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婚約破棄、好都合です!……だって私、"病気"をうつされたくないもの

 王城の舞踏会場。その絢爛豪華なシャンデリアの下で、私、リュシア・アルフェインはいつものように壁の花となっていた。


 私はこの国で最も強い聖力を持つ「筆頭聖女」だ。 国一番の聖力を持つ者が王家に入り、その血を次代へ繋ぐ――それがこの国の鉄の掟であり、私が王太子ジェラルド殿下の婚約者とされた唯一の理由だった。愛など、最初からそこにはない。


「……あら、リュシア様。また壁とお話ししていますの?」 「夜の闇のような黒髪がお似合いですこと。陰気な貴女にはぴったりですわ」


 扇子で口元を隠した聖女仲間たちが、私の横を通り過ぎざまに嘲笑を投げかける。 彼女たちは事ある毎に私を蔑んできた。祈祷の時間をわざと間違えて伝えたり、私の聖衣に泥水をぶちまけたり。私が東方の血を引く「黒髪」であることを理由に、異端者扱いをするのだ。 殿下もそれを見て見ぬふり……いや、むしろ一緒になって鼻で笑っていた。


(あと少し。あと少しで今日の公務も終わる……)


 そう自分に言い聞かせていた、その時だった。


「リュシア、貴様との婚約はこれをもって破棄する!そして、この神聖なる王国からの追放を命じる!」


 ジェラルド殿下の張り上げた声が、広大なホールを揺らした。整った金髪に碧眼。 かつてその風貌は「太陽の君」と謳われるほどのものだったが、今は土気色の肌に脂汗が玉のように浮いており、どことなく不健康さを感じる。瞳は熱っぽく潤み、小刻みに震える指先からは、隠しきれない焦燥が滲み出ていた。彼の隣には、ねっとりと腕を絡める聖女ターニャの姿があった。


「理由は、何でございましょうか」


 私は努めて冷静に、感情の起伏を殺した声で尋ねた。 殿下は私のその態度が気に入らないのか、苛立ちを露わにして叫んだ。


「理由だと?まだ分からないのか、この忌々しい女め!」


 ジェラルド殿下は、まるで汚物を見るような目で私を見下ろした。


「第一に、その不吉な黒髪だ!我が国の輝ける光の威光に泥を塗る、夜の闇のようなその髪……見ているだけで虫唾が走る!」


 私の髪は、東方の国出身の母から受け継いだ濡羽色だ。この国では珍しいが、決して不吉などではない。

 だが私を侮辱できればなんでも良いのだろう。 周囲を取り囲む貴族たち、そして私を日頃から疎ましく思っていた他の聖女たちが、「それ見たことか」と冷ややかな視線を送ってくる。


「第二に!貴様の淹れる茶だ!茶会のたびに、あの泥水のような不味い茶を飲ませおって!あれは俺への嫌がらせだろう!」


「あれは……」


 釈明のため口を開くが、殿下は手を大袈裟に振りかぶりそれを制する。


「言い訳無用!そして第三に……これが最大の侮辱だ!」


 殿下は隣にいるターニャの腰を強く引き寄せた。聖女の純白のローブが、殿下の汗ばんだ手で汚されていく。ターニャは勝ち誇ったように私を見下ろし、その豊満な胸を殿下の腕に押し付けた。


「貴様は、婚約者である俺に指一本触れさせなかった。手を取ることさえ拒み、ましてや口付けなど論外。……それに引き換え、ターニャはどうだ?愛嬌があり、俺の求めに素直に応じ、心身ともに尽くしてくれる。彼女こそが次期筆頭聖女にふさわしい!」


 殿下の言葉に、会場中がざわめく。 王太子が公衆の面前で、筆頭聖女以外の女――それも同じ聖女仲間との不貞を公言したのだ。それ以前に、そもそも筆頭聖女は聖力の一番強い聖女のための称号であり、間違っても殿下への奉仕度合いで変わるものではない。だが、貴族連中の批判の目は王太子ではなく、「堅物で魅力のない」私へと向けられていた。


