豊臣家の事情
尾張国愛知郡中村に生まれた木下藤吉郎改め、羽柴秀吉、そして最後に豊臣秀吉と名乗って官職としては最高の関白まで上ったその人には、同母の姉と異父の弟妹がいた。
生母は尾張国愛知郡曽根村の農家の娘・仲。先夫・弥右衛門との間に、智と秀吉をもうけ、弥右衛門が病死後は弥右衛門の同輩で織田家の茶同朋も務めた竹阿弥を婿に迎え、小一郎こと小竹と朝日(旭)を産んだ。
姉の智は尾張国海東郡乙之村の住人、弥助に嫁ぎ、三人の男子に恵まれた。
弟の小一郎は織田信長の家臣となった兄に連れられて共に織田家に仕えるようになり、妻を迎え、男子が生まれた。が、この子は天正十年ごろ夭折する。側室との間には女子が二人生まれた。
妹の朝日には夫との間に子ができなかった。
彼らの弟であり、兄である秀吉が織田家で頭角を現し、主君の仇を討って関白にまで成り上がり、天下人になると、血縁が少なく、譜代家臣がいない豊臣家で姉と弟妹、そして甥や姪たちは秀吉の政略に使われることになる。
秀吉の姉の智は永禄十一年(一五六八)に治兵衛(秀次)、永禄十二年(一五六九)に小吉(秀勝)、天正七年(一五七九)に辰千代(秀保)を産んだ。
三兄弟の中で、長男の治兵衛は浅井氏の家臣の調略をしていた秀吉に人質として宮部継潤に差し出された。そのとき四歳の治兵衛は形としては養子となり、「宮部吉継」と名乗る。
天正元年(一五七三)に小谷城が落ち、浅井氏が滅亡すると宮部継潤は秀吉の与力となった。これによって治兵衛は戻ってくるのだが、天正十年(一五八二)頃、三好康長の養子となって「三好孫七郎信吉」と名乗りを代え、実父も三好武蔵守吉房と名乗るようになった。
本能寺の変で秀吉の主君・織田信長が斃れ、賤ケ岳の戦で秀吉が柴田勝家を破って天下人となると、孫七郎は織田信長の四男で秀吉の養子の於次丸こと秀勝に次いで、秀吉の身内として重用された。
とはいえ、武将としての能力が秀でていたわけではない。付けられた家臣たちの助けによって任務をこなしていた。武将としての能力は、やはり於次秀勝の方がはるかに上だった。
天正十二年(一五八四)に復姓して「羽柴信吉」と改め、翌天正十三年、秀吉の関白就任頃に「羽柴秀次」と名乗りを代える。そして翌年には豊臣の姓を秀吉から下賜され、位階も順調に上がっていく。
秀吉と寧々の夫婦には子がなかった。
浅井氏が滅んだあと、秀吉は北近江三郡を主君の織田信長からもらい、長浜城主となった。その頃、人には知られていないが南殿という女性との間に一男一女をもうけた。しかし、二人とも夭折してしまった。男子は秀勝という名だった。
その子の死後、一、二年して、秀吉は主君・信長の四男於次丸を養子にもらい受け、後継とした。けれども、その於次秀勝も天正十三年に亡くなる。
天正十七年に生まれた秀吉の次男・鶴松が三歳で亡くなると、秀吉は甥の秀次を養子とし、天正十九年(一五九一)十二月、秀次は秀吉の後継として関白に就任した。
智の次男の小吉は、世継ぎ予定であった於次秀勝が天正十三年十二月に十八歳で病没したあと、秀吉の養子となり、同じ十八歳で小吉秀勝と名乗り、領国の丹波国を継いだ。しかし、天正二十年(一五九二)の秋に朝鮮出兵で渡海していた先において病没した。
温厚な性格で秀吉を助け、各大名と豊臣家の調整役を担い、蜂須賀小六正勝、藤堂高虎などを与力とし、また慕われていた弟の秀長には、一男二女があった。
しかし嫡男は本能寺の変のあった天正十年頃に夭折し、長女は毛利輝元の従弟で養嗣子[のちに輝元に実子が生まれると解消]の毛利秀元へ嫁いだ。後継男子がいない秀長に、秀吉はまだ幼い次女のみや姫と智の三男の秀保を娶わせ、秀保を養嗣子とするよう命じた。
天正十九年一月二十二日、秀長が五十二歳で大和郡山城において病死すると、家督は秀保が継いだ。このとき秀保はまだ十四歳だった。与力の藤堂高虎が後見役となった。
