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織田右府

「『第六天の魔王』というは、信玄公が遠江と三河に来襲した際に、織田様と書簡の往来があって、すでに法体となっておられた信玄公が仏法の守護者を自任して『天台座主沙門信玄てんだいざすしゃもんしんげん』と書かれたのに対し、織田様が『第六天魔王信長だいろくてんのまおうのぶなが』と返されたという話が伝わってのことじゃ」

 第六天とは、仏教で他化自在天たけじざいてんと呼ばれる欲界の一つ、その魔王とは仏道を妨げる魔のことである。

「なんとも。子どもの喧嘩か。益体もない」

 大勢の人を率いる大将同士のやり取りに、須和は呆れた。

「織田様は比叡山を焼き討ちしたので、公家の一部は嫌うお人もいるな。だが、武力と金の力ではかなわん。京の二条に新御所を造って禁裏様に献上されているし、伊勢の大神宮の建て替えに多額の寄進もされておる。昨年二月の京での馬揃えは、そりゃあ見事なものでの。禁裏様も御覧になり、京の町衆も大騒ぎじゃった」

 


 織田家の先祖は越前国(福井県)の荘官を務める在地の豪族で、斯波氏が越前守護に任命された南北朝の頃に被官となり、越前・若狭の守護大名だった斯波氏が尾張・遠江などの守護職を兼ねるようになると、織田氏は尾張の守護代となった。

 守護代とは、在京して任国にいない守護大名の代わりに政務を行う代官のことである。

 しかし、信長の生家は守護代ではない。主君の斯波氏が家督を巡って一族の間で内訌が生まれ、それが応仁の乱勃発の一因となった際に、守護代の織田氏も分裂して争い、のちに和議が結ばれても岩倉を本拠地とする岩倉織田氏と清州を本拠地とする清州織田氏が尾張を分割して支配することになった。

 信長の家は、尾張下四郡を支配する清州織田氏、守護代織田大和守を支える三奉行の一つであった。

 信長の祖父・信定のぶさだは温厚な人柄で、争おうとする人びとがいれば、それをうまく収めたという。尾張の西の端、勝幡しょばた城に住み、津島神社の門前町で港町でもある津島を領有し、そこからの収税で富裕であった。妻は三奉行の一人、織田良頼おだすけよりの娘、いぬゐ。信秀のぶひでの母である。

 信定は早くに没し、若くして家督を継いだ信秀の後見を母のいぬゐがしていたが、彼女も夫の後を追うように亡くなった。含笑院殿がんしょういんでんと呼ばれる。信秀は母のために清州に寺を建てて菩提を弔った。

 信長の父・信秀が家督を継いだころには、すでに経済的な自立を遂げていた。天文九年(一五四〇)、伊勢の外宮の仮殿造替に銭七百貫文を寄進し、天文十二年(一五四三)には御所の築地修理費用四千貫文を献じている。これは大金であった。

 信秀は天文年間の初めに那古野城に移り、以後は東の今川氏、西の斎藤氏と戦う。三河の小豆坂で天文十一年(一五四二)に今川義元に勝利したが、天文十七年(一五四八)には敗北。同じ年の末から翌年にかけて、それまで敵対していた美濃の斎藤道三と和議を結び、息子・信長の妻に道三の娘を迎えた。西を婚姻で固めた信秀は、東の今川氏に対するために居を末盛城へ移す。

 天文十八年(一五四九)、三河安祥城を守る長男・信広が今川氏の軍師・太原祟孚たいげんすうふのために城を落とされて生け捕られ、織田家の許で人質としていた三河松平家の竹千代、のちの徳川家康と交換で取り戻した。この二年後、尾張制覇に向かって突き進んでいた信秀は四十二歳で没する。

 信秀の正室は、大方殿。土田御前、報春院殿とも呼ばれ、美濃可児郡土田みのかにぐんどたに住む土田政久の娘で、信長、信勝(信行)、信包のぶかねを産んだ。信長を疎み、弟の信勝の味方をして織田家の後継に推したが、信勝は信長に殺される。本能寺の変後、信包のいる伊勢安濃津いせあのつに身を寄せ、そこで没した。