「さあ、何か言ったらどうだ?石のように冷たいリュシアよ」


 勝ち誇った顔で笑う殿下。 私はゆっくりと顔を上げた。 その瞬間、私の瞳に宿ったのは、彼らが期待した悲嘆の涙ではなく、憐れみを含んだ冷徹な光。


「謹んで、婚約破棄と追放の件、承りました」


 私の声は、驚くほど澄んでいた。


「黒髪は母から受け継いだ私の誇りです。これを不吉と言うのであれば、東方諸国との外交など未来永劫不可能でしょう」


 一歩、前へ出る。


「お茶に関しては、殿下のお身体を思ってのこと。良薬口に苦しと申します」


「ふん、負け惜しみを!」


「そして……触れなかった件についてですが」


 私は憐れみを込めて、彼を見上げた。


「だって殿下。――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 時が止まった。 その言葉の意味を理解できず、貴族たちが顔を見合わせる中、私は心の中で静かに独りごちた。


(……ええ、そうよ。だって汚らわしいのですもの)


 走馬灯のように、これまでの日々が脳裏をよぎる。

 私と殿下の間に、愛など最初からなかった。 私は希少な聖魔法の使い手として、殿下は王家の血筋として。互いに国を背負うための政略的な婚約だった。 それでも私は、努力をしたのだ。愛はなくとも、互いに尊敬し、支え合えるパートナーでありたいと心を砕いてきた。

 けれど、それはあまりにも一方的な願いだった。 婚約して間もない頃、殿下は私に興味本位で触れようとした。まだ信頼関係も築けていない中での、情欲に濡れた接触。 『結婚前の節度を守るべきです』 私が毅然と拒絶すると、殿下は『堅苦しい女だ、可愛げがない』と吐き捨て、それ以来私を避けるようになった。

 決定打となったのは、数ヶ月前のことだ。 廊下でターニャとすれ違った際、彼女は私に聞こえるような声で囁いた。 『殿下はね、冷たい石像よりも、温かい肌がお好きなんですのよ』 その勝ち誇った笑みに胸騒ぎを覚え、私は内密に調査を行った。

 結果は、想像を絶するものだった。 殿下はターニャと深い仲にあるだけではなかった。あろうことか、城下町のスラム街にある『黒猫の夜鳴き処』という、衛生観念の欠落した安価な娼館にまで入り浸っていたのだ。


(浮気されていることは、薄々気づいていた。いつか婚約は解消されるだろうとも思っていた。でも……)


 不誠実な人だとは知っていたが、まさか一国の王太子が自らの体を危険に晒す愚行に走るとは。

 婚約者としての関係が崩壊していることはわかっていても、私は彼を見捨てきれなかった。彼が倒れれば国が傾くからだ。


 “聖力”と言っても、その力には限界がある。 聖女の力は、呪いを解き、外傷を癒やすことはできる。しかし、病原菌という「異物」が体内に入り込んだ場合、魔力はそれを活性化させてしまうことすらある。 病を治すのは、聖女ではなく「医師」や「薬師」の領分なのだ。


 『殿下、顔色が優れません。一度、専門の医者に診ていただいては』 そう進言しても、殿下は『俺を病人のように扱うな!』と激昂し、聞く耳を持たなかった。

 だから私は、強引な手段に出た。 母の故郷に伝わる、強力な解毒と免疫賦活作用のある薬草茶。苦味が強いそれを、蜂蜜で飲みやすく調整し、茶会のたびに淹れ続けたのだ。 せめて発症を遅らせ、最悪の事態を防ぐために。 それが、彼にとって「泥水」でしかなかったとしても。


(……もう、いいわ。私の義理は果たしました)


 私は思考の海から浮上し、現実の殿下を見据えた。


「殿下。貴方様は、城下にある『黒猫の夜鳴き処』という娼館に、足繁く通っておいでですよね?」


 娼館という言葉に、会場が凍りつく。 殿下の顔から血の気が引いていくのが見えた。


「き、貴様!何を根拠に……!」


「根拠でしたら、殿下のお身体そのものですわ」


 私は淡々と、診断を下した。


「『黒猫の夜鳴き処』では、今、極めて悪質な性病が蔓延しております。殿下、最近よく鼠径部を気になさったり、無意識に掻こうとしては止める動作をなさっていますね?それに首筋の赤い斑点。それは……性病によく見られる発疹です」