けれども翌年、秀保が不治の病を発症する。薬や湯治で療養するが、病の身の絶望ゆえか、罪のない家臣を斬り殺すこと数度に及んだ。
文禄三年(一五九五)四月二十九日、湯治のために訪れた吉野十津川の温泉で、その山中、吉野山が一望できる西河の滝の上までゆき、そこで傍らに侍していた小姓へ「ここから飛べ」と命じた。
それまで近侍して無理難題に堪えていた小姓は、その命令にこらえかね、秀保に抱き着くと共に滝つぼへ落ち、死んだのだった。
この顛末を知った秀吉は激怒し、葬式を出すことを許さず、大和豊臣家を断絶とする。
秀保の母・智は北政所に泣訴して、やっと秀保の葬儀ができたという。
秀吉の男子の養子は、織田信長の四男・於次秀勝、甥の秀次、小吉秀勝、池田恒興の次男と三男、徳川家康の次男・秀康、寧々の甥の秀俊。猶子[継承権と財産権のない養子]に、宇喜多秀家、智仁親王(のちの八条宮)。
女子の養子は、前田利家の娘・菊姫と豪姫、豊臣秀長の娘・きく、織田信雄の娘・小姫、浅井長政の娘・江。猶子として、近衛前久の娘・前子がいた。
このうち、文禄三年の時点で男子の養子は、於次秀勝、小吉秀勝は死亡しており、秀吉に実子が生まれたことで、他家からの養子は実家に戻っていた。家康の次男・秀康は結城家へ婿養子にいき、妻・寧々の甥の秀俊は秀吉の謀臣の黒田如水(孝高)の斡旋で、文禄三年に小早川家へ養子に入り、「小早川秀秋」と名乗った。
女子の養子では、近衛前子は後陽成天皇の女御となり、前田利家と豊臣秀長の二人の菊姫と小姫は夭折。前田家の豪姫は宇喜多秀家の正室となっていた。
つまり、養子は関白となった秀次と、徳川秀忠に嫁ぐ予定の浅井江の二人だけとなっていた。
文禄二年に淀殿が大坂城二の丸で拾君を産むと、太閤・秀吉は関白の位等々を秀次に譲ったことを内心、後悔する。そこで「日本を五つに分け、そのうち四つを秀次に、残り一つを拾に譲る」と言い出し、また前田利家夫妻を仲人にして、生まれたばかりの拾君と秀次の娘を婚約させ、舅婿の関係とすることで天下を継がせる、という構想も語った。
これに対し、秀次とその周辺の者たちの反応は鈍かった。
秀次は拾君との婚約の件は不承不承引き受けたものの、関白は自分であるという自負がある。
関白は天皇の意を臣下に取り次ぐ役割の者で、天皇の裁可がいる重要案件は関白の秀次を通さなくてはならない。また、豊臣家の氏の長者として、大政所の葬儀の準備もしたし、聚楽第へ後陽成天皇の行幸も実現させた。これは叔父の秀吉に次いでのことだった。
武芸に励み、古典を収集して保護し、多くの公家とも交流して関白としての仕事にも粗漏ない。それなのに何故、生まれたばかりの嬰児にすべてを譲らねばならぬのか、と秀次は思ったであろうが、「殺生関白」の悪評が京中に広がってゆくのを止めることはできなかった。
その代わり、味方を作ろうとした。諸大名は朝鮮出兵による多大な出費に苦しんでいた。それらの大名に秀次は金子を用立てた。
毛利輝元、長岡忠興、他大勢へであった。
一方、太閤・秀吉は諸大名の権力強化を名目に、文禄三年頃から検地を外様大名の所領にまで広げ始めた。また、朝鮮出兵の褒賞費用を捻出するために豊臣家の蔵入り地(直轄領)まで検地をし、それは秀次の領地にまで及んだ。
これについて、秀次は激怒した。関白の権限を犯すものだったからだ。
文禄三年の春、共に吉野へ花見にゆくほど良好な関係だった両者だが、緊張の度合いが増してゆく。
太閤と関白の決裂を決定づけたのは、文禄四年(一五九六)の二月に死去した会津若松城主・蒲生氏郷の後継問題だった。
氏郷の嫡子・鶴千代はまだ幼く、徳川家康の三女・振姫との婚姻を条件に家督を継ぐことになった。そこで蒲生家の家老たちは知行目録を、石田三成をはじめとする奉行衆に提出するのだが、それが過少申告とされ、蒲生鶴千代を改易するとの太閤の朱印状が発給された。
