新しい神尾家
殿から息子の結婚を許可され、阿茶は尾関家へ京から守世が戻ってきたらすぐにでも婚儀ができるよう打ち合わせをすることにした。
使者には、与一を出した。
「武芸だけでなく、読み書き、作法など仕込みましたので、あとは実践を重ねるだけです」
と、送り出した伊助は涼しい顔で阿茶に報告した。
今川領の農家の三男だった与一は、借金の形に売られた。下人となった与一を買ったのは、神尾家の舅どのだった。息子が武家奉公に出るにあたって、馬屋番として少年の与一をつけた。
その与一を神尾の後家の須和は――阿茶は下人身分から解放した。そして小夜と夫婦となり、阿茶と守世に仕えているのだが、伊助と萩野の夫婦と与一と小夜の夫婦の間で話し合いがあり、伊助たちの一人娘の婿に与一の息子を迎えることに決まったという。そして将来、守世が旗本などになって一家を構える際、与一は家老か用人になる立場なので、と伊助が読み書きと算術、行儀作法を折に触れて教えていたのだとか。
「本来なら後家として神尾の家のことをせねばならないのに、わたくしが守世のことにかまえず、申し訳ないことをいたしました」
伊助たちに負担をかけてしまったと、阿茶は頭を下げた。
「いえ、オカタさまは主家で大事な御用があります。些事は私どもにお任せくださいませ。神尾の家のことは報告に参りますゆえ、気がついたことを言ってくだされば、我らで何とかいたします」
「ありがたいこと」
亭主はろくでもない人だったけれど、その親類縁者そして仕えてくれる者たち、良き人の縁に恵まれている、と阿茶は神仏に感謝した。
その後、年明けに尾関志摩が侍女と共に江戸城へやってき、阿茶の局に住んで婚礼までに行儀見習いをすることになる。
文禄三年(一五九四)正月、殿は久しぶりに江戸城で家臣の参賀を受けた。
於茶阿局は殿から再び役女としての奥勤めを許され、乳母に抱かれた二人の子を連れて登城した。しかし辰千代君は対面を許されず、三万五十石の下野国長沼城主・皆川広照さまに引き取られていった。対面がかなわないというのは、殿の子と認めない、ということだ。
一方、松千代君は参賀のあと殿と対面した。そののち長沢松平家の先代で殿の従弟・康忠さま、今は入道となって源斎と名乗っておられる方とその正室で殿の異母妹・矢田姫さまが部屋へ入ってこられた。
殿への挨拶の後、矢田姫さまが松千代君に目を向ける。
「兄上、その子でございますか? 源七郎の幼いころによう似て」
涙を浮かべている。
矢田姫さまは四十八歳とお聞きする。夫君の康忠さまは一つ上だ。祖父母といってよい年齢でまた子育てをするのだ。
乳母が松千代君を抱いたまま矢田姫さまの前まで行き、坐ってから矢田姫さまへ松千代君を渡した。二歳の松千代君は人見知りもせず、おとなしく抱かれている。
「ありがたくもらい受けまする」
康忠さまが礼を述べた。
「うむ」
と、殿がうなずくと、長沢松平家の夫妻は退出した。
そのとき、部屋の隅に控えていた於茶阿局が声を上げる。
「殿、辰千代のことはっ」
「於茶阿さま、お静まりを」
阿茶が制する一方、殿は於茶阿局を一瞥しただけで席を立って出て行った。
(困ったお人だ)
自分の子どもなんだけどな、と思いつつ、むせび泣いている於茶阿局の前へ阿茶は行き、慰める。
「機会をお待ちなさい。いつか父子の名乗りができる日がきます」
先のことはわからない。それは阿茶が一番よく知っていることだった。
関東入部以来、奥州仕置き、朝鮮出兵のための後詰で名護屋在陣と続き、殿不在のため江戸城の修築がなかなか進まなかったので、これからは腰をすえて城の工事と領国経営ができると思ったところ、正月六日に上方から太閤の使者がやってき、徳川家は伏見城の普請課役を命じられた。
それは伏見桃山の指月山に昨年から太閤秀吉の隠居城として築いているもので、この命によって江戸城の工事は延期された。
普請課役は豊臣家以外の他家の家臣であろうと、石高に応じて出さねばならない。太閤がすべての家の主、天下人であるからだ。
