総本家
「姉様は富士の御山が好きか」
拝み終わった須和へ、松木五兵衛が訊く。
「ええ。生まれたときから身近にあるので、御山が見守ってくださるように思うとります」
「徳川様も駿府でお育ちになったからか、富士の御山がお好きでの。同じじゃな」
話していると、二人の小者が馬を曳いてやってきた。一人は容貌の整った若者で、もう一人はがっしりとした体格の者だった。二人とも腰に脇指を差している。
「姉様、馬に乗れると聞いておりますが、これよりは萩野と同乗していただきます。五兵衛はわしが抱えていきますゆえ」
義弟の口調が変わった。
「こちらは伊助。共に参ります」
若者が言う。
声で分かった。若者と思ったのは男装した女性だった。伊助という男は護衛だろうか。勧められるまま、須和は二人乗りの鞍がつけられた馬の後ろに乗った。前は萩野だ。
「しっかり捕まっていてください。脇道を行きます」
萩野に須和が返事をしたとたん、五兵衛を抱えた義弟が馬ごと藪に突っ込んだ。須和を後ろに乗せた萩野があとを追い、伊助がそれに続いてくる。
脇道というが、そこは獣道だった。悪路の上、細くて急だ。ときどき着物に細い枝が当たる。
三人とも、よくこんな道で馬を操れるものだ。私には無理、と思いながら、落とされないよう必死で萩野の細腰に須和はしがみついていた。
休憩もなしに馬を駆けさせ、石和に着いたのは夕方だった。まだ陽は明るいのだが、どこにも人影はない。みな山に避難したのだろうか。
松木五兵衛は田畑の中に家が点在するそこを迷うことなく進み、やがて須和たちは飯田家の屋敷へ着いた。
「お疲れでしたね」
と、門前でねぎらいながら、萩野が先に降り、須和に手を貸してくれた。
身体がこわばっている。しかし、礼を言って、須和は馬を降りた。
先に馬を降りた伊助が、門を叩いて何か符丁のような言葉を告げた。すると胴丸を着けた男が門を開け、一行を通すとすぐに閉めた。
石和は信玄の父・信虎が府中[甲府]に躑躅が崎館を造るまで武田氏の居館があった場所だった。ほとんどの家はそのとき一緒に引っ越したが、飯田家の総本家は残り、土塁で囲まれた屋敷に住み続けている。
伊助が飯田家の使用人の案内で馬たちを連れて行き、一方で須和たちは足濯ぎの水を使わせてもらってから、中へ通された。
「松木どの、どのような用でありますか」
客間とおぼしき場所の上座の円座に、壮年の男が座っていた。
「徳川様よりの書状でございます」
と、松木五兵衛が徳川軍の侍から持たされた書状を差し出すと、部屋の隅にいた若者がすっと寄って受け取り、上座の男に渡した。
男はそれを開け、さっと読んでいる。
ふうん、と須和は納得した。
病気は嘘か。飯田の総本家は徳川に内通しておったようじゃな。
上座にいるのが、当主の飯田昌在、脇に控えているのは嫡男の在久、そして今、勝頼公に参陣しているのは、次男の昌重のようだ。
初めて会うが、本家のおじの半兵衛から、総本家の家族構成は聞いて知っている。
当主・昌在の妻は今副信勝の娘。今福氏は武田家の譜代衆で、飯田虎春以来、良い人材が出ず、家臣団の数にも入っていない飯田氏から見ると、格上の家から嫁いできた。もっとも今副の本家ではなく、分家筋のようだ、とおじの半兵衛から聞いていた。二人の息子は、その妻女の腹による。
「須和……初めてまみゆるが、府中の半兵衛から聞いておる。久左衛門の遺児じゃそうな」
「はい」
と、須和は平伏した。隣で息子の五兵衛も真似して頭を下げている。
「この書状によれば、徳川様がおまんを召し出すそうだ。子持ちで大年増のおまんを閨の相手にはしなさらんじゃろう。わしに年頃の娘がおったら、代わりに差し出すのだが、仕方ない。端女として、ようお仕えするのだぞ」
『召し出す』と聞いて、頭の中が疑問でいっぱいになった。あの数回の会話で、どうしてそうなるのだろう。
