第2話:シドニー、断罪の海に消ゆ
続きは明日の昼頃にー
それは、この世のものとは思えない音だった。
巨大な石臼が岩を粉砕したような、あるいは、熟れた果実を鉄槌で叩き潰したような――。
空気を震わせたのは、アンジェロの婚約破棄宣言への喝采ではなく、伝説の捕食者がその巨大な顎を閉じた、死の炸裂音だった。
海面が爆発し、真っ白な水飛沫が十メートル以上も跳ね上がる。
降り注ぐ水滴は、次の瞬間、おぞましい「赤」へと色を変えた。
「……え?」
真っ先に声を上げたのは、ニッコラだった。
彼女の美しい桃色の髪と、扇情的な水着に包まれた肌に、熱い、粘り気のある液体がこびりつく。
アンジェロの顔にも、それは等しく降り注いでいた。
彼らがいた場所のすぐ隣。
さっきまで「異議なし!」と威勢よく叫び、私を指差して笑っていた騎士、シドニー・トランジェリの姿が、どこにもなかった。
海面に浮いているのは、彼が自慢していた騎士団の勲章がついた帽子と、何かが引き千切られたような、肉の断片だけだ。
「シ、シドニー……? どこへ行ったんだ、冗談はやめろ!」
アンジェロが、震える声で周囲を見回す。
だが、答えは「下」からやってきた。
ゴボリ、と巨大な気泡が海面を割り、再びあの「影」が姿を現す。
今度は、背びれだけではない。
アンジェロたちの目の前に突き出されたのは、潜水艦の艦首を思わせる、鈍色に光るサメの鼻面だった。
その口元には、シドニーが最後に握っていたはずの、折れた剣の柄が虚しく引っかかっている。
「ひ……ひいいいっ! ば、怪物! 怪物がいるぞ!!」
マウロが、浮き輪の上で醜く手足をバタつかせた。
騎士としての誇りを説いていたシドニーが、文字通り「一口」でいかれたのだ。これ以上の絶望はない。
「フェデリ、止まらないで! 早く!」
私は呆然と立ち尽くすフェデリの袖を強く引き、砂浜を駆け出した。
背後では、ようやく現実に追いついたニッコラの悲鳴が、ビーチの静寂を切り裂いている。
「走れ! 全員、海から上がれ! 建物へ逃げろ!」
フェデリが叫ぶ。
その声に弾かれたように、アンジェロとニッコラ、そして残った取り巻きたちは、無様に海水を掻き回しながら浜辺へと向かった。
だが、サメという生き物は、逃げる獲物の動き――水の振動にこそ、最も強く反応する。
「……来るわよ」
私が砂浜を駆け上がりながら振り返った瞬間、サメは二度目の跳躍を見せた。
今度の標的は、逃げ遅れた取り巻きの一人、テオだった。
「助けて、ニッコラ様! 殿下!」
テオが必死に手を伸ばす。その数センチ先には、アンジェロの指があった。
だが、アンジェロはその手を掴まなかった。
それどころか、彼はテオの肩を蹴り飛ばし、自らが加速するための踏み台にしたのだ。
「す、すまないテオ! 君の犠牲は忘れない!」
「なっ……殿下!?」
テオの絶望が完成するよりも早く、海中から突き出した顎が、彼の腰から下を「刈り取った」。
絶叫すら上げられず、テオの体はそのまま水中に引きずり込まれていく。
波打ち際は、もはや宝石のようなブルーではなかった。
それは、濃縮された死の色、赤黒い血のスープへと変貌していた。
私たちはようやく、ビーチの端にある石造りの避難塔の入り口にたどり着いた。
遅れて、アンジェロとニッコラ、そしてマウロが、肺が破れんばかりの荒い息を吐きながら転がり込んでくる。
「はぁ…はぁ…な、なんだ、あいつは! あんなもの、聞いていないぞ!」
アンジェロが床にへたり込み、情けなく喚き散らす。
金髪は乱れ、顔は恐怖と海水でぐちゃぐちゃだ。
ニッコラに至っては、腰が抜けたのか、四つん這いのままガタガタと震えている。
「殿下、落ち着いてください。…シドニーとテオが、やられました」
マウロが眼鏡を失くした顔で、震える指を海に向けた。そこには、もはや人影はない。
ただ、狂ったように水面を叩く、巨大な尾びれの残像が見えるだけだ。
「……落ち着けと言って、落ち着ける状況かしら?」
私は、避難塔の重厚な鉄の扉を閉め、閂を下ろした。
塔の小窓から外を覗くと、サメは浜辺のすぐ近くまで迫っていた。
驚くべきことに、その怪物は浅瀬であるはずの砂浜を、強靭なヒレを使って這うように動いている。
石碑の記述は正しかったのだ。
『あらゆるものを口に入れ、噛み砕く』
それは海の中だけに留まる存在ではない。
「クリスティア…! そうだ、お前のせいだ!」
突然、アンジェロが私を指差して立ち上がった。
その瞳には、恐怖を転嫁するための醜い怒りが宿っている。
「お前が不吉なことを言ったから、あんな化け物が現れたんだ! お前が、あの老いぼれと共謀して、僕を殺そうとしたんだろう!?」
「殿下、正気ですか? 私がサメを操れるとでも? 魔法すら存在しないこの世界で?」
「うるさい! 公爵家の力を使えば、何か細工ができたはずだ! シドニーを返せ! テオを返せ!」
アンジェロが私に詰め寄ろうとした、その時。
――ドォォォォンッ!!
