若君の縁談 2
義妹の加代の許へ萩野も付けて送ったのは、微妙な要件の話があるからだった。
間者になって欲しい――豊臣家への激しい恨み言が書かれた文を読んで、阿茶は思った。
それほどあからさまな言い方でなく、「上方や豊臣家の家臣たちの様子を江戸は遠くて知ることがなく、近況と共にお伝え願えないだろうか。縁者との交遊であるが、意地の悪い者から見ると、間者のように感じるかもしれない。そこのところを勘案なされて、ご当主になられたご嫡男とも話し合って返事をお聞かせ願いたい」という主旨の手紙を持たせて遣った。
十月の終わりに江戸へ戻ってきた伊助夫妻が阿茶の前にやってくると、
「朝鮮の役はこちらの勝利ばかりが伝わりますが、確かに勝っていても、人夫や下人たちの被害はひどいものだそうです。いっときは食料が届かず、餓死寸前になった軍もあったとか」
と、伊助。
「旧浅井家臣ばかりを贔屓する太閤さまに、新しいご当主と加代さまは辟易なさっておいでで、阿茶局さまの申し出を快諾されました」
と、萩野。
それぞれの報告があった。
「ご苦労でした。下がって休んでおくれ」
阿茶は二人を労わって褒賞を与え、帰らせた。
徳川家と関係のある公家、大名家の奥向き。そして個人的に親しくしている八束局。これに加えて、義妹の婚家。情報源はいくつあっても良い。それぞれの見方から物事を探り、事実をあぶりだすのだ。それが、阿茶の役割の一つだった。
生母の葬儀を終えた太閤は再び肥前名護屋へ赴いた。到着したのは十一月だ。その月末に、「新年に江戸へ帰れそうにない。よって年賀の行事は秀忠が行うように」との殿の指示を持って榊原康政さまが帰ってきた。
そのすぐあとに、夫君・北条氏直の一周忌を終えて、督姫さまが江戸へ戻ってきた。二人の乳母にそれぞれ幼い姫・妙姫さま、万姫さまを抱かせていた。
「夫は疱瘡でございました。最後のとき、『そなたと夫婦になって良かった』と……」
うっ、と母君の西郡の方さまに帰国の挨拶をする際、嗚咽をもらす。
周囲に控えていた侍女たちがもらい泣きしている。阿茶も涙が止まらなかった。
夫からこのような言葉をかけてもらえる女がどれほどいるだろうか。政略で夫婦になったとはいえ、愛情を育んだお二人を、阿茶は羨ましいと思った。
西郡の方さまは娘の側へ行き、かける言葉もなく、その背を撫でていた。
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氏直死後の北条氏であるが、氏直の従兄弟・氏盛が氏直と督姫の養子となっており、養父・氏直の病死後、秀吉に許され、氏直の領地・下野四千石を与えられた。天正二十年には朝鮮の役のため、名護屋に在陣している。
氏盛は北条氏直の叔父・氏規の長男で、氏規は北条当主の氏直に従って高野山へ赴いたが、天正十九年に氏直と共に秀吉に許され、河内国丹南郡に二千石、文禄三年(一五九四)には河内郡に約六千石を与えられ、狭山城主となった。慶長五年(一六〇〇)二月に五十六歳で亡くなる。その遺領は五大老筆頭の家康から長子の氏盛が継ぐことを許された。
関ケ原の合戦で、北条氏盛は東軍に属し、伊賀越えの際、付き従った西尾吉次の隊で戦い、本領安堵され、一万一千石の大名、狭山藩の初代となった。そして北条氏の子孫は明治維新まで続いたのだった。
*****
その後、母娘が寄り添い、労わりつつ過ごしているのを阿茶は見守っていた。そして十二月に入り、名護屋に殿と共にいる石津局こと東雲からの便りをも持った使者がきた。文には、驚くべきことが書かれてあった。
「人払いされた後、太閤殿下と殿が話し合われておられましたが、太閤殿下のお声が大きいので、遠くで控えていた我ら伊賀の者が漏れ聞いたところ、太閤殿下が吉田侍従さま(池田輝政)に二の丸さま(淀殿)の末の妹君を嫁がせようと、殿にご相談されておりました。殿は、『浅井の娘を秀忠と縁組させたいので、吉田侍従どのには私の娘を嫁がせる』と申され、太閤殿下は許可された由にございます」
「は?」
夫を亡くした傷心から立ち直れていない督姫さまをもう次の男の許へやるだと? 鬼畜か?
