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もう一人の息子

 息子の守世が嫁をとって、肩の荷が下りたように心が軽くなった。これで御奥の仕事に専念できると思った。

 阿茶のつぼね[部屋]では結衣が四歳となり、可愛い盛りだ。弟の久左衛門のところから、約束通り十歳になった姪たちが順番に行儀見習いにやってくる。十四になったら親元へ帰り、花嫁修業をするのだ。手習いを始めた甥たちには初学用の書物を買って贈った。

 大姥局さまの許にいる五郎三郎は五歳、千代は四歳になり、結衣との交流という遊び仲間としての付き合いが続いている。

 酒井忠利さまの嫡男で八歳の与七郎どのが侍女を伴って一度遊びに来た。

 評判の通り、年のわりにはぼんやりした子であったが、阿茶が声をかけ、目を見ると、真っ直ぐな視線を返したので、大丈夫だと感じた。この子は、ゆっくりと成長していくのだろう。

 五郎三郎と千代の父親、岡田竹右衛門忠次さまは隠居して入道となり、ひと月に一回、大姥局さまの許へやってきて、子どもたちの様子を見て行く。

 殿から「婿養子にしてはどうか」との話があったことを、やってきた岡田さまを捕まえて、阿茶はどう思うか訊いてみた。

「いやはや。殿には驚かされるばかりで」

 と、頭を掻いた。

 飄々とした方だが、千賀さまとの婚礼のあと聞いたところによると、なかなかの経歴をお持ちだった。

 東条松平家の重臣だった松井忠次さま、のちに松平姓と偏諱を許されて松平周防守康親と称し、東条家の養子となった福松丸君の後見となった方に仕え、家老となった。

 天正七年の駿河国持舟城攻めのとき、城将・三浦兵部を討ち取ったのだが、自分の親戚の一色某の功にしようとして首を与えたのを殿が見ていて、「他者の功にするな」と御紋の旗と具足を与えて褒めた。他にもたびたび軍功があって、殿が感心する者であった。そのため、天正十一年に主君の松平康親が亡くなって、殿のご落胤とも言われている嫡男の康重さまがあとを継ぐと、殿は岡田さまを直参の旗本とした。

「殿の勧めで千賀を娶るとき、まさか五十過ぎて子ができるとは思わんで」

 人生五十年。隠居する年齢だ。

「そういえば、殿はおいくつになられた」

「御年、五十三歳ですわ」

「それでまぁだ、大勢の女を抱えとらっせるか。お元気じゃのう」

 わはは、と岡田さまが笑う。

 阿茶も苦笑で返した。

「五郎三郎は孫と同じ年頃での」

 と、笑いを収めて岡田さまが言う。

「孫が成長して家督を継いだら、若い叔父にあれこれ指図するのも気づまりじゃろうて。阿茶局さまが良いと思われるなら、殿からのお話、進めてもろうてくだされ」

「かしこまりました。殿にも、そのようにお伝えいたしましょう。義理とはいえ、我が子となる御子です。大切に、そして立派な武士となるよう、お育ていたします」

「よろしゅうに」

 岡田さまが頭を下げた。

「ところで岡田さま」

 阿茶が願いを言う。肝心なことだ。

「お育てするにもなにぶん、わたくしは後家でありますれば、戦場での作法など分からぬことが多うございます。我が神尾家の者になろうとも、五郎三郎は岡田さまと千賀さまの子であるのに違いありませぬ。ですから、これまでのように、ときおりやってきて父親として導いてくださいませぬか」

 んん? という顔をした岡田さまだが、破顔した。

「わしのような隠居でよければ」

「ついでに、うちの息子たちにもご指導を」

 と言ったら、笑って快諾してくれた。



 この間、阿茶は北条家に仕えていた侍女の中から、上臈になれそうな者を選び、中臈・下臈女房として仕事をさせ、働きぶりを見ていた。

 徳川家が攻め手にいたとはいえ、当主の降伏という形で合戦が決着し、北条氏が関東からいなくなってしまったので、北条遺臣たちは仕官先を求め、殿も受け入れることにした。だからなのか、彼らに遺恨はないようだ。また、当主夫人の督姫さまがおられることが大きかった。

