! 私を傷つけないために、自分の命を天秤にかけるなんて…!」
「…ふふ……怒った顔も……素敵だ…」
フェデリが完全に意識を失い、私の腕の中でぐったりと重くなった。
私は彼を抱きしめたまま、月を見上げた。
王太子の婚約者だった頃には、こんな感情があるなんて知りもしなかった。
その時。
夜の静寂を破り、遠くから多数の光が接近してくるのが見えた。
ドドドド…という地響きのような蹄の音。
森の木々の隙間から漏れる、無数の松明の火。
そして、空気を震わせる号令の声。
「こっちだ! 泥の沼の方から火柱が上がったぞ!」
「急げ! 王太子殿下とスピネルリ公爵令嬢をお探ししろ!」
救助の騎士たちが、ようやくこの地獄の舞台へと到着したのだ。
彼らは森をなぎ倒して進むサメの這い跡を見て、絶句しながらも、決戦の地であるこの沼地へと雪崩れ込んできた。
松明の光が、泥にまみれ、半裸で、しかし誇り高く倒れたフェデリを抱き抱える私の姿を照らし出す。
騎士たちが目撃したのは、壊滅した別荘地でも、食い散らかされた王太子でもない。
伝説の怪物を屠り、燃え盛る沼の前で、最愛の伴侶を守り抜いた、一人の女の姿だった。
「……遅かったわね」
私は、意識を失ったフェデリの額にそっと唇を寄せると、近づいてくる騎士たちの先頭に、鋭い視線を向けた。
「治療の用意を。この男は、私の――我が国の英雄よ」
こうして、伝説のサメ『嵐を呼ぶ顎』との一夜限りの死闘は幕を閉じた。
だが、これは物語の終わりではない。
ドレスを捨て、アゴを砕いた悪役令嬢が、新たな伝説を刻み始めるための、第一歩に過ぎなかった。
このサメのヒレは美味いんだろうか?
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