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殿の帰国と豊臣家の若君誕生

 文禄二年(一五九三)の年賀の儀は、殿が名護屋在陣で留守のため、十五歳の秀忠さまが代わって家臣たちの挨拶を受けた。それを垣間見ていた阿茶は大姥局さまと共に、「ご立派になられて」と感涙にむせんだ。

 阿茶は福松丸君の元服のため、直垂と小袖、戦袍せんぽうを縫い、護り袋も作った。

 名護屋在陣中の殿は、二月に関東の領地内の部将に造船用の鉄板を割り当て、名護屋に輸送させるなど、後方支援を行っていた。

 そして寒気が去り、過ごしやすくなった四月の終わりに、お加代さまから「二の丸さまがどうやら、ご懐妊されたらしい」と知らされた。そのすぐあとに、後妻となり男児を産んだのちに乞われて浅野家の奥勤めの役女となった八束局さまからも、「いずれ世間にも分かると思いまするが、太閤殿下と二の丸さまの間に子ができたようで、八月にはご出産の予定」と報せてきた。

 阿茶はそのことを本多正純さまへ告げた。

 正純さまはまだその情報を得ていなかったのか、少し驚いた顔をしたが、すぐにうなずき、大坂の情勢を探らせたところ事実だと分かり、お留守居の方々に告げると同時に名護屋にいる殿へ使いを出した。

「もし生まれた子が男児であったら、事態が大きく動きます」

 と、正純さまは阿茶へ告げた。

 それは阿茶にも予想できたことだが、奥勤めの女に何が出来るというのか。ただ、殿と若君の無事を祈るだけだった。 



 淀城で秀吉の男児を産んだことから「淀の女房」「淀殿」と呼ばれるのは、浅井家の長女・茶々である。父は近江国の大名・浅井長政、母は織田信長の妹のお市の方。今は大坂城の二の丸に住むことから、「二の丸さま」と呼ばれている。

 天正元年(一五七三)に父・長政が伯父の信長に攻められ、近江国小谷城で自殺したとき、母と妹たちと共に救出された。そのとき、茶々五歳、妹の初四歳、江一歳。男のきょうだいは信長の命で秀吉によって処刑された。その後、伊勢上野城にいる伯父の織田信包の許で母娘は過ごしていたが、天正十年(一五八二)の本能寺の変で信長が横死すると清州に戻り、そこで母に甥の織田信孝が再婚話を持ってきた。相手は織田家の宿老・柴田勝家である。

 母の再婚で娘たちも勝家の領地・越前北の庄へ移る。しかし、翌天正十一年四月に賤ヶ岳の戦が起こり、北の庄城落城のとき、母は柴田勝家と共に自刃し、娘たちだけが城を出され、秀吉に保護された。茶々十五歳のときであった。

 一時、織田信雄の後見を受けていたとき、秀吉から求婚され、妹たちの縁組を整えることと、嫡女として父母の菩提を弔う許しを得ることを求め、妹たちの結婚が成ったのち、秀吉の側室となった。

 天正十六年(一五八八)に秀吉の子を身ごもり、翌年五月に淀城ですて、のちの鶴松を産んだ。その年、十二月に約束通り、父の十七回忌、母の七回忌の追善供養を行っている。鶴松の養育には秀吉の意向で、北政所と共にあたり、「両人の御かかさま」と呼ばれた。しかし天正十九年(一五九一)八月に鶴松は三歳で夭折してしまった。



「太閤殿下は殿に、『わしには子がない』と愚痴をこぼしていた。前の鶴松君の誕生の際には、狂喜しておられたが、八束局さまからの話によると、今回は『もう子どもは欲しくない。今度の子は二の丸だけの子と思っている』と北政所へ御文に書くほど慎重であるが……もし、男児が誕生したのなら、甥で関白の秀次さまはどうされるだろう」

 阿茶が考えることは、他の者も同じ。お加代さまのふみによれば、上方では喜ぶ者がいる一方、不穏な空気もあるという。

 暖かくなった三月に肥前名護屋にいた二の丸さまは大坂城へ戻り、そこでこのたび懐妊が分かった。鶴松君の時と同様、他の側室に子ができないのに、この方だけ身ごもるのはおかしいと、「他の男の胤ではないか」という風聞があった。鶴松君を懐妊した際には、聚楽第南門にそれを揶揄する落首らくしゅが貼り出され、取り調べの結果、百人を超す関係者が処刑された。今回も太閤はその風評を力で押さえ込んだ。