 督姫さまに仕えていた侍女たちが募集に応じて徳川家にやってきたので、再婚先へ連れて行く侍女の選定に余裕ができた。

 督姫さま付きには以前にも仕えていた大沢局おおさわのつぼねと侍女たちを付けた。

 阿茶の側仕えに、稲城局いなぎのつぼねという三十路の女を採用した。人当たり良く、教養があり、武芸もたしなんでいる者だった。

 稲城局は徳川家の御奥で、希望する侍女たちが武芸の修練をしているのを知り、具申した。

「非力な女であれば、薙刀なぎなたがよろしゅうございましょう。間合いがとれ、刃と石突いしづきの両方が使え、大きく振り回せます。何より、戸田派武甲流の薙刀術は武蔵鉢形むさしはちがた城の城主だった北条氏邦さまが二代目師範であられますゆえ、同じ流派を使う者がおります」

 聞けば、氏邦さまの正室・大福御前も薙刀をよくし、夫が小田原城に行った留守を守り、家臣や侍女と共に夫人も薙刀をふるって豊臣勢と戦ったが敗れ、自刃したという。

「なんと、あっぱれなこと。我ら徳川の御奥の女も見習わなくてはなりませんね」

 阿茶は、さっそく採用した。

 同じころ、五月三日。上京中の殿は、柳生宗厳やぎゅうむねよしこと石舟斎から新陰流しんかげりゅう兵法の奥義を伝授された。


 柳生宗厳は大和国柳生庄の国衆の子として生まれ、十五歳のとき柳生城が筒井順慶に攻められ、落城してからは父・家厳に従って順慶の家臣となった。若年の頃から宗厳は剣術を好み、諸流派を学んだが、大和国を松永久秀を攻め、順慶を敗走させると、柳生家は松永久秀の家臣となる。

 宗厳が新陰流の流祖で兵法家の上泉信綱に入門したのは三十四歳のとき。その後、宗厳が仕える松永久秀の主、三好長慶が亡くなると三好氏では内紛が起こり、大和国は混乱する。そして織田信長によって将軍となった足利義昭と筒井順慶が手を結ぶにあたって戦となり、久秀は大敗した。天正五年(一五七七)に松永久秀が織田信長に反抗し、滅ぼされると、宗厳は仕官することなく兵法家として各地を流浪したのだった。

 天正十三年(一五八五)、宗厳が五十六歳のとき、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の命で大和国の支配は筒井氏から秀吉の実弟・豊臣秀長に代わり、柳生家は領地を取り上げられてしまった。

 文禄二年(一五九三)、六十四歳で入道となり、石舟斎と名乗ってからは兵法家として活動してゆく。そして文禄三年(一五九四)五月、豊前国の大名・黒田長政の仲介によって京の郊外の村で徳川家康と会い、無刀取りを披露した。

 家康はその場で入門の誓詞を出し、二百石の俸禄で召し抱えることを告げるが、宗厳は固辞し、共に謁見した五男の宗矩むねのりを推挙した。



*****



 源平合戦の頃から少しずつ工夫されてきた武術は、室町期の末、戦国乱世から江戸期の初めにかけて、各流派がほぼ出揃ったと言える。今でいう「古武道」である。

 素手による小具足・捕縛、拳法、柔術。示現じげん流・中条流・新陰流などの剣術。居合術。宝蔵院流などの槍術。薙刀術。棒術。杖術。鎖鎌術。弓術。砲術。手裏剣術。馬術。水術。

 この中で、小笠原流弓馬術を受け継いだ分家の清経家の経直は、慶長九年(一六〇四)に家康の命によって、秀忠の師範となり、代々徳川将軍家の弓馬術師範となった。また江戸城内での諸儀式に小笠原流が用いられた。


 父の推挙によって徳川家に仕えることになった柳生宗矩は、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原合戦に従軍し、亡き順慶の甥の筒井順斎らと協力して大和の国衆を集めて石田三成方を牽制した。その後、工作を終えて本陣に戻り、戦に参加。これらの功によって、父の代で失った柳生庄二千石を取り戻したのだった。

 そして慶長六年(一六〇一)、二代将軍徳川秀忠の兵法指南役となり、のちには家光の指南役ともなった。三代将軍・家光の許では惣目付(大目付)の役をも賜り、数々の働きによって一万石の大名となった。

 下剋上の時代だったとはいえ、剣士から大名にまでなったのは、柳生宗矩ただ一人である。















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