若君の縁談 1
朝鮮へ出兵するという太閤秀吉からの使者が江戸へやってき、家康にも渡海を勧めた際、家康は書院に坐って何も答えなかった。
側にいた本多正信が、
「殿には渡海なされますか」
と、尋ねたが、返事がないので、三度まで問うと、
「箱根を誰に守らせるか」
と不機嫌な表情で答えた。
秀吉から関東・奥羽の旗頭に任じられた家康は、伊達・南部・上杉・佐竹といった各大名と五千人の徳川勢を率いて肥前名護屋に着陣した。江戸城の普請もあり、一万石以上の徳川家臣はこの軍役で人夫の確保、資金の調達など苦しい状態にあった。
天正二十年(一五九二)四月十二日、小西・宗の第一軍が朝鮮に上陸し、戦が始まると、戦に慣れた日本軍は連日勝利し、上陸から二十日余りで国都・漢城を占領した。
その報に喜んだ秀吉が、自ら渡海すると言い出し、家康は前田利家と共にそれを止めている。これは五月のことだ。
「大政所の容態がよろしくないようです」
六月になって、阿茶を表の間に呼び出し、留守居の井伊直政さま、酒井重忠さま、本多康重さまの前で報告したのは、本多正信さまの嫡男・正純さまだ。二十八歳の若さであるが、その謀才は父を凌ぐだろうと、殿が阿茶に言ったことがある。
秀忠さまの後見の一人、榊原康政さまは江戸での様子を報せるために肥前名護屋へ行って不在だった。赴く際、お梶たち侍女も連れて行ってもらうよう頼んだ。徳川四天王の一人の供連れになれば、これほど心強いことはない。
『徳川四天王』と呼ばれるのは、酒井忠次さま、本多忠勝さま、榊原康政さま、井伊直政さま。
酒井忠次さまは殿が今川氏の人質となる際、付き添っていたときは二十三歳。殿の主な戦にはすべて参加した剛の者で宿老でもあるが、歳には勝てず、天正十六年(一五八八)十月に嫡男の家次さまに家督を譲って隠居した。以後は、残った方々が『三傑』と呼ばれている。
その三傑の一人、井伊さま。
酒井重忠さまは阿茶に何かと関わってくる忠利さまの兄で、永禄十二年(一五六九)の遠江掛川城攻め、元亀元年(一五七〇)の姉川の戦などに参加して武功を挙げている。
本多康重さまの父・広孝さまは織田方に取られた竹千代といった幼少期の殿を奪還するため、今川軍の先鋒として戦い、安祥城の城将だった織田信長の異母兄・信広を捕らえ、人質交換に寄与した。また、岡崎帰城を今川義元に願ったが、それは受け入れられなかった。義元の死後、岡崎帰還を果たした殿に従い、数々の戦を闘い抜き、天正五年(一五七七)に家督を嫡男・康重に譲るが、以後も戦場に立ち続け、長久手の役にも参加した。その後継の康重さまも掛川の戦で初陣して、姉川の戦、長篠の戦などに参陣している。
この年上で剛の者たちを前にして、本多正純さまは少しも臆するところがない。
(肝が据わっているな。それによほど自分の才に自信があるようだ)
そんな印象を受けた。
「阿茶局さま、何かお聞きになっておられることはありませんか」
(それをここで尋ねるかなあ)
京の情勢や諸大名の家中の動きなど、阿茶が贈答等による女同士のやり取りの中で知ったことと、本多正信さまが間者などを使って集めた情報のすり合わせは、これまで秘密裏に行っていた。しかし、本多正信さまが関東総奉行の一人に任じられ、今は殿に従って肥前名護屋に行っている今、その役は子息の正純さまが引き継いでいる。
「はい。大政所さまにはいっとき、病がちであられましたが、ご快復なされたのは御承知の通り。ところが、太閤殿下が名護屋へ赴かれて以後、重篤な状態が続き、明日をも知れぬ有様。しかし関白さまは太閤殿下のご不興を恐れて、そのことをお報せしていない、とのことでございます」