 信秀の側室は何人かいたようだが、「大御乳おおおんちちさま」として羽柴秀吉に厚遇されたのは、養徳院ようとくいんである。池田政秀の娘で、滝川恒利を婿養子に迎えて恒興つねおきを産んだ。恒興を産んだ直後に癇性が強い吉法師、のちの信長の乳母として織田家に上がり、翌翌年、夫と死別したのちに、信秀の側室となって一女を挙げる。

 信長にとって、実母に等しい存在であった。孫はのちに播磨国姫路五十二万石を領する池田輝政いけだてるまさである。



 このようなことを須和が知るのは後日である。今の須和は、純粋に前右大臣織田信長さきのうだいじんおだのぶながに興味をもち、義弟の五兵衛に尋ねた。



「他に知っていることは」

「うーん、わしも聞いたことしか知らんがの。お若い頃は、たいそうなかぶき者で、奇矯な行動をなされ、尾張では『大うつけ』と呼ばれておられたそうな」

 かぶき者……異様な行動や姿をする者と聞いたけれど、甲府では見たことがない。

「その信長様が家督を継ぐと、尾張を統一しての。『海道一の弓取り』と呼ばれた今川義元様を田楽狭間で討ち取って、次に美濃の斎藤氏を倒し、その居城の稲葉山城を岐阜城と改名して、そこへ移られた」

 足利義昭を将軍に擁立したのだが不和となり、義昭の呼びかけに、近江の浅井、越前の朝倉、比叡山延暦寺の僧徒、甲斐武田氏、一向宗門徒などがそれに応じたため、それらと戦い、結果、将軍・義昭を追放して幕府を滅ぼした。

「武田との長篠での戦いは、姉様あねさまも知っておられるじゃろう。近江の安土に城を築いて、今はそこを拠点としておられる。武田を攻めつつ、西の毛利家へも侵攻を行っておられ、そこの指揮をとっておられるのは、羽柴秀吉様じゃ」

「ああ、では加代様のご亭主も出陣か」

 松木五兵衛は、うなずいた。

「……戦ばかりじゃなあ」

「まあな。でも、戦をしていないときもある。織田様のお好きなのは、茶道具に馬、刀に鷹狩、相撲」

「へええ」

 信玄公は茶の湯と連歌と漢詩作と鷹狩だった。

「美男美女の家系のようで、ご本人のみならず、兄弟姉妹みな美形ぞろいじゃ。特に浅井氏に嫁がれた妹御のお市様は『国色無双』と言われるほどの美貌での。その三人の姫君も将来が楽しみなほど美しいとの評判じゃ。信長様自身、お子が多く、二十三人前後もおられるとか」

「まあ、子だくさん。女好きな御方か」

「美童もいける」

「やっぱり、そうかあ」

 須和の亡き亭主はそうではなかったが、たいていの男は二色を好む。

「織田様は、正邪の別をはっきりさせる御方じゃ。敵となった者には容赦せぬが、女子供や下々の者には優しい。だから、乱捕りがお嫌いなんじゃろうなあ。その代わり、敵兵は確実に殺す」

 ということは――

「久左衛門……弟が勝頼様に従って、新府におる」

 須和が、さっと青ざめた。戦場のむごたらしい有様を想像してしまった。その中に、弟も。

「逃げてくれりゃあいいが」

 沈痛な面持ちで、松木五兵衛が答えた。

「わあ、かかさま。富士の御山だ」

 そのとき、馬の背の上にいた五兵衛が叫んだ。

 見れば、雲の切れ間から雪を被った富士の山頂が姿を現した。最後尾の荷駄隊が、御坂峠の天辺に来たようだ。

 今までここを通ったとき、一度も見えなかったものを。

 幸先良く、須和は感じた。そこで富士を拝む。

 久左衛門も他のみんなも、きっと無事だ。生きている。

 そんな希望を持った。








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