二月四日に江戸の榊原康政邸に重臣たちが集められて課役のことが発表され、話し合いがなされた。
殿は十二日に上洛し、家臣たちは少し遅れて十六日に知行高一万貫について三百人の割合で役夫を出すことに決め、彼らを連れて江戸を発ち三月二日に京へ入った。
十四日に殿は伏見城の工事現場を自ら視察している。と同時に徳川家は伏見城下に屋敷を建築していた。
殿が上洛するのと入れ違いに、太閤から帰国の許可を得て秀忠さまが二月十八日に戻ってきた。約半年ぶりのことだ。
十六歳の秀忠さまのお側に侍るのは、付家老として四十歳の大久保忠隣さま。殿が名護屋へ伴い、京で合流した二十一歳の酒井忠世さま。傅役からそのまま側近となっている二十一歳の土井利勝さま。関東入部の際、相模国沼田郷の領主となった十八歳の水野忠元さま。守り役で剛力の安藤重信さま三十七歳。そして、三十五歳の酒井忠利さま。
忠隣さまの嫡男・十四歳の大久保新十郎さまは西郷家の孫九郎さまと共に秀忠さまの御前で元服し、「忠」の諱名をいただいて、それぞれ大久保忠常、西郷忠員と名乗ることになった。
以上が主要な方々だが、阿茶の息子の守世、守繁、西郷家の二人の義理の兄なども、近習として仕えていた。
しばらく秀忠さまは江戸においでになるようだ、と阿茶は思い、尾関家の縁者である媒酌人に佳き日を選んで婚礼を挙げるよう依頼した。三月に入ってからのことだ。
準備は出来ていたので、秀忠さまが帰国されてから城の奥向きより下がった志摩は、婚礼の日の夕方、形原松平家の江戸屋敷の尾関家の宿舎から花嫁衣裳を着て馬の背に揺られ、侍女と小者を連れて、守世の住む小姓組のお長屋へやってきた。
知行地を持たない神尾家の婚礼は質素なものだ。
(これでも私のときより、ずっとまし)
婚礼の行われる十畳間では、頑固者の尾関権右衛門が娘の晴れ姿に目を潤ませていた。嫡男と権右衛門の弟・志摩の叔父が二人来ていたけれど、神妙な顔をしつつ嬉しげだ。
神尾家の方は、異母弟の守繁、そして松木五兵衛に来てもらった。
「お武家の婚礼に、わしのような商家の者なぞ。それに婿養子に行っているもんですぞ」
と、松木五兵衛は断ったのだが、
「うちは係累が少ない。忠成どのは婿養子にいったとはいえ、叔父としてよう世話をしてくださいました。守世の父親代わりの叔父として出てくださいませんか」
阿茶が文でかき口説いた結果、江戸まで来てくれた。今川領にいる元服のときの親戚とはもう音信もなく、縁が切れてしまっているし、飯田家なぞ、向こうから縁切りされている。だから媒酌人も尾関さまの縁を頼るしかなかった。
ただ、見届け人として秀忠さまのご厚意で、土井利勝さまが来て下さった。そのため、尾関家の人たちが緊張している。
婚礼に親族とはいえ、女は出ない。終わったあとの挨拶の際、顔を合わせる。しかし神尾家は当主の父親が亡くなっているので、後家役割として阿茶が当主の座に坐った。
寿ぎの言葉を、節をつけて媒酌人が述べた。婿君と嫁君が三献の儀を行う。そのあとは参列者にも膳が出た。酒が回ってくると、尾関家の人びとが陽気に謡をうなり出す。
場が乱れ始めたので、阿茶は花嫁を連れて隣室へ逃れた。
「このたびは……」
と、尾関家の妻女が挨拶するので、阿茶も返した。
その場には、萩野と小夜、守繁の妻がいる。
阿茶はそれぞれを志摩に紹介し、告げた。
「神尾の家は今川・武田と仕えてきましたが、徳川家においては守世と志摩、そなたたちが初代となります。二人で力を合わせ、家を興していってください」
「はい。お言葉、賜りました」
奥勤めをしているとき、徳川家の質素堅実な家風のことを語り、家臣の妻としてどうすればよいかを教えてきた。
(何より、想い合っているから)
そこが私と違う。
「幸せを二人で作っておいきなさい」
阿茶は息子夫婦を言祝いだ。
やがて夜半になり、宴が果てたのち、一同で土井さまをお見送りしたのだった。