「ひっ……!」


 殿下の腕の中にいたターニャが、悲鳴を上げて飛び退いた。 まるで汚物から逃れるように、自分の聖女のローブを必死に払っている。


「あら、ターニャ様も。先ほどから首元をストールで隠していらっしゃいますが……同じ症状が出ているのではありませんか?殿下とのあれほど濃厚な接触、感染していないはずがありません」


「ち、違うわ!これは虫刺されよ!」


 ターニャの絶叫が、疑惑を確信に変える。 さらに私は、会場にいる他の聖女たちにも視線を向けた。私をいじめていた彼女たちの中にも、顔面蒼白になって震えている者がいる。 彼女たちもまた、殿下の「遊び相手」だったのだろう。


「さらに申し上げますと、殿下」


 私は一歩も退かずに言葉を紡ぐ。


「私がお茶会のたびに差し上げていた、あの『泥水のようなお茶』。あれは母の故郷に伝わる、排毒と免疫賦活の作用がある希少な薬草茶です。殿下の乱れた交友関係は存じておりましたから、せめて発症を遅らせ、進行を食い止めようと心を砕いておりました」


 会場の空気が反転する。 嘲笑は恐怖へ。軽蔑は殿下たちへの疑惑へと変わっていく。


「ですが、今日からはその必要もなくなりました。あのお茶を飲まなくなれば、数ヶ月と経たずに全身に膿疱が広がり、やがては脳や臓器を蝕むでしょう。……お大事になさいませ」


「……あ、あ……」


 ジェラルド殿下は口をパクパクと開閉させていたが、やがて周囲の視線に気づいた。 貴族たちが、汚らわしいものを見るような目で彼を見ている。 「王太子が性病持ちだなんて」「しかも安娼館で」「不潔な……」 ひそひそとした囁きが、彼の鼓膜を叩く。

 王族としての威厳、プライド、そして未来。 それらが音を立てて崩れ去っていくのを、彼は悟ったのだろう。 恐怖と絶望が、瞬く間にどす黒い憎悪へと変換される。 自分が撒いた種だという事実は棚に上げ、すべての元凶である目の前の女を消し去れば、この事実も消えるとでも思ったのか。


「貴様さえ……貴様さえいなければ……」


 殿下は震える手で腰にある剣の柄を探り当てた。


「こ……殺してやる!この魔女めえええっ!」


 剣を引き抜き、獣のような咆哮と共に私に躍りかかる殿下。 聖女にあるまじき暴言を吐いた私を、その場で切り捨てるつもりだ。 けれど、私は振り返らなかった。 彼が来てくれると、信じていたから。

 ガキンッ!

 金属音が響き、殿下の剣が宙を舞った。


「――そこまでにしてください、殿下」


 私の背中を守るように立ちはだかったのは、一人の聖騎士だった。 灰色の髪に、鉄色の瞳。 普段は無口で目立たない護衛騎士、カインだ。


「お、お前は……!――ただの一聖騎士風情が、王太子の剣を弾くとは何事だ!」


 腰を抜かした殿下を見下ろすカインの背中は、いつものように広くて頼もしかった。

 思えば、いつもそうだった。 他の聖女たちにいじめられ、持ち物を隠された時、一緒に探してくれたのは彼だった。 わざと足をかけられて聖水をこぼした時、何も言わずに拭うのを手伝ってくれたのも彼だった。 彼だけが、私の黒髪を「綺麗な夜の色だ」と褒めてくれた。


「リュシア様へのこれ以上の狼藉は、我が騎士道にかけて看過できません」


 カインの双眸が鋭く光る。その迫力に、殿下は言葉を失い、震え上がった。


「行こう、リュシア様。ここはもう、貴女がいるべき場所ではない」


「……ええ。ありがとう、カイン」


 彼は私の肩を抱き、呆然とする殿下とパニックに陥る会場を後にした。


 王城を出た私たちは、夜の冷たい風の中にいた。 混乱に乗じて抜け出したものの、私には何の当てもなかった。両親はすでに亡くなっているし、この国に私を匿ってくれる知人はいない。