「いつかばれるというのに、たわけた関白じゃな」
ひと言多いのは、酒井雅楽頭家兄弟のさすが兄というべきか。
「亡くなられたら、若殿は弔問に行かざるを得ないでしょう。元服の際、お声がけがあったそうですから。今からそのご準備を」
冷静に言ったのは、正純さまだ。
「まだ、亡くなっとりもせんのに」
「いや、供の者の選別など、あらかじめしておいてもよかろう」
重忠さまと康重さまが言う。
「相分かった。して、そのほうの見立ては?」
井伊さまが正純さまに尋ねる。
「来月……七月には弔事があろうかと」
「うむ」
井伊さまがうなずいたとき、阿茶がすかさず言う。
「あとのことは、お三方でお話しあれ。わたくしと本多さまは下がらせていただきます」
と、正純さまを促して、そこを退出した。
「どうしてあそこで去らねばならぬのです? いろいろと申し上げることがあったのに」
別室に呼び、隅に幸を控えさせた阿茶へ、本多正純が不満げに尋ねた。
「こちらこそ申し上げたい。何故、わたくしをあの場へ呼び出されましたか。本多さまが申されればよいだけのこと」
「若輩者の私の言葉は、まともに受け取ってもらえません。阿茶局さまからであれば、信じていただけると思いましたので」
自らの才を誇っていてもとりあえず、自分の立ち位置は分かっているようだ。まだ聞く耳はあるようだと判断し、だから阿茶も諭した。
「あの方々は、殿が任じた留守居役です。本多さまは、そのお役ではございませぬ。大政所さまの病状が篤いことをお報せするまでがお仕事で、あとは方々にお任せするのが筋というもの」
「しかし、私なら良い方法を献策できました」
「それは、おのれの分を越えたことです。およしなさい」
小さく息を吐いた阿茶は続けた。
「殿から聞いたことがあります。震旦[中国]には有名な軍師が三人いると。周の太公望・姜呂尚、漢の張良、蜀の諸葛亮孔明。本多さまは、この人たちと並ぶおつもりか」
「凡才の私は肩を並べることなどできませんが、目標としたいとは思っています」
「その意気や良し。けれど老婆心ながら、申し上げます。震旦では優れた文官が尊ばれますが、ここは日本。長く戦乱が続き、それを平らかにする武が尊ばれます。その中で我が殿は『海道一の弓取り』と称され、殿を長年支えてきた部将たちもその戦歴は侮れません。三河武士は武威をもって、その人物を計ります。本多さまの才は殿も認めておられますゆえ、あとは戦での武功を挙げて、他の方々に見せてあげなされ。さすれば、献策も通りやすくなりましょう」
「それは……わかっております」
言いつつも、不満げだ。
(父の佐渡守正信さまが一向一揆側について敗れたのち、各地を流浪している間、正純さまは母御と共に大久保忠世さまに匿われていたのだったな。聡明で先を見通す目を持っているが、人の心の機微を察するのがいささか鈍い。惜しいこと。それが身を誤るきっかけとならなければよいが)
腰が低く、何事も控えめな父の正信さまと違って、正純さまは若くあまり苦労をしていないせいか、おのれの才を誇るようなところがある。
そして家中で秀忠さまが世継ぎであることを疑問視する一人であることを、阿茶は知っている。
内心がそうであるためか、秀忠さまも正純さまを苦手としているようだ。
(殿と同じく、家臣に対して好悪を現さない御方だが、何事かあれば、最終的には人は感情で判断するから。はて、どう転ぶか)
忠告はしたからね、と阿茶は心の中で言い訳し、「ではこれで」と、会釈をしてそこを後にした。
同じ頃、名護屋の陣中では徳川家の御陣の前に清水が湧き出て、他の陣所から人びとが来て水を汲むので、そこに小屋を建て、番人をつけて守らせていた。
