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天目山

 戦続きの日々では、どこの土地も貧しく、徒士侍だった神尾孫左衛門との暮らしでも食事は菜っ葉と雑穀の入った雑炊が二食か三食。それに味噌がつけばいいほうで、川魚の焼いたものがあれば、ごちそうだった。雑炊の他に、ほんの少しの米に、あわひえ、大根やその葉っぱ、野草、木の実にきのこ、海草など季節のものをたっぷりと混ぜ込んだ、かてめしというものもあった。須和はめったに食べたことがなかったが。

 しかし下級武士の孫左衛門のほうがまだ良かった。年貢を出す民たちの側は、自分たちが作った米を口にすることもできず、麦、粟や稗、豆などの雑穀を芋がらや葉っぱ、菜、山草で水増しし、食べていた。

 石和の飯田屋敷でも、女子供はもっぱら雑炊で、それに味噌がついた。兵たちには、竹筒に入った水と味噌のついた雑穀の握り飯が配られる。

 須和は掃除・洗濯・水汲み、食事作りをえいの監督下で他の使用人と一緒に行った。そして、空いた時間にもらった反物を着物に仕立てている。

 反物の生地は麻で黄色に染められ、車輪の柄がられていた。確かに、あまり美しくない。えいが気に入らないはずだ。しかし、贅沢は言えなかった。

 この時期、絹や木綿はあったが、絹は高貴な人たちが使用する最高級品で、木綿も舶来物が多く、それに次ぐ高級品だったので、おおかたの者は麻の着物、それも単衣ひとえ小袖こそでを一、二枚持っているくらいだ。だから、加代からもらった絹で作った着物は、須和の宝物だった。

 須和が炊事などに従事している間、息子の五兵衛は兵たちに食べ物を届けたり、水汲みの手伝いをしたりしている。

 その様子を見て、はっと気づいた。

(五兵衛も九歳。そろそろまずいな。おじの屋敷では、気にしていなかったけど、あの子は色白で容貌が整っているし)

 男どもの五兵衛を見る目が優しすぎる。もう少し歳がいったら、誰かが稚児にでもするか。



 分かっているだけでも、平安朝の頃から男色は行われていた。最初は寺院が中心だったが、戦が多くなった鎌倉期から盛んになり、この時期ではごく普通のことだった。豊臣秀吉にその好みはなかったが、織田信長が森蘭丸、徳川家康が井伊直政を孌童れんどうとしていたことが知られている。



 須和は母親として五兵衛の周囲を警戒しつつ、家事にいそしんでいた。そんな中、三月七日に織田信忠の軍が甲府府中に入って一条信龍の屋敷に陣を構え、その四日後、徳川軍が甲府に到着したとの報があり、飯田昌在が従者を連れて陣中見舞いに出かけた。

 徳川軍は穴山信君の案内で、駿河方面より九日に万座まんざから身延みのぶに出て、十一日に甲府に入ったという。

(鎌倉街道の御坂峠とは別の道ではないか。では、峠で会ったのは、影武者だったのか)

 そんな疑問を抱き、『召し出す』というのは嘘だったんじゃろう、と狐に化かされたような気分になった。嘘ではなかったのだが。

 後日、このときのことを酒井忠利に訊く機会があった。

「たーけか。裏切ったばかりの穴山と、うちの殿を同道させることなぞ、せえへんわ」

 と、さとの言葉で忠利は答えた。富士川沿いの身延から回った本隊のほうが影武者だったようだ。

 親しくなるほど、三河武士は口が悪くなる。




 陣中見舞いから帰って来た飯田昌在が妻と二人の息子、そして須和を一室に集めた。

「みな、よう聞け」

 と、重々しく前置きしてから告げた。

「十一日巳の刻[午前十一時頃]に、勝頼公が討ち死になされた。妻子もご一緒じゃ」

 誰も声を上げなかった。息をする音すらしない。

 信玄公が存命の頃は、穏やかな日々がずっと続くと、何故か信じていた。けれども、あれほど強い家臣たちがいたにもかかわらず、信玄公が亡くなって、たった九年で武田氏が滅びるとは。みな、驚きしかなかった。

