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第7話:呼吸の届く距離、闇の中の捕食者

続きは明日の夜にー

 小屋の扉を静かに開けた瞬間、肺の奥まで(こお)りつくような死の気配が流れ込んできた。

 森の夜気(やき)は湿り、重く、そして鉄錆(てつさび)のような――血と泥が混じった特有の臭いが立ち込めている。


「フェデリ、いい。合図があるまで、肺の中の空気を入れ替えることすら禁じるわ」


 私は(くちびる)に指を当て、隣に立つフェデリに(ささや)いた。

 彼は深く頷き、()びた大鎌を握りしめ直す。


 ズズッ……。

 ズズズッ……。


 音は、すぐそこまで(せま)っていた。 

 本来なら水の中を滑らかに泳ぐはずの巨躯(きょく)が、その自重(じじゅう)で大地を(けず)り、下草を押し(つぶ)しながら進む不快な音だ。

 私たちは小屋の影に身を潜め、樹木の太い幹から幹へと、影を渡るように移動を開始した。


 目標は北の沼地。

 だが、その最短ルート上には、今まさに獲物の振動を求めて森を徘徊(はいかい)する『嵐を呼ぶ顎』が横たわっていた。


「(……いたわ)」


 私は樹木の陰から、その姿を(とら)えた。

 絶句する。

 月光の下で(うごめ)くそれは、もはや魚と呼ぶにはあまりに異質だった。

 体長は二十メートルを超え、戦車のような胴体。その側面にある強靭(きょうじん)な胸ビレは、泥を深く(えぐ)り、まるで巨大な鉤爪(かぎづめ)のように大地を(つか)んでいる。

 サメが動くたびに、周囲の若い木々がポキポキと、まるでマッチ棒のようにへし折られていく。


 何よりおぞましいのは、その「静かさ」だった。

 あれほどの巨体でありながら、奴は立ち止まると完全に気配を消す。

 焼け(ただ)れた口元から糸を引く粘液が、地面に落ちて「ポタッ」と(かす)かな音を立てる。その音さえもが、死のカウントダウンのように響いた。


 遠くからは、アンジェロとニッコラの悲鳴がまだ聞こえてくる。

 サメは首を――そう、本来はないはずの「首」のような部位を、奇妙(きみょう)な角度でカクンと傾けた。側線(そくせん)らしき感覚器を大地に押し当て、振動の源を特定しようとしているのだ。


「(今よ……。あいつが意識をアンジェロたちの方向に向けた瞬間に、鼻先を()けるわよ)」


 私はフェデリの腕を叩き、移動を(うなが)した。

 私たちは地面の枯れ枝一本すら踏まぬよう、慎重に、かつ迅速(じんそく)()い進む。

 サメとの距離、わずか五メートル。

 奴の(あら)い、湿った呼吸が聞こえる距離だ。


 もし今、心臓の鼓動が奴に筒抜(つつぬ)けだとしたら?

 石碑にあった「鼓動(こどう)を線で感じ取る」という記述が真実なら、私たちは(すで)にまな板の上の(こい)ならぬ、皿の上の令嬢だ。

 私は必死に、自分の鼓動(こどう)が大地に響かないよう、全身の筋肉を硬直(こうちょく)させて殺した。


 フェデリの顔から、一筋(ひとすじ)の冷や汗が流れる。

 彼のブーツが、わずかに()れた落ち葉を()った。


 ――カサリ。

 夜の静寂において、それは雷鳴(らいめい)のように大きく聞こえた。


 ピタリと、サメの動きが止まった。


 心臓が止まるかと思った。

 サメの巨大な、(にご)った瞳が、ゆっくりとこちらの方を向く。

 そこには知性などない。あるのは、ただ「動くものを食らう」という原始的な欲求だけ。

 奴の鼻先がひくつき、私たちの匂いと、微かな振動を精査(せいさ)している。


「(……っ)」


 私は反射的に、(となり)のフェデリの手を握りしめた。

 彼の指は氷のように冷たかったが、私の手に()れた瞬間、彼は小さく私の手を握り返した。

 「死ぬ時は一緒だ」と言わんばかりの、あまりに悲壮(ひそう)で、それでいて心強い握力(あくりょく)

 私はその温もりを(かて)に、腰のベルトに差した油の袋に手を伸ばした。


 もし奴がこちらに突進してきたら。

 これを投げつけ、火を放ち、フェデリだけでも逃がす。

 悪役令嬢として、せめて最後くらいは華々しく散ってあげるわ――。


 だが、その時。

 森の反対側で、ひときわ高い悲鳴が上がった。


「嫌あああ! 誰か、誰か助けてええっ! 私の足が岩に(はさま)まって――!」


 ニッコラの叫びだ。

 続いて、アンジェロの怒号(どごう)


「離せ、ニッコラ! 引き抜けばいいだろう! 僕を巻き込むな、僕に(さわ)るなと言っているだろうが!」


 ガサガサと(しげ)みを激しく()らす音。

 その無秩序(むちつじょ)で大きな振動が、サメの注意を完全に引きつけた。

 サメは私たちに向けかけていた関心を、一瞬で捨て去った。


 奴は猛烈(もうれつ)な勢いで地面を()った。

 ドォォォォンッ!と大気が()ぜるような音を立てて、巨大な魚体が森の闇の中へと消えていく。木々がなぎ倒される(すさ)まじい音が、遠ざかっていく。


「……助かったわね」


 私は、肺に()まっていた空気を一気に()き出した。

 (ひざ)が笑いそうになるのを、気力だけで抑えつける。


「クリスティア様、今のうちに。あの二人が食われる前に、沼に仕掛けをしなければ」


 フェデリの声は(かす)れていたが、その瞳には再び闘志(とうし)が宿っていた。

 私は彼の差し出した手を取り、立ち上がる。

 握りしめた手は、まだ離さない。


「ええ。…あの無能たちは、自分が生き延びるために互いを蹴落(けお)としているけれど。私たちは違うわ、フェデリ。信頼という名の、最も強固(きょうこ)な『サメ対策』をあいつに見せてやりましょう」


「はい!」


 私たちは北へと急いだ。

 背後の森では、サメの這う音が近づくたびに、アンジェロたちの絶叫(ぜっきょう)が一段と高まっていく。

 まるで、巨大な怪物に(ささ)げられる供物(くもつ)合唱(がっしょう)のように。


 やがて、森の木々がまばらになり、鼻を突くような泥の臭いが強まってきた。

 月光を反射して黒く光る、死の沼。

 かつて地図の作成者が『底なし』と記した場所。


「…着いたわ。ここが、あいつの墓場よ」


 私は革ベストのポケットから、小屋で手に入れた罠用の鉄線を取り出した。

 そして、フェデリと共に最も深い泥のエリアを見据える。


 私たちの本当の反撃が、ここから始まる。


 だが、私たちはまだ知らなかった。

 極限(きょくげん)まで追い()められたアンジェロとニッコラが、生き()びるために、私たちの想像を(ぜっ)する「最悪の足掻(あが)き」を見せることを――。


ちなみにメガロドンが15~20(最大24)メートルらしいです


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