それを関白の秀次は握り潰した。そのため、蒲生家の改易は行われず、相続が許された。
面目を潰された奉行衆は、それから一か月も経たない七月三日、「謀反の嫌疑あり」と聚楽第へ詰問のため訪れた。
この年文禄四年、徳川家では三月に上洛した秀忠が体調を崩していた。
三月五日に伏見に到着し、八日に聚楽第の徳川屋敷へ移った秀忠だが、十六日から咳がひどくて寝込み、倦怠感が続いて下旬頃には腫物も出来てしまった。
心配した家康が四月十一日に伏見から聚楽第の徳川屋敷へ見舞いに出かけた。それに阿茶も同行した。
「顔色は……あまりようないな。医師には診せたか。薬は合っておるか」
父の見舞いと聞き、床から起き上がろうとした秀忠さまを押しとどめ、息子の顔を見た殿が周囲に訊く。
傍らに控えていた大久保忠隣さまがそれに答えている。
阿茶は殿の後方から若君を見ていたが、ぐったりした様子と声の力のなさに心配がつのった。
若君の枕元に控える大姥局さまを見、次に壁際に控えていた笹尾局を見たとき、目が合ったので、小さく手を振り、廊下へ出るよう指示した。
すっと部屋を抜け出た阿茶と笹尾局。示し合わせたように笹尾局が先導し、別室に入って二人だけとなった。
「若君には、どうしてこのような。伏見においでになったときには旅の疲れも見えず、お元気であられたのに」
「お風邪をこじらせ、腫物が出来たので、さらに弱ってしまったのだろう、というのが医師の見立てでございます。大姥局さまをはじめ、皆が懸命に看病いたしておりますが、一向に回復の気配がなく」
阿茶の問いかけに、笹尾局が嘆息する。
「……場所が悪いのでしょうか。聚楽城には、いわくのある噂が飛び交っております。関白さまの御子さまたちもご病気になったり亡くなったりしておりますし、御子さまを亡くされた正室の若政所さまなど聚楽第を出てしまわれました」
笹尾局が小姫の霊のことを匂わした。
「めったなことを言うものではありません。でも、周囲がそんな気分になっているのは、若君のお身体にもよろしくない。わたくしが個人的に天海さまへご祈祷をお願いいたしますゆえ、安んじられますようにと、大姥局さまにもそう申し伝えてください」
「かしこまりました」
一礼すると、笹尾局は戻っていった。
阿茶は殿が伏見へ戻ると、召し使っている者を関東にいる天海僧正の許へ依頼の文と祈祷料を持たせて使いに遣ったのだった。
秀忠さまの容態はすぐに良くならず、四月二十日に再び殿が見舞う。太閤の許しを得て、じきに江戸へ帰ることが決まっていたからだ。
乳飲み子の松姫さまと仙千代さまを連れて行くことは出来ないので、その母君のお久さまとお亀さまも伏見の徳川屋敷に置いて行くことになった。同行するのは阿茶、お梶さま、お万さまと殿付きの侍女たち。
阿茶は秀忠さまが心配で後ろ髪を引かれるようだったが、五月三日、殿に従って江戸へと旅立った。
一方、五月二十三日から、まだ歩行は出来なかったが、若君に回復の兆しが見えるようになった。六月に入ると、見舞いに訪ねてきた公家衆と会うことも出来た。
ただ、五月に殿が江戸へ出立する際、付け家老の大久保忠隣さまへ、こう言づけた。
「太閤と関白が争うようなことがあったら、迷うことなく太閤の許へ秀忠を連れて行け」と。
上方の緊迫した状況は、阿茶にも感じられた。だから、このときはひたすら秀忠さまの無事を祈っていた。
そして七月五日の早朝、関白からの使いがやってきた。
「朝餉参らすべし、との仰せでございます。ぜひ、御仕度を」
との口上を聞き、「若殿を人質にでもとるつもりか」と、とっさに思った大久保さまが使者に対して時間稼ぎをしているうち、土井利勝さまにこっそりと伏見の太閤の許まで秀忠さまをお連れするようにと指示を出したので、土井さまが五、六人の者と共に若君を伏見の徳川屋敷へ避難させ、太閤にそのことを報せた。