避難塔全体が、巨大な鉄槌で叩かれたように激しく揺れた。
悲鳴を上げて床に転がる一同。
「……っ、始まったわね」
私は揺れる壁で体を支えながら、小窓から外を凝視した。
サメが、塔の土台にその巨躯を打ち付けていた。
一噛みで石を砕くというその顎が、塔の石壁をガリガリと削り取っている。
魔法はない。だが、そこにあるのは、数千年の時を超えて研ぎ澄まされた、純粋な破壊の意志だ。
「おい、マウロ! お前の家の護衛はどうした!? 早くあいつを殺せ!」
「無茶を言わないでください! 彼らは全員、さっきの波打ち際で…!」
マウロが絶望的な声を出す。
そう、この別荘地にいた衛兵や護衛たちは、主君を守ろうとして真っ先に海に飛び込み、既にサメの胃袋の中に収まっている。
今、この塔に生き残っているのは、無能な王太子、腰抜けの令嬢、狡猾な公爵息子のマウロ、そしてフェデリと私の五人だけだ。
「……フェデリ」
私は、隣で流木の破片を握りしめているフェデリに声をかけた。
彼は恐怖に震えながらも、その目は冷静に状況を観察している。
「あのサメ、右のヒレに傷があったわね。石碑にあった『嵐を呼ぶ顎』の特徴と一致するわ。あれはただの獣じゃない。この地の地形を知り尽くした、守護神か…あるいは、悪魔よ」
「クリスティア様、あなたは何故そんなに冷静なのですか…。シドニーたちが、あんなにあっさり……」
「冷静にならなければ、次の『一口』になるのは私か、あなたよ。フェデリ、選んで。ここで王太子の八つ当たりを聞きながら食われるか、それとも、私の指揮下で生き残るか」
フェデリは、一瞬だけアンジェロを見た。
アンジェロは今、ニッコラと抱き合いながら「助けてくれ、パパ……陛下…」とうわ言のように繰り返している。
宰相の息子として、仕えるべき主君の姿は、そこにはなかった。
「…指示を、お願いします。クリスティア様」
フェデリが、力強く流木を握り直した。
その時、避難塔の壁に亀裂が走った。
サメの突進が、石造りの建物を内側から破壊し始めている。
海水が隙間から流れ込み、塔の床を濡らしていく。
「あ、あああ……水が! 水が来ますわ!」
ニッコラが狂ったように叫び、部屋の隅へ逃げようとする。
だが、その背後の壁が、凄まじい音と共に弾け飛んだ。
暗闇の中から突き出した、巨大な顎。
それは、アンジェロのすぐ目の前で、ニッコラの水着のパレオを掠めて閉じた。
「ヒッ……イィィィィィッ!!」
アンジェロの股間から、情けない液体が漏れ出す。
婚約破棄を言い渡した時の威厳など、微塵もない。
私は、それを見て、心の底から冷ややかな笑みを浮かべた。
ああ、なんと滑稽で、なんと美しい死の舞台。
「殿下。さっき、私に『立ち去れ』と仰いましたわね」
私は、浸水し始めた床を悠然と歩き、腰を抜かした王太子の前で立ち止まった。
壁の穴からは、サメの巨大な瞳が、こちらを値踏みするように覗いている。
「ご希望通り、私はここから立ち去ります。自力でね。…ですが、あなたたちはどうかしら? その肥えた肉、あのバッドボーイにとっては、最高のデザートになりそうですわよ」
「ま、待て! クリスティア! 行かないでくれ! さっきのは嘘だ、婚約破棄なんて撤回する! 助けてくれ!」
「お断りしますわ。婚約破棄は、既に受理いたしましたもの」
私は、背後で激しく揺れる塔の崩壊を感じながら、フェデリに向かって告げた。
「フェデリ。この塔の二階へ。屋上から隣の崖へ飛び移るわよ。ついて来られる?」
「……死ぬ気で、行きます!」
パキパキと、石壁が限界を告げる音が響く。
伝説のサメが、本格的に「食事」を開始しようとしていた。
阿鼻叫喚の第2幕。
血のバカンスは、まだ始まったばかり。
・裏設定
あっさり死んだテオですが男爵家の出身で、最近侯爵家の養子になりました。
そのためアンジェロに「お前は元男爵家だから分からないか」と悪意なくマウントを取られておりました。
内心アンジェロに殺意が沸いています。
また貴族らしくないニッコラに惹かれていました。
まあ全部海の泡に消えたんですけどね。
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