第1話:バカンスは最悪の始まり
続きは夜にー
燦々と降り注ぐ太陽の光。真っ白な砂浜。宝石を溶かしたようなエメラルドブルーの海。
サンドリ王国の王族のみが使用を許される伝説の避暑地『カトラス・ビーチ』は、本来ならば楽園と呼ぶにふさわしい場所のはずだった。
だが、私、クリスティア・スピネルリにとって、ここは地獄よりも退屈で、掃き溜めよりも不快な場所でしかない。
「ねえ、アンジェロ様ぁ。見てください、あの雲! まるで私とアンジェロ様を祝うマリッジケーキみたいですわ!」
鼓膜を突き刺すような、甘ったるい嬌声。
声の主は、伯爵家の末娘ニッコラ・デプラ。ふわふわとした桃色の髪をなびかせ、私の婚約者であるアンジェロ王太子の腕に、これでもかとばかりに自らの胸を押し付けている。
「ははは、本当だね、ニッコラ。君の純真な心には、空の雲さえ祝福の品に見えるのか。なんて愛らしいんだ」
アンジェロが、ニッコラの鼻先を指で突く。
私はその光景を、パラソルの下でキンキンに冷えた辛口の白ワインを啜りながら、無機質な瞳で眺めていた。
一応言っておくが、私はアンジェロ王太子の正妃になるべく定められた婚約者だ。スピネルリ公爵家の長女として、幼い頃から厳しい教育を耐え抜いてきた。
だが、隣に座る我が婚約者はどうだ。
まばゆいばかりの金髪と整った顔立ちは、確かに「王子様」そのものだろう。しかし、その頭蓋骨の中身は、おそらく今彼が飲んでいるフルーツポンチのシロップと大差ない。
「クリスティア。君も少しはニッコラを見習ったらどうだい? そんな可愛げのない態度でワインばかり飲んで。せっかくのバカンスが台無しじゃないか」
アンジェロが、こちらを煩わしそうに一瞥した。
彼の周りには、金魚のフンのように取り巻きたちが群がっている。
「殿方の仰る通りですよ、クリスティア様。そんな可愛げのない態度では、殿方の心が離れてしまうのも無理はありませんな。そもそも、剣も振るえぬ女が、公爵家の威光だけで王太子妃の座に居座り続けること自体、不自然なのです」
鼻を鳴らしたのは、騎士のシドニー・トランジェリだ。代々騎士の家系であることを鼻にかけ、アンジェロへの忠誠心(と、脳みそまで筋肉でできているような短絡さ)で知られている。彼は以前から、私に対して「早く婚約を辞退しろ」と公然と口にする無礼者だった。
「おやめなさい、シドニー。クリスティア様は公爵令嬢としてのプライドが、その……重りになっていらっしゃるのですよ。僕らのような自由な魂には理解できない苦労があるのでしょう。まあ、その重りのせいで、いずれ沈んでしまうのでしょうが」
眼鏡を押し上げたのは、マウロ・ジェルシーニ。我が家と対立する公爵家の息子だ。その目は明らかに、私が失脚する瞬間をニヤニヤと待ち侘びている。
他にも、宰相の息子フェデリが少し離れた場所で沈黙を守り、養子のテオがニッコラを熱っぽい目で見つめている。
どこを見渡しても、見事に腐りきった光景だ。
私は、自分の知能指数が海水に溶け出してしまわないよう、ワインを一口含んで溜息をついた。
――その時だった。
穏やかな波打ち際。水深わずか数十センチの場所に、一匹の小魚が打ち上げられた。
銀色の鱗を光らせ、必死に跳ねている。
だが、その小魚はすぐに動かなくなった。
よく見ると、その体は「何か」に怯えるように、細かく震え、やがて呼吸を止めた。
「あら、死んじゃった。汚い魚。アンジェロ様、私、死体なんて見たくありませんわ」
ニッコラがわざとらしく肩をすくめ、アンジェロの影に隠れる。
「衛兵! そのゴミを片付けろ! ニッコラの視界を汚すな!」
アンジェロの怒声が飛ぶが、近くにいたはずの衛兵の姿が見当たらない。
代わりに、砂浜の端で網を繕っていた老漁師が、ガタガタと震えながら立ち上がった。
「……海が、黙った。鳥も、魚も……みんな、息を殺してやがる」
老人は虚空を見つめ、何かに祈るように十字を切った。
「なんだ、この薄汚い老人は」
シドニーが歩み寄り、老人の胸ぐらを掴もうとする。だが、老人の瞳には、シドニーなど映っていなかった。その視線は、遥か沖合の、深淵のような紺碧の海へと注がれている。
「風が止まった。海が凪いだ。…地獄の門が開いたんだ。石碑の警告を忘れたのか! 『凪の日に、嵐を呼ぶ顎が現れる』……逃げろ、今すぐに、高台へ逃げるんだ!」
「石碑? ああ、あの数百年も前の古臭い迷信のことか」
マウロがせせら笑った。
この地には、大昔に巨大なサメが襲来し、一晩で村を壊滅させたという伝説がある。砂浜の隅に、文字が擦り切れた不気味な石碑が立っている。
「老いぼれ。殿下を脅かそうというのか? 魔法も使えぬただの魚が、この僕がいるこの場所に現れるとでも?」
シドニーが剣を誇示するように、老人の目の前で鞘をカチリと鳴らした。
「助からねえ。…一口にされれば、あとは地獄だぞ。今日、海は食事の準備を整えている……」
老人は震える足取りで、逃げるように村の方へと去っていった。
