弟君の元服
文禄二年(一五九三)十月三十日、江戸城において家康は家臣たちを集め、饗応した。そしてこの月、名護屋在陣中、軍船建造に功があった高力清長を嘉し、黄金二十二枚を与えた。
家臣たちをねぎらい、実務における論功が終わった十一月、福松丸君の元服式が行われた。
東条松平家の当主として松平忠吉と名乗り、官名は下野守。武蔵国忍城主、十万石を賜ることになった。
それまで忍城を預かっていた深溝松平家の家忠さまは下総国小見川に移封、上代城の城主となったのだった。
元服式は阿茶も物陰から見ていて、「あの小さかった御子が」と感慨深かった。
式のあと、福松丸君改め松平忠吉さまがわざわざ阿茶の局を訪れた。
上座に坐らせようとする阿茶を押しとどめ、自ら下座に坐って阿茶と対する。
「元服の儀、祝着至極に存じます」
と、阿茶が祝いの言葉を述べて頭を下げる。
「ありがとう、阿茶局――養母上」
言われて、阿茶の両目から、どっと涙が溢れた。
「ほんに、ご立派になられて。このお姿を御方さまにもお見せしたかった……」
袖口で涙を拭いながら、阿茶が言う。
「若君にも……兄上さまにも、このお姿を見ていただきたかった……」
「や、兄上とはまた会えるからな」
「いえ」
と、涙を収めて阿茶が答える。
「母君を同じくする兄弟といえども、これからは主君と臣下と立場が分かれます。兄君をお慕いするのは良いですが、分をわきまえなくてはなりません。それは父君に対しても同様でございます。父君を子として慕っていても、以後は東条松平家の当主らしくお振舞いくだされませ。特に殿はこのことにうるさい御方でございますゆえ」
阿茶は隅に控えていた幸に用意していたものを持ってくるように命じた。
隣室に姿を消した幸は小袖が畳んで入っている乱れ箱を持ってき、二人の間に置いた。
「年末の歳暮の際には、殿へこれをお贈りください。殿は華美でなく品の良い品を好まれます。贈答のときには気遣いのある文を添え、殿のお好みに合った、そして身の丈に合った物を贈るのですよ。親子の間でも、気遣いは大切です。また、そうする者を殿は喜ばれます」
「はい。確かに承りました」
忠吉さまは顔を引き締め、一礼した。
年末、忠吉さまは阿茶の忠告どおりにしたようで、阿茶は殿に呼び出され、その小袖を見せられた。
「阿茶よ。忠吉からこんな歳暮を贈られたぞ。元服したとたん、一人前の顔をしおって」
にこにこして、たいへん嬉しそうだ。
「そうだ。返事をせねばならぬな」
見せびらかしてから、奥の部屋へ引っ込んでしまった。
御文に、殿は進物の礼を言うと共に「学問にもしっかり励むのだぞ」と親らしいお節介なことを書いて送ったようだ。
(忠吉さまと殿の関係は、こんなところで良いか)
息子に対して好悪が激しい殿。寵愛したお愛の方さまの子であることに加え、好印象を持ってもらえて何よりだった。
以後も忠吉さまは阿茶に進物のことや殿のご機嫌について、相談事を持ち掛けるのであった。
忠吉さまが東条松平家の家臣たちに伴われ、城を発って領地へ向かうと、阿茶の胸はぽっかりと穴が開いたようになってしまった。殿の身の回りの事、侍女たちの差配などしているときは大丈夫なのだが、夜に一人でいると涙が溢れてくる。
(御方さまのお二人の御子が成人して、私の役目が終わったことで、気が抜けたかなあ。いえいえ、まだ秀忠さまの嫁取りがある。ぼんやりしてはいられない)
気を持ち直そうとしているとき、白須局が来た。
「申し訳ございません。お久の方さまのご懐妊は勘違いでございました。長旅などで、月のものが遅れていただけのようです」
と、平伏した。
「まあ、そうだったのですか」