久しく肥前あたりでは干ばつであったので、水が乏しく、のちには他の陣所の者には水を汲ませなかったのだが、前田家の者がやってきて強引に水を汲み取り、番人が制止したにもかかわらず、聞かないで悪口など言い、闘争に及んだ。
双方から人が出て来て、徳川・前田の両方で三千人ばかりになった。今にも衝突すると思われたとき、本多忠勝と榊原康政の二人が出て来て、これを止めた。忠勝は渋手拭で鉢巻をし、康政は上半身の着物を脱ぎ、汗を流して止めると、水争いの騒ぎはようやく鎮まった。
家康は初めからこの様子を見ていたが、何も言わなかった。ただ、あとで榊原康政が御前に出たとき、笑って告げた。
「おまえは最近、当陣の見廻りとしてはるばる秀忠からの使いとしてやってきたので、何かもてなしがないかと思い、珍しい喧嘩をさせてやったのだぞ。さぞ苦労しただろう」と。
これを聞いた阿茶は思った。
(名護屋在陣の衆は、殿をはじめとして、退屈しておられるなあ)
この朝鮮出兵の話を聞いたとき、故織田右府の娘婿で秀吉のかつての同僚だった蒲生氏郷は、「猿めは、気が狂うたか」と叫んだそうだが、阿茶も同感である。
病が重い大政所のために太閤秀吉だけでなく、朝廷も伊勢神宮をはじめ全国の霊験あらたかな社寺に使節を派遣して病気平癒を祈願した。
天正二十年(一五九二)七月二十二日、秀吉は母を見舞うために名護屋を発したが、途中でその死の報らせを受け、悶絶した。
そして八月六日、秀吉は京の大徳寺で大政所の法要を行った。
父君と連絡を取り、秀忠さまは弔問のために八月十五日に京へ向かった。後見の井伊さまが付き添われている。侍女たちは大姥局さまと笹尾局が率いた。奥向きで〝正妻の仕事〟をしていても、阿茶の身分は奉公人であるから、江戸を離れるには殿の許可がいる。しかしお許しが出なかったので、留守番だった。
太閤の生母が亡くなったということで、天下触穢となり、服喪の期間、歌舞音曲が禁止された。
京・大坂では豊臣家の弔事で町方まで大変なようだったが、江戸は遠いのでさして影響はない。ただ、秀忠さまの無事の帰国を阿茶は毎日、持仏に祈っていた。
そんなとき、小夜が城へやってきた。梅が倒れたという。
「かかさまも歳だから、覚悟したほうがいい、とうちの人が言うんです」
「医師……は無理か」
大名家の者でもない、使用人を診る医師はいない。
「薬湯は飲ませた? これで人参湯を買って、何か精のつくものを食べさせて」
阿茶は箪笥のところまで行き、抽斗を開けて銭の入った布袋を出した。
「かかさま、もう飲み食いできんで、せめてオカタさまの顔を見せてあげたい。無理じゃろか」
泣きながら、小夜が訴える。
「……留守居さまに申し上げてみます」
父母でもない使用人の臨終に間に合いたいという理由では、すぐには許可が出ないだろうな、と思いながら、阿茶は答えた。こういうとき、奉公人はつらい。
結局、外出できたのは、翌々日だった。梅は明け方に息を引き取っていた。阿茶がやれたのは、湿らせた布で末期の水を唇に垂らすことだけだった。
「もったいねえことで。梅も喜んでいましょう」
梅の夫の加兵衛が言った。
「故郷から離して、こんなところで死なしてしまって、私の我儘に付き合わせ、梅には申し訳ないことをしました」
阿茶は、加兵衛に向き合った。梅が寝かされているのは、使用人用の小部屋だ。ここで普段、暮らし、梅は神尾家の家事の統括をしていた。といっても、実際しているのは萩野と小夜で、年とった梅は台所の片隅に坐って、みなの仕事ぶりを眺めていただけだが。