あとに残ったのは、アンジェロたちの下卑た笑い声だけだった。
「ひどい老人でしたね、アンジェロ様! あんなの無視して、泳ぎに行きましょう?」
「ああ、行こう。シドニー、テオ、マウロ! 最高のバカンスはこれからだ。ニッコラ、君の美しい泳ぎを見せておくれ」
アンジェロがニッコラの腰を引き寄せ、波打ち際へと歩き出す。
――同じ頃。 海中。
そこは、静寂と暴力が支配する世界だった。
光の届かない深淵から、巨大な影がゆっくりと浮上してくる。
その体長は、王室が誇る最新鋭の軍船をも凌ぐ。
灰色の肌は鎧のように硬く、無数の戦いの中で刻まれた傷跡が誇り高く刻まれている。
特に、右のヒレにある巨大な古傷は、かつてこの生物を殺そうとした人間たちの愚かな足掻きの証だった。
影は、水面に浮かぶ「騒音」を捉えていた。
バチャバチャと無防備に水を蹴る音。
傲慢に響き渡る笑い声。
そして、流される汗の匂い、高慢な香水の残り香。
それは、伝説の捕食者にとって、数百年ぶりの最高の「おもてなし」だった。
サメは、決して急がない。
獲物が最も油断し、最も幸福を感じている瞬間に、絶望を叩きつけるのが流儀だ。
右ヒレをわずかに動かし、影は水面へと加速する。
獲物は、もう、目の前だ。
――再び、砂浜。
「クリスティア様。あなたも、あの老人の言葉が気になりますか?」
隣にいたフェデリが、低い声で尋ねてきた。
彼はアンジェロたちとは違い、海に背を向け、浜辺に落ちている流木の破片を拾い上げている。その手は、かすかに震えていた。
「気になる、というより…この違和感、フェデリ、あなたも感じているでしょう?」
私はワイングラスを置き、ゆっくりと立ち上がった。
海が、あまりにも静かすぎるのだ。
さっきまで騒がしかったカモメの鳴き声が、いつの間にか完全に消えている。
波の音さえも、砂を洗う音が、まるで誰かの忍び足のように聞こえる。
「……見て」
私の指先が、水平線の一部を指した。
そこには、鏡のような水面を静かに切り裂く、一筋の影があった。
巨大な、あまりに巨大な三角形の背びれ。
それは波一つ立てず、しかし驚異的な速度で、はしゃぎ回る王太子一行の背後へと、扇の弧を描くように接近していく。
だが、彼らは気づかない。
アンジェロはニッコラの肩を抱き、シドニーは得意げに平泳ぎを披露し、マウロは浮き輪の上でのんびりとワインの続きを欲しがっており、テオは顔についた水を払っている。
「殿下! 戻ってください! 海がおかしい!」
フェデリが声を限りに叫んだ。
その声に、アンジェロがようやくこちらを振り返る。
「なんだい、フェデリ! 君もクリスティアのように臆病風に吹かれたのか!? ほら見ろ、海はこんなに穏やか……あはは、ニッコラ、冷たいじゃないか、水をかけるなよ!」
「か、かけてませんわ、アンジェロ様。それより、あそこ……」
ニッコラが、アンジェロの背後を指差した。
その瞬間、海の色が変わった。
深い青色が、一気にどす黒い「影」に覆われる。
アンジェロのすぐ後ろ。
海面から、一対の、巨大な冷たい瞳が姿を現した。
「……あ」
アンジェロの顔から、血の気が引いていく。
だが、その恐怖の正体が何であるかを理解する前に、彼は自らの目的を思い出したらしい。
こんな極限状態にあってなお、彼の脳は「不都合な現実」から逃げるために、目の前の婚約者を攻撃することを選択したのだ。
「……そうだ! クリスティア! 君がそんな不吉な顔をしているから、バカンスが台無しなんだ! いい機会だ、ここで宣言してやる!」
海中に巨大な怪物の気配を感じながら、アンジェロは恐怖を虚勢で塗りつぶし、大声で叫んだ。
「クリスティア・スピネルリ! 僕は君との婚約を破棄する! 僕の隣にふさわしいのは、この愛らしいニッコラだけだ! 君は今すぐ、一人でこのビーチから立ち去れ!」
「「「異議なし!!」」」
取り巻きたちが、水の中から喝采を上げた。
シドニーが、マウロが、テオが。
死の影がすぐそこまで迫っていることも知らず、彼らは最高潮の笑顔で、私を嘲笑った。
私は、無機質な瞳で彼らを見つめ、静かに答えた。
「左様でございますか。殿下。では、ご希望通りに」
私は、パラソルの下から一歩も動かない。
ただ、ワインのボトルを手に取り、フェデリに向かって小さく頷いた。
「フェデリ。高台の避難塔まで、競走しましょうか」
「……え?」
「早くしなさい。――メインディッシュが、届いたわよ」
私が言い終わるのと同時だった。
アンジェロの背後で、海面が爆発した。
バシャアアアアアンッ!!!
巨大な灰色の山が、天を衝くように跳ね上がる。
アンジェロの叫び声も、ニッコラの悲鳴も、すべてはその「顎」が閉じる音にかき消された。
伝説のバッドボーイ。
その狂宴が、今、始まった。
息抜きに始めました
ありそうでなかった王道のB級サメ映画×悪役令嬢です
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