この報せを聞いて、阿茶は少し気持ちが軽くなったような感じがした。
「女子の身体は繊細ですから、見極めが難しいこともありましょう。これからも、ご寵愛の方々の面倒をよろしく頼みます」
阿茶の言葉を聞いて、白須局は一礼してから部屋を辞した。
(嫉妬? そんな感情を持つよりも、殿の身辺に気を付けねば。秀忠さまを追い落とすような者が出ないように)
阿茶は自らを鼓舞した。大切に養育しなくてはならない子の内一人は独り立ちし、送り出した。もう一人は殿の後継として育て、支えねばならない。
そう決意を新たにしたころ、西郡の方さまに呼び出された。
「督姫に池田家との縁組の話をしましたら、『家のために嫁ぐのは仕方ないにしろ、娘と離れるのは嫌です』と泣かれました。万姫は七歳。北条の血を引く子を連れて行くわけにはいかないでしょうが、督姫の気持ちを思うと、切ない。阿茶局、何とかならぬでしょうか」
「殿のことですから、万姫さまを養女として、どこかへ嫁がせるおつもりなのでしょうが……。申し上げてみます」
すぐに殿との面会の時間を取り、説得を試みた。
「再嫁は御承知くださいましたが、今、督姫さまから万姫さまを引き離せば、督姫さまは気鬱の病になってしまうかもしれません。良いお知恵はございませんか」
こちらが言っても殿は聞いてくださらないだろうと、考えてのことだった。殿から言葉を引き出すつもりだ。
「ふむ。池田家と話し合ってみよう」
案の定、殿は阿茶の意を汲んで答えた。おそらく、万姫を連れて輿入れするという条件を相手と擦り合わせるつもりだろう。今回は、連れ子うんぬんよりも徳川の姫が池田家へ嫁ぐことが重要なのだ。
十二月、大久保忠隣どのを殿は秀忠さまの付け家老と定めた。それを拝命し、大久保さまは秀忠さまのいる京へ旅立った。
(大久保新十郎忠隣さまは父の忠世さま同様、武勇に優れ、甲斐・信濃の平定の際にも辣腕を振るったお方。さらに殿への忠節も篤い。いつもながら殿の人事の巧みさには、目を見張るものがある)
阿茶は感心した。
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大久保氏は徳川家臣としては最古参、家康の祖父・松平清康の代から仕える一族である。
忠隣の父・忠世は大久保氏の支流の忠員の長男で、三方ヶ原の戦の際には武田氏の陣へ闇夜の中、銃撃し、敵将の信玄から「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛された。長篠の戦においても弟・忠佐、与力の成瀬正一、日下部定好たちと共に奮戦し、織田信長から「良き膏薬のごとし、敵についてはなれぬ膏薬侍なり」と賞された。長篠の戦の後は、対武田氏のために遠江国二股城の主となり、小田原合戦で北条氏が滅亡すると豊臣秀吉の命で小田原城主となって四万五千石を与えられた。懐の深い人物でもあり、三河一向一揆で他国を流浪した本多正信の妻子を養い、その帰参に尽力した。
忠世の年の離れた弟が「大久保彦左衛門」として知られる忠教で、兄・忠世の許で数々の戦に参陣し、家康の孫の家光の代まで徳川家に仕え、徳川家の事績を記した『三河物語』を著した。
忠隣は忠世の嫡男、十一歳のときから家康に仕え、遠江堀川城攻めの十五歳の初陣で敵将の首級を挙げ、三河一向一揆、姉川の戦、三方ヶ原の戦、小牧長久手の戦、小田原合戦に従軍。本能寺の変の際の伊賀越えにも同行し、徳川家が関東に移府されると、武蔵国羽生二万石を与えられた。
ただ、武田氏に蔵前衆として仕えた元猿楽師の土屋長安を与力としたとき、大久保姓を与え、庇護したことは忠隣の晩年に大きな影を落とすことになる。