「我儘なんて、とんでもない。オカタさまに――ひいさまに一家でついていくと決めたのは、わしらの意思です。本家の旦那には世話になりましたが、ゴゼンさまが亡くなる前に殿サンの堪忍分を渡して、『子どもらをよろしく頼む』とおっしゃったこと、その通りになさっただけ。わしらに恩義などございません。むしろ大恩あるのは、わしと梅を買い取って下人身分から解放してくださった殿サンでございます。わしと梅は、武田軍の雑兵に村を焼かれ、家族を殺され、捕まった者は売られて、散り散りとなりました。雑兵たちの慰み者となり、あげくは人買い市で売られて、情け深い殿サンに買われなければ、どこかに売り飛ばされ、下人として使い潰されて若いうちに死んでいたことでしょう。この年まで生き永らえることが出来たのは、殿サンとひいさまのお陰でございます。それにわしらは元北条領の者、今は真田家が有しているあたりに住んでおりました。梅も故郷近くで最期を迎えられて、喜んでおるのではないかと思えます」
「そう……そうだったの」
壮絶な過去だが、何も加兵衛と梅が特別なわけではない。乱捕りに遭った者は同様な経験をしている。阿茶は――須和は息子とそんな目に遭わないため、死を覚悟して徳川家康に直訴しにいった。その結果が今につながっている。
「ゴゼンさまは、わしと梅に『子どもらを頼む』とおっしゃって逝かれました。わしらはこの命に代えても、お二人を守ろうと覚悟を決めておりましたが、ひいさまと若さまはご自分で道を切り開かれ、ご立派になられました。あの世で、殿サンとゴゼンさまにお会いしたとき、お二人の話をするのが今から楽しみでありますよ」
「そんなこと……言わないで」
阿茶は涙が溢れて、言葉をとぎらせた。
父母が相次いで亡くなったあと、本家のおじに庇護されたが、幼い姉弟の身の回りの世話をしてくれ、親同然に叱ったり褒めたりしてくれたのは、加兵衛と梅だった。
しばらくは阿茶のすすり泣きだけがその場で聞こえるだけとなった。息子の五兵衛守世は部屋の隅で、そんな二人を見守っていた。
夕方には、報せを受けた一朗太が成瀬さまの知行地からやってきた。
入れ替わるように、阿茶が城へ帰った。親同然の者であったが、使用人の葬儀に出ることまで宿下がりの許可は出なかったからだ。
翌日、梅の遺体は荼毘に付され、時宗の聖による読経ののち、一朗太が持ち帰ることになっていた。ところが、その日に加兵衛が倒れた。そして五日後、眠ったまま、息を引き取った。
「仲の良い夫婦でありましたから」
と、葬儀が終わったあと、一朗太を連れて城にいる阿茶の許へやってきた守世が、骨壺を二つ前に並べて置いて、言った。
「加兵衛が母上に言ったことは、遺言のつもりだったのでしょう。奥向きにいる母上には、めったに会えませんから。しかし、こんなに早く逝くとは、自分でも思っていなかったのではないでしょうか」
「そうですね」
涙を手拭で拭きながら阿茶も同意した。
「小夜と与一の夫婦には、両親の世話をかけましたゆえ、せめて墓守はさせて欲しいと、遺骨はわしが持って帰ることになりました」
守世の後ろへ控えた一朗太が告げる。
「そして、若さまからの伝言がございます」
一朗太の言葉に、阿茶は顔を上げた。
「先月の末、本家の半兵衛さまが身罷りました。その報を持ってきた使いが渡した文によると、跡は嫡男の清左衛門さまが継がれたそうです」
「本家は今、何かお役についていますか?」
「名主をしとられるとか。それで、清左衛門さまが言うことには、『久左衛門は徳川家の陪臣、姉は奥向きで下女をしておるそうだが、代も替わったことであるし、これ以後は付き合いを遠慮したい』とのことでございます。若さまからは、『承知したと伝えるので、姉上は何もなさらぬように』と」