分からないまま頭を深く下げ、「かしこまりました」と答えた。
こういう「分家の人間は本家の者に従って当たり前」という頭ごなしの態度が、須和は嫌いだった。総本家といっても、父母が亡くなったとき、親族なのに何もしてくれなかった。親身になってくれたのは、半兵衛夫妻だけだった。けれども、ここでそんな感情を表に出して反抗的になっても、何にもならないため、須和は黙って、かしこまっていた。
「迎えのときは、萩野も一緒に寄越すから」
と、須和に言って、松木五兵衛たちは「じきに日が暮れる。泊まっていっては」と勧める昌在の申し出を断り、握り飯と水を受け取って、馬に飼い葉と水をやってから、屋敷を出て行った。
須和と五兵衛は、納戸の隣の小さな部屋に案内された。二人が中へ入ると、妻女がやってきた。四十歳前後に見える。
「当主の妻の栄といいます。須和どの、迎えが来るまで、ここにいてもらいますが、飯田家の恥にならぬよう、立派な端女になるため、家事全般を正しくお教えいたします」
いらんけど、と思ったが、須和はおとなしく頭を垂れていた。
「その様子では、ろくな着物を持っておられんでしょう。柄が嫌いで仕立てんかった反物があります。これを差し上げますから、出立するまでご自分で仕立てなされ」
と、言い置いて栄が立ち上がる。
「ご温情、感謝いたします」
須和は去って行く背に向かって、頭を下げた。
そのあと、屋敷に勤める女たちが雑炊と漬物が載った膳を二つ持ってきた。食べ終わったら、部屋の外に出しておけばいいそうだ。布団も一組持ってきてくれ、部屋の隅に置いていった。
須和は息子と共に食事を終え、言われたとおりに膳を外に出してから、布団を敷いて二人でくるまると、すぐに寝入ってしまった。
いろいろあり過ぎて、とにかく疲れた。屋敷では夜通し篝火を焚き、飯田家の兵たちが夜番をしているから、須和は安心して眠れた。
しかし翌日の朝、暗いうちに門前が騒がしくなった。
須和が飛び起き、部屋を出る。すると、馬のいななきと「昌重様がお帰りになった」という声がした。
勝頼公に従って参陣していた次男が戻って来たようだ。
須和は寝ぼけ眼で起きて来た五兵衛を抱き寄せ、二人で物陰から見えるところまで近づいて行った。
「戦は、どうなった」
当主の昌在が出迎え、大声で訊いている。
薄汚れた鎧姿の昌重が馬から降りて答えた。
「新府城を焼いて、小山田様のいる郡内へ逃れるということになった。新府では多くの兵や、人質に出しとる妻子たちもいるっちゅうに、ひどいもんだ。大混乱になり、みんなが『負け戦だ』と言うんで、わしも逃げて来た」
「そうか、命あってのことじゃからの」
昌在がねぎらいの言葉をかけ、昌重とその従者たちが邸内へ入ったあと、門が固く閉められた。
(弟たちは、無事じゃろうか)
心配で、須和は胸が締め付けられるようだった。けれども自分にできることなどない。今は自分と息子の身を守るのみだ。
この天正十年(一五八二)の織田・徳川連合軍との戦いで、今福本家は、駿河国久能城主の今副虎孝、弟の友久、高遠城では弟の昌和が討ち死にし、同じ譜代衆の長坂家から養子に入った昌常だけが生き残って、家康に仕えた。
飯田家では、当主・昌在が甲斐国にやってきた徳川家康に拝謁して家臣となり、のちに大番[江戸城・直轄城の警護役]を承って、領地を授かった。秀忠にも仕えて大阪の陣のとき病を押して参陣し、そこで亡くなる。
父のあとを継いだ在久は三百石を賜って、大番を務めたのち、小普請奉行となった。次男の昌重も秀忠に仕え、武蔵・相模で二百石の領地をもらって、大番を務め、のちに御蔵奉行になった。
女子が二人いたが、それぞれ徳川譜代の家に嫁いでいる。
飯田の総本家の人びとは、徳川に味方し、それぞれの才覚によって地位を得た。しかし、そこに須和、のちの阿茶局の縁者であったことが大きく影響しているのは確かだろう。