と、思ったが口には出さなかった。
そしてすぐに市島局に二の丸さまの妹について調べるよう命じた。
松木家の縁者である市島局が京で集めた情報を阿茶に届けたのは、それから二十日ほど経ってからのことだった。
「二の丸さまの妹さまについては、すぐに分かりました。二の丸さまは三姉妹の長女で、下の妹さまは従兄妹の京極さまに嫁いでおられ、末の妹さまが羽柴小吉秀勝さまにこの夏、嫁がれて、ひと月したときに小吉秀勝さまは朝鮮の役に従軍されました。そして九月に、かの地で亡くなったとか。また、これは人に知られておりませんが、妹さまは懐妊されておられます。産み月は五月頃かと」
(なんという奇縁。お加代さまの夫君の主の妻であったか)
それも衝撃だったが。
腹に子がいる女性、それも夫を亡くしたばかりの、その女の次の夫をもう決めるなど、天下人というは鬼畜どころか、外道じゃな!
市島局の前で表情は変えなかったが、怒りで頭に血が上った。
けれども、ひと呼吸してそれを鎮めた。
(これが大名の姫に生まれた宿命か……)
そのとき、腑に落ちた。
(殿が男児に厳しく、女児に甘いのは、娘は政略の駒に使えるからか。息子は自分の寝首を掻くかもしれぬから資質を警戒しておるのか。実際、武田信玄公は、父を追放して家督を継ぎ、自分の意見に反対した嫡男を自害に追い込んだ。そうか、そういうことか……)
気づいた阿茶は、大姥局さまに面会を申し込んだ。すぐに許され、部屋へ通されると人払いしてもらい、膝を突き合わせて督姫さまの縁談の話をし、殿の男児に対する態度の関しての懸念を伝えた。
「なるほど。わたくしは長丸さまが世継ぎと定められたのは、母君の血筋が一番尊いからと、若君の資質が認められたから、だと思っておりました。衰えたといえども、お愛の方さまの生家・西郷家は三河の守護代を務めた御家。足利将軍家の支族・吉良氏の血も流れておられます。ゆえにかと。思い返せば、ご嫡男さまは武勇に優れていても粗暴な一面があり、父君と意見が対立することがありました。ご次男は母君の身分が低くて世継ぎには論外。今は三男の若君が世継ぎとされていますが、近頃側室となったお梶さま、お万さまは御方さまに次ぐ血統の良さ。このお二人が男児を産み、殿に認められたら、若君は世継ぎから降ろされる可能性もあると言うことですね」
「ありえないことではないです」
阿茶がうなずいた。
「若君は大人しく素直で学びに熱心な御方。ご嫡男さまのようなことにはならないと存じますが、我らも気をつけて参りましょう」
「そうですね。父君の教えを疎かになさいませぬようにと」
二人して、話し合った。
この三日後に、阿茶の許へ殿から指示が来た。
『来年、帰国したら、福松を元服させる。その準備をするように』
というものだった。
阿茶はさっそく福松丸君の部屋を訪れ、殿の言葉を伝えると同時に、それが書かれた文を見せた。
「やっとか」
福松丸君の瞳が輝く。
「井伊家の政子姫さまが許嫁となられます。良き日を選んで婚儀となり、岳父の井伊直政さまがしばらく後見につかれるそうです」
これは指示のあとに書かれてあったことだ。
「兵部少輔(直政)が舅か。文句なしだな」
喜色を浮かべた福松丸君に、側にいた東条松平家の守り役が「素晴らしいことです」と手放しで喜んでいる。
阿茶はそこを辞したあと、秀忠さまの許へ先触れを出し、都合を聞いてその御前へ参上した。そして福松丸君の元服の話をした。
「そうか。福松も元服して妻を娶るのか。兵部少輔をつけるとは、父上は良い人事をなされたな」
と、にこにこしている。
「まったくです。殿の人を見る目は他の者にはとうてい真似できません。それだけの経験を積んでおられますから」
と答えた阿茶は、ちょっとした注意をした。
「殿は父親として積んできた経験を折に触れて、若君に伝えようとなされるでしょう。若君は鼓がお好きですね? その練習ではいかがですか? 闇雲に打っても上達はいたしません。まずは師匠の真似を徹底して、それからご自分の音を作っていくのだと、教えられませんでしたか?」
「そうだな。書でも何でも、まずは良い手本の真似から始めるな」
「それと同じでございます。殿からの庭訓[教え]をしっかりとお受け取りくださいませ」
「うん、そうする。ならば阿茶局、小牧・長久手の役に父上に伴われて行ったそうだな。戦の様子を聞きたい。父上はどのようなご様子であったか」
「いえ、わたくしなど。戦に出たつわものたちにお聞きになった方がよろしゅうございましょう」
「もちろん、そうする。しかし、阿茶から見た戦の様子も聞きたい」
ということで、しばらく昔語りをさせられた。
やがて年が明け、文禄二年(一五九三)となった。