「わかりました、と久左衛門に伝えてください。それにしても、情のないことですね。清左衛門とは幼い頃、仲良く遊んでいたのに」
やはり、あの家に留まらなくて良かった、と阿茶は思った。
「叔父上を陪臣だからと軽く考え、母上を下女などと言うからには、馬鹿にしております。本家は叔父上を成瀬家の雇われ侍と、そして飯田総本家が勘違いした母上が端女勤めということを信じ、もしかしたら、昨年出たお定めを気にしとるのかもしれません」
守世が怒りを抑えながら応えた。
昨年、天正十九年。それ以前にも天正十四年と十八年に秀吉は、銭金で雇われる下級奉公人の侍・中間・小者・あらし子(下人)など、村に田畑を持ち、戦となれば雇われの雑兵となる、そんな人びとに対し、奉公を継続することを強要し、「村に戻るな」「逃亡せずに主人のもとで働け」「町人・百姓になるな」等の禁止事項を定めた。これを破って隠せば、一町・一村を成敗するという厳しいお触れを出した。【身分法令】
本家を継いだ清左衛門は、武家奉公をしている久左衛門の欠落[主家からの逃亡]で自分が咎められるのを恐れているのだ、と守世は言う。
「若さまが成瀬の大殿さまのお供で甲府に赴任した際、本家へ挨拶に行かれましたが、喜んで迎えてくれたのは半兵衛さまだけでした」
「そうですか。私たちは本家のおじさまのご厚意で生かされていたのですね」
しみじみと語った阿茶に、誰も答えなかった。
その後、一朗太は両親の遺骨を持って帰っていった。
阿茶は持仏に向かい、加兵衛と梅、本家のおじの冥福を祈ったのだった。
八月十五日に京へ上った秀忠は、九月九日に従三位に上り、権中納言に任じられた。これにより、「江戸中納言」と呼ばれる。
それを京からの使いによって知らされた阿茶は、
「従三位なら、参内するとき、黒の袍ですね」
と、袍その他束帯の衣装はさすがに縫えないので、茶屋家へ付属品も含めて一式発注し、着つけを教えてくれる者も派遣してくれるよう頼んだ。
これまで五位の侍従などに任じられはしてもお礼のための参内など若君はしたことがなく、殿が代わってお礼を関白秀吉に申し上げていたが、三位になったことで、これからはそうも言っていられないだろう。
朝廷の儀式などで内裏に参内する際には、平安朝の頃から束帯という礼装を着用する。上着の袍は位階によって色が定められており、一位から四位は黒、五位は緋、六位以下は緑(縹色)である。束帯は冠、袍、半臂、下襲、衵、単、表袴、大口、石帯、魚袋、襪、履、笏、檜扇、帖紙から成る。
平安朝のとき労働着だった直垂と違い、束帯は一人では着られず、二、三人の者の手がいる。おまけに着るのに小半時近くかかる。殿はすでに黒の袍を持っているし、着つけを知っている侍者もいるが、それぞれ別行動なので、頼りにしないほうがいいと判断した。
若君は十月二日に帰城し、江戸ではいつもの日常が戻ってきた。その十月中旬に、阿茶の許へ訃報が届く。
義妹の加代の夫、堀田忠右衛門が九月に朝鮮で戦死し、舅が息子を亡くした失意から後を追うように亡くなった、と。
堀田忠右衛門は、秀吉の甥の羽柴小吉秀勝に従って第九軍で朝鮮半島に渡っていた。主君の小吉秀勝が戦病死したあとの戦闘で亡くなり、一緒にいた嫡男の庄九郎も怪我をして戻ってきたという。
「弔事は続くものね……」
阿茶はつぶやき、伊助と萩野を使いとし、香典とお見舞いの品を持たせて警固の侍と共に送り出した。
しかし、この羽柴小吉秀勝の寡婦がのちに秀忠の妻となるとは、このとき阿茶は夢にも思わなかった。




