第6話:森を這う厄災、石碑の警告
続きは明日の夜にー
潮騒の音が遠ざかり、代わりに湿った土と針葉樹の濃い香りが鼻腔を突く。
崖から森の奥へと走り込んだ私たちは、生い茂るシダ植物をかき分け、ようやく月光も届かない鬱蒼とした茂みに身を潜めた。
「はぁ…はぁ…クリスティア様、足元にお気をつけて。ここは岩根が張り出しています」
フェデリが、私の手を取って誘導してくれる。
彼の差し出した手は、先ほどまでの死闘を物語るように細かく震えていたが、握る力には私を守り抜こうとする強い意志が宿っていた。
「ありがとう、フェデリ。…あなたがいなければ、崖を飛び移った瞬間に詰んでいたわ」
私が上着を返し、シュミーズ姿のまま呼吸を整えると、フェデリは気恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「…あんな風にドレスを脱ぎ捨てて戦う公爵令嬢を、私は他に知りません。ですが、今のあなた様は、どの夜会で見かける姿よりも…その、気高く、美しい」
「お世辞はいいわ。今は泥にまみれたサバイバーに過ぎないもの」
私たちは、森の斜面に隠れるように建つ、古い石造りの狩猟小屋を見つけた。
扉は半分壊れかけていたが、壁は厚く、当座の雨風と視線を凌ぐには十分だ。
小屋の中に入ると、フェデリが火打ち石で古いランプに火を灯した。オレンジ色の光が、埃の舞う室内を照らし出す。
「クリスティア様、これを見てください」
フェデリが指差したのは、剥製や猟師たちが残したであろう錆びた道具に囲まれた、中央の作業机だった。
そこには、羊皮紙に書かれたこの別荘地周辺の精密な地形図が広げられていた。
「助かったわ……。これがあれば、闇雲に逃げ回らずに済む」
私は地図の上に身を乗り出した。
今いる小屋から北へ数百メートル。そこには、森の低い場所に広がる「黒き腐泥の沼」が記されていた。
そして、地図の余白には、地図を描いた者の手書きと思われる一筆が添えられている。
『底なしの沼につき注意すること』
「…これを知らずに走っていれば、沼に落ちていたかもしれないわね」
「……危なかった。危うくサメに食われる前に、泥に溺れて人生を終えるところでした。公爵令嬢と宰相の息子が揃って沼で泥人形になるなんて、最悪の社交界デビューになってしまいますからね」
フェデリはそう言うと、わずかに肩の力を抜いて微かに口角を上げた。
極限状態の緊張を和らげようとする、彼なりの不器用な気遣いなのだろう。死の淵に立たされてなお、私を公爵令嬢として――ひとりの人間として、絶望から繋ぎ止めようとするその言葉は、冷え切った私の指先にわずかな温もりを戻してくれた。
「……ふふ、そうね。泥まみれのドレスで踊る趣味はないわ。でもフェデリ、笑えない冗談はそこまでにして」
私がランプを持ち替え、部屋の隅を照らしたときだった。
オレンジ色の灯火が、剥き出しの石壁に深く刻まれた文字を浮き彫りにした。それは地図の端に書かれた走り書きなどではない。かつてこの地を支配し、そして絶望した者たちが残した、血の匂いが漂うような「石碑の続き」だった。
「これは…別荘地の広場にあったものと同じ文体。いいえ、より詳細な『記録』だわ」
私は震える手で、ランプの火を壁に近づけた。
刻まれていたのは、信じがたい内容だった。
『――嵐を呼ぶ顎は、潮に縛られぬ。
奴らの皮膚は乾きに耐え、強靭なる四つのヒレは大地を漕ぐ脚となる。
逃げし者たちが森へ入り、木々に登ろうとも無駄なり。
奴らは視覚に頼らず。大地の震え、生物の鼓動を、その身に走る線で感じ取る。
走れば走るほど、奴らの飢えを刺激する「振動」となりて死を招く――』
読み進めるうちに、私の指先が凍りついた。
嫌な予感が、現実味を帯びて背筋を駆け上がる。
「……フェデリ。あいつ、陸に上がれるわ。それも、ただ一時的に跳ね上がるのではない。本格的に、この森を『回遊』できる構造をしているのよ」
「そんな馬鹿な!? 魚が陸を歩くなど、生物学的にあり得ません!」
「いいえ、あり得るわ。この石碑の記述が正しいなら、あいつの強靭な胸ビレは、獲物を引き裂くためだけではなく、大地を這い進むための『足』として機能している。……そして、今私たちがいるこの場所も――」
その時。
森の入り口の方から、不気味な音が響いてきた。
ズズッ……。
ズズッ……。
それは、重い巨体が濡れた土を擦る音。
そして、パキパキと、太い樹木が根こそぎへし折られる破壊音。
地響きは、崖の上で感じたものよりもさらに近く、そして重く響いている。
「……来たわ」
私は小屋の中にあった、古びた狩猟用の革ベストを手に取った。
シュミーズの上にそれを羽織り、ベルトで腰をきつく締める。さらに、壁に掛かっていた猟師用のマントを引き裂いて脚に巻き付け、即席のゲートルを作った。
華美な公爵令嬢の面影は消え、そこには実戦的な「サメ対策仕様」の装束を纏った女がいた。
「フェデリ、そこに革の袋があるわ。中身は……油ね。それと、猟師たちが使っていた罠用の鉄線を。あいつを陸地で迎撃するわよ」
「正気ですか、クリスティア様! あんな化け物を相手に、こんな小さな小屋で…!」
「逃げる場所なんてどこにもないわ。逃げれば逃げるほど、あいつは振動を察知して加速する。なら、あいつを『沼』へ誘い込むのよ。この小屋の裏にある、底なしの腐植土の沼へ」
私は、小屋の隅に置かれていた、先端の尖った鉄製の銛を握りしめた。
フェデリもまた、私の冷静な判断に感化されたのか、恐怖を抑え込み、自らも錆びた大鎌を手に取った。
「…了解しました。あなたの指示に従います。クリスティア様、あなたが生き残る道を選ぶなら、私はその盾となり、矛となりましょう」
「頼りにしてるわ、フェデリ。……さあ、バッドボーイ。森の中は、海ほど自由じゃないことを教えてあげる」
小屋の隙間から外を覗くと、月光を遮るほど巨大な影が、森の樹木をなぎ倒しながら這い寄ってくるのが見えた。
焼け爛れた口元から、ドロリとした粘液を滴らせ、あいつの巨大な瞳が闇の中で鈍く光る。
サメは、陸に上がった。
その胸ビレを力強く大地に突き立て、戦車のような質量でこちらへ向かってくる。
一方、森のどこか遠くから、命からがら崖を這い上がってきたアンジェロとニッコラが、互いを突き飛ばしながら逃げ惑う醜い絶叫が響いてきた。その足音と悲鳴は、陸に上がったサメにとって、これ以上ない「食事のサイン」として機能している。
「……ちょうどいいわ。あの二人が撒き散らす振動に、あいつの意識が向いている隙を突くわよ」
私はフェデリの目を見据え、低く、鋭い声で命じた。
「あいつが二人を追っている間に、私たちは沼の向こう側へ回り込むわ。振動を殺して、一気に走るわよ!」
「はい、クリスティア様!」
森という名の密室で、伝説のサメとの陸上戦が今、幕を開ける。
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