 一方、朝鮮半島の戦では、李氏朝鮮王の要請で明軍が出てきたことにより、膠着していた。そこで双方、和議の道を探り始めた。

 五月に、家康は明の使者の接待を秀吉から命ぜられている。

 六月二十八日、長陣の退屈しのぎにと、名護屋では瓜畑遊びが行われた。秀吉は瓜売りの格好をし、前田利家は高野聖、家康は簣瓜あじかうりに扮した。

 同日、秀吉は明に対して講和交渉の条件を提示し、小西行長の重臣・内藤如安を北京に派遣した。

 これによって、七月中旬から諸大名の帰還が始まり、明軍も九月にかけて撤兵する。


 七月八日、秀吉の側近、帥法印そつのほういん歓仲かんちゅうに秀吉名で北政所が安産祈願を命じ、歓仲は播磨国の書写山円教寺に対して祈願を依頼した。

 そして八月三日、二の丸どの(淀殿)が大阪城で二人目の男児を産んだ。

「棄て子は育つ」という俗習により、「ひろい」と名がつけられ、形だけ捨てた上で、松浦讃岐守に拾わせた。

 北政所から名護屋の秀吉の許へ男子誕生のことは伝えられ、秀吉は八月十五日に名護屋を発ち、二十五日には大坂城に着いて嬰児と対面した。


 朝鮮半島では、駐留部隊以外の日本軍の撤兵が九月二日に完了する。



 殿が肥前名護屋から大坂に着いたのは八月二十九日。秀忠さまが男子誕生のお祝いのため上洛されたのが九月二日。久しぶりに父子が対面した。

 殿は前田さま、太閤殿下の茶会に招かれたり、招いたりの社交をし、十月三日、太閤の参内に殿と秀忠さまは供奉ぐぶした。

 このあと、殿は十月二十六日、一年九か月ぶりに江戸へ戻る。一方、秀忠さまは京の聚楽第の徳川屋敷で年を越すことになった。



 江戸へ殿が戻ってきたことで、家臣たちが生き生きとしている。それは奥でも同様だった。

 阿茶も自分でも分からない感情が湧き上がってきた。やはり殿がいないと、生活に張りがない。この情は何というのだろうか、と考えたが、白須局から「お久の方さまが懐妊されました」との報告を受け、その感激も霧散してしまった。

(相変わらず、お盛んなこと)

 女たちをつけておけば心配ない、そんな気がした。

 表で殿が家臣たちの挨拶を受けている間、阿茶は奥へ戻ってきたお久さま、お梶さまを始めとする侍女団を出迎え、ねぎらう。

 そして夕方近くになって、奥へ渡ってきた殿を一同で出迎えた。

 福松丸君、西郡の方さま、お竹の方さま、督姫さま、振姫さまを先頭に、お久さま、お梶さま、お万さまが後ろにつき、阿茶たち役付きの侍女たちが控える。

「殿、長きにわたるお役目を無事終えられ、わたくしども一同、喜びにたえませぬ」

 西郡の方さまが一礼すると、皆がそれにならう。

「よい。楽にせよ。そなたらも息災のようで、何よりじゃ」

 殿の言葉によって、皆が頭を上げた。

「福松、いよいよ元服だぞ」

「はいっ。このときを待っておりました。やっと父上のお役に立てまする」

 元気な福松丸君の返事に、殿が破顔した。

「頼もしいことだ。督姫……氏直どのと妙姫のことは残念であった」

 殿が督姫さまへ目を向けて言った。

 督姫さまと北条氏直さまの長女・妙姫さまは、秋口にふとひいた風邪をこじらせ、儚くなられたのだった。これは殿に報告済みだったので、ご存知なのだ。

 その後、殿は奥で食事を摂り、阿茶を部屋へ呼んだ。

「福松の元服については表役人と佳き日を選んで準備をせよ。先日亡くなった長沢松平家の源七郎康直のあとは、七男の松千代に継がす。正月に隠居の康忠を呼び寄せる。そのとき対面して松千代を渡すので、用意をさせておくように」