「……これから、どうしようかしら」


 夜空を見上げ、途方に暮れる私に、カインが優しく声をかけた。


「リュシア様。もし行く当てがないのであれば……僕と共に来ませんか?」


「え……?」


「東へ。貴女のお母上の故郷、東の大国オーランティアへ」


 東の国オーランティア。四季の花々が咲き乱れ、薬学が発達した神秘の国。ずっと憧れていたけれど、遠すぎて諦めていた場所だ。


「でも、あそこまでは海を越えなければならないわ。それに、私は追放された身で……」


「問題ありません。……改めて自己紹介させてください」


 カインは聖騎士の誓いのポーズではなく、東方の流儀で恭しく一礼した。


「僕はカイン・ハルランド。東国オーランティアの王太子付き側近であり、ハルランド伯爵家の次期当主です」


「えっ……!?」


 私は驚きのあまり声を上げた。 彼が、東の大国の伯爵令息?しかも王太子の側近?


「西国ウェストリアの内情を探るため、聖騎士として潜入していました。情報は十分に手に入れた……任務は完了です。――ただ、貴女を連れ帰るのは任務の範疇ではない。これは僕の、抑えきれないエゴです」


 カインは真っ直ぐに私の瞳を見つめた。 そこには、計略や打算の色は微塵もない。ただひたすらに熱い、一人の男の情熱があった。


「僕は、貴女が理不尽な扱いに耐えながらも、毅然と振る舞う姿をずっと見てきました。誰よりも気高く、優しい貴女に……心惹かれていたのです」


「カイン……」


「これは僕のわがままです。貴女という得難い才能を国へ持ち帰るというのは建前で、本当はただ、貴女を幸せにしたかった。私の国では、貴女の黒髪は美しさの象徴です。……一緒に行きましょう、リュシア」


 差し出された手は、いじめられて泣いていた私を助けてくれた、あの無骨で温かい手そのものだった。 私は迷わず、その手を取った。 この国に未練など、何一つ残っていない。


「連れて行って。あなたの国へ」


 月明かりの下、私たちは馬を走らせた。 背後の国に訪れる破滅の予兆など、知る由もなく。


*****


 私たちが国境を越え、海を渡った後。 残されたウェストリア王国がどのような末路を辿ったかは、風の便りに聞いた。


 それはまさに、因果応報のパンデミックだったという。

 私が去ったことで、最後の「命綱」であったあのお茶がなくなった。 ジェラルド殿下の病状は、堰を切ったように悪化した。全身に赤い発疹が広がり、高熱と激痛にうなされ、公務どころかベッドから起き上がることもできなくなった。

 そして、感染の連鎖は止まらなかった。

 まず、殿下の“お気に入り”となっていた聖女たち。 かつて私をいじめ、私に仕事を押し付け、その空いた時間で殿下に色目を使っていた彼女たちだ。殿下にとって「黒髪の女」以外の女性はすべて遊び対象だったらしく、彼女たちも例外なく病に蝕まれた。 美しいドレスの下で肌はただれ、自慢の美貌は見る影もなく崩れ去った。 聖女の魔力は病には通じない。彼女たちは祈ることしかできず、その祈りも神には届かなかった。


 次に、ターニャを取り巻く男たち。 ターニャもまた、殿下一筋ではなかった。彼女は次期王妃の座を確実にするための保険として、あるいはその奔放な性分から、複数の高位貴族や騎士団長クラスの男たちと密通していた。 殿下からターニャへ、ターニャから高官たちへ。 そして高官たちから、さらにその愛人たちへ。

 蜘蛛の巣のように張り巡らされた不貞のネットワークを通じて、病は瞬く間に城の中枢へと広がっていった。 騎士団の訓練は中止され、議会は欠席者ばかりで機能不全に陥り、多くの貴族が隔離病棟へと送られた。


 皮肉なことに、無事だったのは貞淑さを守り通していた令嬢たちと、真面目一徹な文官たちだけだった。 真面目に生きた者だけが生き残る。それは神が下した、あまりにも残酷で、しかし公平な選別だった。


