第5話:灼熱のデザート、瓦礫の上の喜劇
続きは明日の夜にー
夜の海は、不気味なほどに凪いでいた。
だが、その静寂は「平穏」ではなく、次の一口を飲み込むための「溜め」でしかないことを、私は知っている。
「アンジェロ様! あそこ! サメが、サメがすぐそこに!」
海面に浮かぶ避難塔の瓦礫の上で、ニッコラが狂ったように叫んでいた。
見れば、彼女とアンジェロがしがみついている大きな石材の周囲を、巨大な背びれがゆっくりと、円を描くように回遊している。
それは、獲物をじわじわと追い詰め、心臓の鼓動が最高潮に達した瞬間に食らいつく、伝説の捕食者特有の儀式だった。
「来るな! あっちへ行け! ニッコラ、お前が囮になれ! お前なら肉が柔らかくて美味いはずだ!」
「何を仰るんですか! アンジェロ様こそ、王族の気高い血をあのお魚に献上なさいませ!」
崖の上まで、二人の罵り合いが聞こえてくる。
さっきまで「愛している」「結婚しよう」と誓い合っていた者たちが、死を前にして、互いをサメの口へ突き飛ばそうと必死になっている。
……滑稽。
あまりにも滑稽で、私は笑いを堪えることすら忘れてしまった。
「クリスティア様、火の準備が整いました」
フェデリが、流木を集めて作った即席の松明を私に差し出した。
私は、右手にマウロの遺品であるブランデーの火炎瓶を、左手に松明を持つ。
シュミーズ一枚にフェデリの上着を羽織っただけの姿だが、今の私は、どんな豪華なドレスを着ていた時よりも、「スピネルリ公爵家の女」としての誇りに満ちている。
「フェデリ。あのサメは、瓦礫が邪魔で二人を一気に飲み込めずにいるわ。今、あいつの注意は『下』に向いている。そこを叩くわよ」
「命中させられますか?」
「ええ。幸い、マウロ様のブランデーは最高級品だもの。きっと、あいつの喉越しもいいはずよ」
私は、崖の縁からさらに一歩踏み出し、不安定な岩場に足をかけた。
眼下ではサメがしびれを切らしたのか、回遊の円を急激に狭めている。
右ヒレの古傷が、水面を割って月光を弾く。
あそこだ。
「アンジェロ殿下、ニッコラ様! 少しだけ熱くなりますわよ!」
私の叫び声に、瓦礫の上の二人が一斉に顔を上げた。
「クリスティア! 助けてくれ! 早く、早くロープを――」
「さようなら、殿下。……召し上がれ、バッドボーイ!」
私は、松明の火を火炎瓶の布に付けた。
シュッ、と景気のいい音を立てて火が回る。
私は全身のバネを使い、公爵令嬢の教育では決して教わらなかった「投擲」の動作を、完璧なフォームで繰り出した。
夜空を弧を描いて飛ぶ、オレンジ色の光。
それは一直線に、サメが次の一撃を加えようと大きく口を開けた、その喉奥へと吸い込まれていった。
パリンッ!!!
瓶が砕ける音。
そして――
ドォォォォォォォンッ!!!
海面で、爆発的な火柱が上がった。
最高級のアルコールが、サメの口腔内で一気に気化し、激しく燃え上がる。
魔法のないこの世界において、生物の体内から「火」が吹き出すなど、未曾有の事態だ。
グルゥゥゥゥゥゥゥゥ……ッ!!
サメが、聞いたこともないような苦悶の声を上げた。
巨大な巨躯が水面でのたうち回り、灼熱の熱さに抗うように海水を激しく撥ね飛ばす。
「ひ、火が! 海が燃えているわ!」
ニッコラが悲鳴を上げるが、それどころではない。
サメの暴れっぷりによって生じた大波が、彼女たちがしがみついていた瓦礫を直撃したのだ。
「うわああああっ!」
アンジェロが瓦礫から滑り落ち、海へと放り出される。
彼は必死に犬かきをしながら、再び瓦礫に這い上がろうとするが、そこには既に先客がいた。
「来ないでください、アンジェロ様! 沈む! 二人乗ったら沈んでしまいますわ!」
ニッコラが、這い上がろうとするアンジェロの顔面を、華奢な足で容赦なく蹴り飛ばした。
「ぐふっ!? ニッコラ、貴様……僕が誰だと思っている! 僕はこの国の王太子だぞ!」
「死んでしまえば、ただの肉の塊ですわ! あっちへ行って!」
王太子と伯爵令嬢が、海面で醜い瓦礫の取り合いを始める。
互いの髪を掴み、顔を殴り合い、少しでも高い場所へ登ろうと必死に足蹴にする。
それは、いかなる喜劇作家も描けなかったであろう、究極の人間ドラマ。
一方、火炎瓶の直撃を受けたサメは、一度深く潜航した。
だが、あいつは逃げたわけではない。
私は、消えかかった海面の火を見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「フェデリ、避けて!」
「えっ――」
次の瞬間、崖の岩肌が激震した。
ドォォォォォォォォォンッ!!!
サメは、体内を焼かれた怒りをすべて破壊衝動に変え、再び崖の土台へ特攻を仕掛けていた。
一回目の体当たりよりも、遥かに重く、鋭い衝撃。
バリバリと不吉な音を立てて、私たちが立っている岩場に、巨大な亀裂が走った。
「クリスティア様、危ない!」
フェデリが私の腰を抱き寄せ、内側へと飛び退く。
コンマ数秒後、私たちがさっきまで立っていた場所が、丸ごと海へと崩落していった。
「……学習したのね。火を投げたのが『上』にいる獲物だと、あいつは理解したわ」
崩れ落ちた岩の隙間から、サメが再び姿を現す。
その口元は火傷で黒く焼け爛れていたが、瞳の奥に宿る「捕食者の殺意」は、火を吹き消すほどに冷たく燃えていた。
あいつは怒っている。
ただの食事を、自分に痛みを教えた敵として認識したのだ。
「フェデリ、武器を。松明を渡して」
私はフェデリから松明を受け取ると、あえて崖の先端付近でそれを大きく振った。
「こっちよ、バッドボーイ! 今のデザートはお気に召したかしら? まだおかわりはあるわよ!」
挑発に応じるように、サメが水面を叩く。
そして、サメの動きに合わせて、海面に浮かぶアンジェロたちの瓦礫も、少しずつ崖の真下へと引き寄せられていく。
「た、助けて……クリスティア、お願いだ、助けてくれ……!」
アンジェロが、ニッコラとの争奪戦に負け、水中で瓦礫の端を辛うじて掴みながら、涙と鼻水で顔を汚してこちらを見上げている。
「お前が、お前がその火で、あいつを追い払ってくれれば…!」
「あら、殿下。私は立ち去れと言われた『元』婚約者ですもの。赤の他人を助ける義理はございませんわ。…それとも、今ここで婚約破棄を無効にして、私に助けを乞いますか?」
「ああ! 無効だ、無効に決まっている! 君こそが僕の妃だ! だから助けて――」
「お断りしますわ」
私は、松明をサメの鼻先に向かって投げ下ろした。
火が水面に落ち、一瞬だけアンジェロの恐怖に満ちた顔を照らし出す。
「私は、自分の意志で、あなたを捨てましたのよ。…フェデリ、行きましょう。あいつが次に崖を叩けば、ここは持たない。次のステージへ向かうわよ」
「……御意」
私たちは、崩落を続ける崖を背に、闇に沈んだ森の方へと走り出した。
さすがにサメも海からは上がれないだろうガハハ勝ったな
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