「六男の辰千代さまでなく、七男で弟君の松千代さまをでございますか?」

「そうだ。わしに似ておらぬという辰千代より、松千代の方がよいだろう」

(使者の報告で、どうしてここまで嫌うかな)

『恐ろしき面構え』などと余計なことを言った使者を、阿茶は恨んだ。


 松千代君が養子にいく長沢松平家は徳川と二重に婚姻関係を結んでいる血の濃い家である。殿の叔母さまが松平政忠さまに嫁いで康忠さまを産んだのだが、政忠さまが永禄三年(一五六〇)五月の桶狭間の戦いで討ち死にし、政忠さまの父君・親広さまが十五歳の康忠さまを後見する一方、叔母さまは離別され、酒井忠次さまの許へ再嫁した。

 永禄五年(一五六二)に元服した康忠さまは、殿の異母妹・矢田姫さまを娶り、康直さまが生まれた。康直さまが天正十六年(一五八八)に元服すると家督を譲り、康忠さまは京に隠棲。ところが康直さまが十月二十九日に二十五歳で病没してしまい、子は幼い姫しかおらず、このままでは家が絶えてしまう。そのため、殿の御子の二歳の松千代君を養子に出すということだった。


「辰千代には、皆川山城守が養育を申し出ておるゆえ、安心せい」

(皆川とは、下野国の長沼城主で外様の皆川広照か? 上杉、北条、織田、徳川と時勢を見る目が確かなのか、渡り歩き、小さい勢力ながら生き残ってきた者。何か思惑があるのか?)

 つい疑ってしまうのは、徳川の家政を担うようになってからの阿茶の悪い癖だ。皆川山城守広照は殿に従って名護屋に参陣していたから、そこで話があったようだ。

「督姫については……どうしようかの。池田家へ再嫁の話があるのだが」

 夫に続き、娘を失って憔悴している督姫さまへ、父親として殿もさすがに再婚話を切り出せなかったようだ。

「西郡の方さまから、それとなく話を通していただき、年明けにも殿から説明されてはいかがでしょうか」

「ふむ。そうするか」

 一人うなずいた殿が阿茶を見る。

「ところで、守世の結婚について申し出がなされておったが、陪臣の娘とか。わしに報せてくれれば、もっと良い家の娘を世話してやったものを」

「いえ、畏れながら。ほどよき縁でございましょう。もとより神尾の家は今川家臣。今川氏が衰退し、守世の父は武田家に仕えましたが、馬乗り身分になれず、徒士侍で終わりました。守世自身は、秀忠さまの近習を務めているとはいえ、戦の経験はなく、武功も上げておらぬ新参者でございます。相手は陪臣といっても形原かたはら松平家に仕える三河武士の家でありますれば、良きご縁と申せましょう。それに両人、好きおうております」

 これは欲目なしの阿茶の客観的な判断である。

「阿茶と守世がいい、と言うのなら、仕方があるまい。しかし、次代はわしの目にかなった者にしてもらおう」

(側仕えの我が家も政略に使おうとは、抜け目ない)

 阿茶は内心、苦笑した。

「そういえば、岡部局の許にいる岡田竹右衛門元次の息子の五郎三郎は、次の正月に五歳になるか」

「左様でございますね」

 突然、話が変わって阿茶は戸惑った。

「竹右衛門の家督を継いだ嫡男は、家を保つくらいの器量しかなさそうだ。その下で、岡部元信の孫を寝かせておくこともあるまい。阿茶よ、六歳になったら、五郎三郎を結衣の婿養子として神尾家に迎えよ。わしの目の届くところへ置く。桶狭間で討ち死にされた天沢寺殿(今川義元)さまの御首みしるしを織田どのから返還させた岡部元信の血筋と剛の者の岡田竹右衛門の血を継ぐ子がどう育つか、楽しみだな」

(ああ、だから『筒井筒』なのか)

 阿茶は以前、殿が言った言葉を思い出した。

(大姥局さまの許へ五郎三郎と千代が引き取られたときから、このようなことを考えておられたのか)

 と、殿の深謀遠慮に驚き呆れた。

「それで阿茶よ。今宵のとぎは、お万にする。用意をさせよ」

「……御意」

 さっそくですか、という思いと、女と共寝しないと過ごせないのは生まれ持った性分ですね、という思いが同時に湧き起ったが、阿茶はおもてには出さず、頭を下げ、言いつけを実行するためにその場を辞去した。








 





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