 国は慌てて対策に乗り出したが、特効薬を作れる私はもういない。 「リュシアを呼び戻せ!」「あの茶のレシピはどこだ!」ウェストリア王家は半狂乱になって私を探したが、その頃にはもう、私たちは遥か東の海を渡り、彼らの手の届かない場所にいた。


*****


 それから、一年。 東の大国オーランティアにある、四季折々の花が咲き乱れるハルランド伯爵領。 私は、カインの妻として、穏やかな日々を送っていた。


「リュシア、お茶が入ったよ」


「あら、ありがとう。カイン」


 縁側で薬草を干していた私に、盆を持った夫――カインが声をかける。 彼はもう聖騎士の鎧を着ていない。東方のゆったりとした着物を身に纏い、その姿は完全にこの国の領主として馴染んでいた。


「西の国からの商人が、また値を吊り上げてでも薬を買いたいと言ってきているよ」


「まあ。足元を見られると分かっていても、背に腹は代えられないのね」


 私がオーランティアに亡命した後に改良した、性病の進行を劇的に抑える特効薬。これは今、隣国経由でウェストリア王国に飛ぶように売れている。おかげで伯爵家の財政は潤い、領民たちの暮らしも豊かになった。元婚約者たちの苦しみを糧に私たちが肥え太る。これもまた、ささやかな復讐の形かもしれない。

 ふと、ずっと気になっていた疑問を口にした。


「ねえ、カイン。……どうしてジェラルド殿下は、あのような市井の、それもあんなにも衛生状態の悪い娼館に通うようになったのかしら? 王族なら、もっと安全な遊び場などいくらでも用意できたでしょうに」


 カインは湯呑みを置くと、悪戯が見つかった子供のように少しだけ目を細め、静かに答えた。


「……僕が、唆したんだよ」


「え?」


「たまたま殿下の護衛をしていたときに、ふと漏らしたんだ。『あそこには、王族の誰も知らない、背徳的で極上の快楽がある』とね。彼は自分だけが知る秘密というものに弱かったから」


 さらりと、恐ろしいことを言った。 カインは、ジェラルド殿下が潔癖な私に愛想を尽かし、安易な快楽に流れるよう誘導したのだ。そして、その結果として病が蔓延することも、私が追放されることも、すべて計算ずくで。


「君があの国にいる限り、いつかあの男の手垢がつくかもしれない。それが耐えられなかった。だから、彼自身の手で身を滅ぼすように、少しだけ背中を押したんだ。……まぁ、彼は元々娼館をハシゴしていたようだから、僕が唆さなくてもいずれは通っていたかもしれないけど」


 彼は私の隣に腰を下ろし、私の黒髪を愛おしそうに梳く。その指先から伝わる熱に、私は小さく息を呑んだ。


「王太子が破滅すれば、僕が君を独り占めできる。……僕はずるい男だ。軽蔑するかい?」


 カインが不安げに私の顔を覗き込む。 その表情は、かつて私がいじめられている時に助けてくれた聖騎士の顔であり、国を傾けるほどの策謀を巡らせたスパイの顔であり、そしてただ一人の女性を愛する男の顔でもあった。

 私はふわりと微笑み、彼の手を自分の頬に押し当てた。 あの日、殿下には決して触れさせなかった私の肌。今はこうして、彼のためだけに熱を持っている。


「いいえ。……だって私、もうあなたの共犯者ですもの」


 庭を吹き抜ける風が、東国特有の甘い花の香りを運んでくる。 西の国から届く莫大な富と、風に乗って聞こえてきそうな、かつての敵たちの悲鳴。 それらすべてを二人で飲み込み、味わいながら、私たちは静かに口付けを交わした。

 ……もう、万人のために祈りを捧げる「筆頭聖女」はどこにもいない。ここにいるのは、一人の男を愛し、その男に愛され、敵の不幸を蜜の味として生きる、ただの幸せな女だ。


 彼の唇から伝わる温度と、微かな茶の香り。 それは、背徳と愛情が入り混じった、私たちだけの秘密の味。かつて王城で飲んだどんな高級なワインよりも、甘く、重く、そして濃厚に、私の心を酔わせ続けた。


お読みいただきありがとうございます!

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