【短編】瓶の中【ホラー】
注:作中に登場する風習は架空のものであり、実在の県村とは一切関係ありません。あと田舎を貶す意図もありません。
行きつけの居酒屋さんはこじんまりしていて、お客さんも大体が常連さんだ。
「今日は〇〇さん居ないね」「また海釣りでも行ってるんじゃないの」なんて会話が飛び交ったりして、ほんわかした雰囲気が居心地の良いお店だった。
当時わたしは20代で、ちょっと珍しい客層だったけれども、遠巻きにされることもなく、近くの席のおっちゃんに奢られたり奢ったり、代行が来ると「ハイハイ救急車きましたよー」なんて冗談を言ったり、仲良くさせてもらっていた。
わたしはたいてい少し早い時間にカウンターの奥の方の席に陣取っていて、今日はどんなおっちゃんが隣に座って、どんなお喋りができるかなといつもわくわくしていた。
その日、隣に座ったおっちゃんはAさんだった。
Aさんは浮気野郎だった。
「こないだ嫁さんにスマホ見られちゃってさぁ~」
「引くほど初歩的なミス」
「寝てる間に指紋認証されちゃって。参ったよ~」
「詰めが甘過ぎる」
Aさんは背広姿がなんとなく小ぎれいという他は、とりたてて美丈夫というわけでもない。なんでこんなオッサンに女の子がひっかかってしまうのか分からなかったが、一生分からないままで全然いい。
他人の事情に首を突っ込むのも、お店の空気が悪くなるのも嫌だったので、いつも「もーまたですかー」とか「しっかり隠さないと駄目じゃないですかー」なんて返していたけれど、本当はいつも腐り落ちてしまえと思っていた。「歳の数だけバラの花贈ると、女の子ってメッチャ喜ぶんだよな~」なんて得意げに言うAさんに「あいかわらずですねー」と苦笑いしながら、こいつホッピーのビンで脳天カチ割ってやろうかなと思ったけれど、麦汁が半分以上残っていてもったいなかったのでやめた。
「コツは卸問屋で買う事!普通に花屋で買うと凄い値段になるけど、問屋では安く買えるんだよ~」
「ほーん。しらんかった」
「〇〇ちゃんにも贈ってあげようか?」
「わーうれしーお礼は奥さん経由で伝えまーす」
「今何歳だっけ?」
「デー〇ン閣下とタメですぅ」
Aさんはゲラゲラ笑いながら、お通しのキュウリに七味唐辛子を振った。
ふと、唐辛子の小瓶を見て、思い出した。
「Aさんの奥さんって〇県の出身じゃなかったでしたっけ」
「そうそう。あれ? 言ったっけ?」
「こないだ何かの流れで〇〇さん(常連客)が言ってたの聞きました。わたしの曾祖母がそこの、村の出身なんです」
「へー」
「台所に瓶ありますか?」
「ん?」
「ちょうどその七味唐辛子ぐらい、いやもっと小さい、調味料とか、薬味とかを入れるような、小さい瓶です」
「さあ...キッチンは嫁さんの領土だから。勝手に入ると超キレてくる」
「大変ですね」
それは、もし、もしも、もしかしたら。
「それで瓶がなんだっけ?」
「...あー、なんだっけ。なんか、聞こうと思ってた気がするんですけど、わかんなくなりました。あ!すみませーん!ママさん中くださーい!」
お店は夫婦経営で、厨房を旦那さん、接客を奥さんが担当していた。ママさんが焼酎を注ぎながら「あんまり〇〇ちゃんに絡むんじゃないよ」とAさんに釘を刺してくれる。厨房のほうでマスターが笑っていた。
麦汁を足して、マドラーでぐるぐる混ぜた。もう、うっかりキレて脳天殴打なんて心配はなくなったので、遠慮なくドボドボ注ぎ足した。
★★★
Aさんが店に来なくなった。
会社をクビになったとか、病気になったとか、事故にあったとか、なにかしら不幸なことがあったらしい。
常連のおっちゃんたちがしばらく話題にしていたけれど、結局何があったのかはっきりしないまま、それきりになった。
★★★
「おまじない?」
「そう。ひいおばあちゃんのお故郷というか、村と言うか、まあその集落に伝わるおまじないがあって」
あれから5年、大好きだったお店はもうない。区画整理で更地になった。
現在、傷心中の友人と2人で飲んでいるのはチェーンの大衆居酒屋だ。
「まだDVとかモラハラとか、そういう言葉が無くて、死別以外の離婚が実質不可能とか、そういう、場所なのか時代なのか、まあとにかくひいおばあちゃんの環境はそういう感じだったらしい」
対面に座る友人は、酔いと泣きすぎで目が腫れぼったくて、目つきもうつろだ。
「村では結婚する時、母から娘へ小さい瓶を渡す風習があってね。形とか素材はなんでもよくて、密封できる入れ物。娘はそれを持ってお嫁に行く。そしてもしも夫に酷い事をされたら、誰も見ていない時に台所で泣いて、その涙を瓶に入れる。涙が瓶の中で蒸発してしまえば、悲しい事もやがてなくなる。ただし、涙が瓶の中で溜まって、一定の量になったら、それを塩にして、夫の食事に混ぜて食わせるか、飲み物に混ぜて飲ませる」
「夫はどうなるの?」
「何が起こるかはその都度違う。ひいじいさんは、」
周りを見回してから、席を立って友人に低い声で耳打ちした。友人の腫れた目が大きく見開く。隣から酔客の笑い声がどっと上がった。
「まあ、あんまりおすすめしないけどね。なにか怖い事が返ってくるかもしれないし」
友人は聞いているのかいないのか、中空を見つめている。
ただぼんやりしているだけなのか、復讐の算段を立てているのか。
でもまあ、彼女だって、所帯持ちって知ってて近づいたからなぁ。
曾祖母がその後どうなったか、聞かれたら答えるけれど、聞かれなかったら言わなくてもいいかな。
メニュー表を見ながら、焼酎を追加するために呼び出しボタンを押した。
「おまじない」は創作の産物です。
読んでくださってありがとうございました。m(_ _)m