「父上は、これからどうされますか」

 嫡男の在久が慎重に口を開いた。

「徳川様の臣下となる。そのように申し出て、許された」

「まあ、よろしかったこと」

 えいが愁眉を開いた。このとき実家のことはまだ分かっていなかったが、とりあえず夫と子どもたちは生き残れると知ったからだ。

「それでな、須和の出仕のための支度金が下賜された。子の五兵衛も連れて行って良いとのことだ」

 昌在が後ろに置いてあった布袋を前に出した。

「しかし、端女はしためには、多いような……」

「良いではありませんか。五兵衛の着物も作れます」

 えいの言葉に、須和もうなずいた。仕事は増えるけれど、五兵衛に新しい着物を作ってやれるのは嬉しいことだ。



 その翌日、昌在から連絡を受けたと言って、府中にいる半兵衛が従者を連れて石和の飯田屋敷へやってきた。

「徳川様に直訴しに行ったとな。おまんはまあ、なんと突拍子もないことをしでかすか。どれほどみなが心配したか、わかっとるんか」

 客間に通されてすぐ、半兵衛の雷が落ちた。

「申し訳ありませんでした」

 須和は半兵衛の前で深々と頭を下げた。したことに後悔はないが、心配をかけたことについては悪かったと、心の底から思っている。

「梅が泣きっぱなしだ。一度うちに帰って来て慰めたってくれ」

「いや、半兵衛。戦のあとでまだ落ち着いとらん。外を女子供が出歩くのは危ないぞ。須和は、わしが預かっておるゆえ、何ぞあったら申し開きができん」

 と、上座にいた当主の昌在が口を出す。

「そうじゃなあ。乱捕りはなかったとはいえ、織田の兵がうようよしとって何があるかわからんからのう」

 半兵衛も腕組みをする。

「おじさま、久左衛門はどうなりました。消息は分かりましたか」

「うむ、それよ」

 半兵衛が難しい顔をして話し出した。

「おまんがいなくなった日の夜に、うちの清左衛門が従者としてつけてやった男らと一緒に徒歩で山のウロへやってきた。『負け戦になったから、逃げて来た』と言っての。鎧は脱いで、馬は解き放ち、その辺の村のモンのふりしてな。清左衛門は『もう、侍奉公はせん』と言っておる。よほどこたびの戦が恐ろしかったんじゃろう。で、久左衛門のことを訊いたら、新府の放火騒ぎに紛れて、行方がわからなくなったと言う」

「そんな……」

「すまんな。一緒に連れて帰って来れば良かったんじゃが。しかしまだ、死んだと決まったわけではない。気ィを落とすな」

「はい……」

 慰めの言葉を掛けられたが、割り切れない想いがいっぱいだった。

「少なくとも、勝頼公と一緒ということはなさそうじゃぞ」

 と、半兵衛が聞き込んだ話をしてくれた。




 信玄の死後、自らが率いる諏訪衆と他の家臣たちをうまく統合できなかった武田勝頼は、三河長篠の戦で大敗し、それ以後は遠江・駿河で二股城ふたまたじょう高天神城たかてんじんじょうという要所を落とし、東美濃では岩村城を織田信長に奪われて、広げた版図を後退させるしかなかった。父の信玄以来、同盟している北条氏があとは頼みであったが、上杉謙信の死後に勃発した上杉氏の内乱・御館おたての乱に介入したことで北条氏政ほうじょううじまさとも敵対することになってしまった。

 防衛のために、韮崎に新府城を建設した直後、信濃の木曽義昌きそよしまさが信長に内応した。義昌は新府城築城や度重なる出陣によって課せられる高額な年貢や賦役に、不満を募らせていたのだった。

 織田信長は家康、氏政と手を結び、天正十年(一五八二)二月、長男の信忠のぶただを信濃に遣わし、伊那方面から武田領内へ、家臣の金森長近は飛騨方面から、徳川家康は駿河方面から、北条氏政は伊豆・駿河方面から甲斐へ侵攻する。

 二月十四日に浅間山が噴火し、甲斐の国人が「不吉だ」と動揺して士気が下がった武田軍からは内応者が続出し、城も戦わずして次々と開城した。唯一、抵抗したのは、高遠城たかとおじょうだった。その城主、武田信玄の五男で勝頼の異母弟の仁科盛信にしなもりのぶのみが武田軍の意地を見せたが、連合軍の猛攻によって落城。盛信は自害した。