太閤は徳川の後継が手元に来たことを大層喜んだ。
(このとき、朝餉の誘いに乗って関白の許へ行っておったら、人質にならなくとも、あとで何ぞ責められたであろうな)
後日、事の次第を守世から知らされた阿茶は思った。
七月八日、伏見に誘い出された秀次は、登城も許されず、高野山へ放逐された。罪状は謀反とされ、出家後、十五日に切腹させられた。
正室の池田輝政の妹・若政所は、子がなく別居していたことで無関係とされ、丁重に実家へ送り返されたが、秀次の幼い子らともう一人の正室・公家の菊亭晴季の娘の一の台と多くの側室は八月二日、三条河原でまず幼い若君と姫君が殺され、その上に斬首された母たちの遺体が重ねられ、侍女・乳母も含めて三十九人が処刑された。遺体はまとめて一つの穴に投じられ、塚の上には秀次の首が収められた石櫃が置かれて、首塚の碑銘には『秀次悪逆』の文字が彫られ、京の人びとは『畜生塚』と呼んだ。
秀次の家老七人は全員、切腹となり、聚楽第は徹底的に破壊された。
また、秀次に関係する連座者として多くの大名が処罰された。
秀次と懇意にしていた伊達政宗は、事件が起こると急ぎ上京し、詰問使の面々に言葉巧みに自己弁護したので秀吉に許され、金三百枚の借金をしていた毛利輝元も、しどろもどろながら弁明し、許された。
けれども、正室が池田恒興の娘で秀次と相婿の関係にあった浅野幸長は、秀次を弁護したことで能登国に配流となり、北政所の親族で豊臣家によく仕えていた父の浅野長吉も秀吉の怒りに触れ、遠ざけられた。
長岡(細川)忠興は切腹した秀次の家老が舅であり、金二百枚の借金もしていたので、娘を離縁させ、家康から金を借りて秀吉に返済し、何とか逃れた。
最上義光は娘を側室に差し出していたことで秀次側と疑われた。
しかし、娘・駒姫を側室としたのは本意ではなく、奥州仕置きの際、美しいとの評判を聞いた秀次から所望されたのだった。娘はそのとき幼く、十五歳になったので連れて上洛したのが事件の一か月前。「お伊万の方」と呼ばれたが、まだ閨の奉公はしておらず、最上義光はそれを主張し、前田利家と徳川家康も助命嘆願したが聞き入れられず、他の側室たちと共に処刑された。
最上義光は正室で駒姫の生母と聚楽第の自邸に監禁されていた。そこに娘の処刑の報を聞いて絶望した正室・大崎夫人は自害した。
哀れということで最上義光は許されるのだが、豊臣家への恨みを持ちながら、生き残りのため、国元にいた嫡男の義康をのちに拾君(秀頼)に出仕させた。
かくして太閤・秀吉の後継は、淀殿の産んだ拾君だけとなった。
*****
甥の秀次が切腹させられたのは、ただ我が子を跡継ぎとしたかった秀吉の意向に背いたからに過ぎない。そのため、秀次の血を絶やすために、妻妾と幼子たちも殺された。
秀次の実父の三好吉房は、秀次の父親ということだけで讃岐国に流罪となった。
母親の智は難を逃れたが、すでに母と父の違う弟妹は亡く、息子三人を失い、孫までも処刑されたことで、文禄五年(一五九六)正月、法華宗において出家し、尼となって瑞龍院妙慧日秀と名乗った。
その後、天下人の弟を見送り、許されて配流先から戻ってきた夫に先立たれ、豊臣家が滅亡するのを目の当たりにし、北政所こと高台院が逝った翌年、秀吉の姉の智は徳川の世となった寛永二年(一六二五)四月に亡くなった。享年九十二。
読んでくださり、ありがとうございます。
このところの気温変化や、花粉症や、胃腸風邪やらで、体調不良のため、更新を少しお休みさせていただきます。すみません。
2026年3月29日 日間歴史 すべて 94位
日間歴史 連載中 71位
ありがとうございました!