 織田信忠が新府へ向けて軍勢を動かしていると知った勝頼は、家臣や一門が次々と逃げて行く状況の中、未完成の新府に立てこもって戦うのは無理だと判断し、三月三日の早朝、城へ火を放ち、自然の要害である岩殿城いわとのじょうへ向かうことにした。

 そこへ行く前の軍議で、嫡男の信勝は新府城に籠城することを主張し、信州衆の真田昌幸は上野の岩櫃城(群馬県)に逃れることを提案、勝頼側近の長坂光堅が元郡内の領主で譜代家老衆の小山田信茂の居城・岩殿城へ逃れることを主張して、長坂光堅の意見が取り上げられたのだった。

 新府を出た勝頼一行は、甲府の一条信龍の屋敷で休息した。しかし、兵の多くは逃げてしまい、数は千人にも満たない。

 一行は、三月三日の夜に盆地の端の柏尾に到着する。

 四日、一足先に小山田信茂が岩殿城へ向かい、勝頼一行は山道を登って駒飼で迎えを待っていたが、信茂は笹子峠あたりに城柵を設けて郡内への入り口を封鎖し、鉄砲を撃ちかけて来た。裏切ったのだ。

 このとき、従う兵は三百人を切っていた。

 勝頼は戻ることを決めたが、そのときには織田軍の滝川一益と河尻秀隆の隊が迫っていることを知り、ならば甲州街道から外れ、天目山を超えて大菩薩嶺を超えて武蔵国に落ちのびようとした。今川氏真が夫人の実家・北条氏を頼って生き延びたように、それを期待したのかもしれない。

 三月十日に勝頼一行は天目山を目の前にした田野村に到着。同じ日、徳川家康が笛吹川下流の市川に着陣した。

 市川の上野城にいた一条信龍は徳川家康と対峙し、徳川方一万の兵に対し、三百余りの兵で戦い、息子の信就と共に戦死した。

 一方、勝頼の一行に滝川一益たちは田野村で追いつき、合戦となる。このとき、織田勢は約五千、勝頼の方は四十数人だった。

 勝頼とその配下の奮戦が始まる。

 武田勝頼に最後まで従ったのは、長坂光堅、土屋昌恒と秋山源三郎兄弟、秋山紀伊守、小宮山友晴、小原下野守・継忠兄弟、木部範虎、大熊朝秀など。

 特に、信玄の傅人めのとであった金丸虎義の息子で甲斐の名族・土屋氏を継いだ土屋惣三昌恒つちやそうぞうまさつねは、渓谷の曲がりくねった細道の岩陰で、左手で藤づるを握り締め、右手に太刀を持って無数の敵を斬り捨て、谷底へ蹴落とした。その川は三日間、血の色で染まったという。

 これは惣三の「片手千人斬り」と呼ばれ、敵の織田信長でさえ、その勇猛さと忠義を褒め称えた。

 しかし多勢に無勢。男たちはみな討ち死に、もしくは互いに刺し違えて死に、その間に正室の北条夫人は侍女と共に自害した。

 十六歳の嫡男・信勝は、織田信長の姪であった前夫人の子である。信長の姪は、信勝を産んで亡くなり、その後、北条氏政の妹が勝頼に嫁いできて最後まで夫に従ったのだった。十九歳であった。

 信長の朝廷工作によって朝敵とされていた武田勝頼・信勝の父子の首級は京へ送られ、さらし首にされた。武田勝頼は三十七歳であった。



 後年、須和こと阿茶局がこの中の一人、土屋昌恒の遺児を養うことになる。このとき飯田屋敷にいた須和としては、想像もできなかっただろう。

 徳川家康は、のちに勝頼夫妻をはじめ殉死した人びとの冥福を祈るため、その地に景徳院を造り、共に討ち死にした家臣・小宮山友晴の出家していた縁者をそこの住持とした。









 


読んでくださり、ありがとうございます。

突然で申し訳ないのですが、このところの寒暖差で体調を崩し、少し更新をお休みさせていただきます。

自分なりに週二回更新を目標に、頑張っていたのですが。

毎日更新している方たちは、本当にすごいなあ、と思います。

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