御子の誕生とお牟須の死
明けて天正二十年(一五九二)正月四日、於茶阿局が男児を産んだ。それも二人。
(なんと若君をお二人も。於茶阿さまの得意げな顔が目に浮かぶ)
羨ましい、という気持ちを阿茶は胸の奥に押し込めた。
六男を辰千代、七男を松千代と殿は名づけたが、使いに行った者から赤子の容貌を聞き、六男の方が「色きわめて黒く、眦逆さまに裂け、恐ろしげな」様子であったため、「捨てよ」と命じた。
(また殿の悪い癖が始まった)
この使者とのやり取りを殿の後ろで見ていた阿茶は心中、溜め息をついた。
(どうしてこう、男児について好き嫌いがあるかな。女児には甘いのに。前夫の仇討ちをするような於茶阿局さまが不貞などするわけがない。殿の御子と分かっていて、こうおっしゃるか。次男の結城秀康さまのときも嫌われたが、今ではどうじゃ。立派な武者、殿のご子息として恥ずかしくない御大将に育たれた……)
「もうし、殿」
と、阿茶が声をかけた。
「赤子の顔など、すぐに変わるものでございます。しばらく様子を見られてはいかがでございましょう」
むむ、と口をへの字に曲げた殿は、阿茶の意見を入れた。他にも同様のことを申し上げる家臣がいたこともある。また、朝鮮への出兵のため、肥前国名護屋へ赴く準備もあったので、子らのことに関わっている時間はなかった。
約一か月後の二月二日、ひとまず上洛するために殿は江戸を出発した。
阿茶は連れて行く侍女として、お牟須、お久、その他気の利く者を選抜し、役女として石津局こと東雲、白須局こと早霧をつけた。
殿の一行が出立してから五日後、殿の書状を持った使者が市女笠姿の少女一人とその侍女、警固の侍と共に江戸城へやってきた。
阿茶が書状を開くと、「駿河国沼津宿を通過中、三枚橋で休息したとき見初めた者である。召し上げるので、世話をしてくれ」と、あった。
(この好きものめ……っ)
腹の中で殿へ悪口を言ったが、阿茶はそれを表情に出さず、使者の後ろに坐っている少女を見やった。
粗末な小袖を着ていても、そこに光が当たっているかのような類まれな美少女である。
使者の口上によれば、名は万。十三歳だとか。
ぴしり、と阿茶のこめかみに青筋が立った。
女の十三は男を通わしてもよい成人の年齢だ。しかし。
(ご自分は五十一歳でしたよね……)
実父は上総国大滝城主の正木邦時で、その死後、母が男女二人の子を連れて蔭山氏広と再婚した。養父の蔭山氏広は今川家に仕えていたが、今川氏直の没落後、北条氏に仕えた。小田原合戦の際、山中城の籠城戦に加わったが落城の時、逃れて以後は伊豆の修善寺で蟄居した。万は沼津の名主・星谷縫殿右衛門に養育され、江川英長の養女としてお目見えし、奥に上がることになった、という。
江川英長は北条の家臣でありながら、三河にいた頃の殿と親しく、その後、徳川家臣となった者である。古くからの知人だ。このことから、阿茶には殿の作為が垣間見える。
「三浦宗家の末裔の娘とのことでございます」
そう締めくくった使者の言葉に、阿茶は納得した。
(養父の蔭山さまは元・今川家臣ということで、どこかで知っておいでだったのかもしれない。でも一番の理由は、鎌倉幕府に仕えた三浦義村の血を継いでいるということね)
『吾妻鏡』の愛読者の殿がやりそうなこと、と阿茶は小さく息を吐いた。
使者をねぎらって返したのち、阿茶は御奥にいる側室の二人、西郡の方さまとお竹の方さまに蔭山万を紹介し、側室として局を作って侍女を付け、御奥に住まわせた。
その部屋からは、朝晩、お題目を唱える声が聞こえてくる。
「法華宗の熱心な信者でしたか。殿はご存知なのかしら」
危惧する阿茶に、
「若いのに良い心がけだこと」
と、西郡の方さまは笑っていた。
蔭山万のことが落ち着いた頃、阿茶は於茶阿局が身を寄せている花井家の屋敷を訪れた。
「阿茶局さま、お越しいただきありがたく存じます」
床払いをした於茶阿局が花井家の者と一緒に出迎えた。
「若君ご出産の儀、祝着至極に存じます。お顔を拝見させていただいて、よろしいですか?」
「はい、ぜひとも」
赤子たちが寝かされている部屋へ案内され、阿茶は一礼してから近寄り、嬰児たちの容貌をよくよく見た。
辰千代と名づけられた子の方が面長で、松千代と名づけられた子は丸顔だった。二人とも眠っていたので、目つきがどうとは分からなかった。ただ、双子といっても、全然似ていない。しかし使者が申し述べたように「恐ろしげな」様子ではなかった。
徳川の血筋は殿とその異母妹さま方を見る限り、「タヌキ顔」だ。督姫さまと振姫さまは生母に似ているから、面長の美人。秀忠さまは目元が母のお愛の方さま似ているけれど、全体が殿に似ている。福松丸君は殿似で、武田信吉さまは母親似で儚げなご様子。亡くなられたご長男と養子にいかれたご次男は会ったことがないので、お顔を知らないから似ているかどうか、分からないけれど。
さて、この赤子たち。弟の松千代君は「タヌキ顔」で、兄の辰千代君は面長というより、「キツネ顔」だった。徳川家の子の誰にも似ていない。どうしたことか。
「お二人とも、かわいい。こちらの松千代君ですか、殿によく似て。そちらの辰千代君は於茶阿さまの方の一族の血が濃く出たようですね。どちらの子も先々が楽しみです」
と、阿茶が言うと、於茶阿局が、わっと泣き伏した。城での殿の言葉をだれかから聞いていたようだ。
「於茶阿さま、お心を静められて」
阿茶が言うと、於茶阿局は顔を上げて袖の先で涙を拭いた。
「辰千代は、どうなるのでございましょう」
顔が青白い。そして、やつれており、いつもの勢いがない。
(四十を過ぎての双子の出産。どれほど苦しかったであろうか。出産で命を落とす女もいるというのに、男どもは軽く考えて、ほんに腹の立つ)
そう思いながら、答えた。
「『捨てよ』と申されましたが、今は肥前名護屋へ出立され、保留となっております。しかし安心なされよ。きっと、わたくしが悪いようにはいたしませぬ」
「はい……よろしゅうお頼み申します」
と、頭を下げた於茶阿局だが、がばりと顔を上げる。
「そうですわ。わたくし、また御殿奉公に戻ります。わたくしの働きを殿がお認めになられれば、きっと辰千代を我が子とお認めになり、よきようになされましょう」
「それは良いお考えでございますが、まずはお身体をいとい、万全にされてから。殿はしばらく江戸を留守にされますゆえ、焦ることはありません。身体を休め、子らを育てながら、殿のご帰国をお待ちになるのがよろしいかと存じます」
「……さようでございますね」
阿茶と於茶阿局、二人とも殿がすぐにでも帰って来ると思っていたが、まさか関東へ帰国するのに二年近くかかるとは予想もしていなかった。
かつて主君・織田信長に言った「唐入り」。その場限りのことでなく、秀吉は明討伐の意思を持ち続け、九州平定後の天正十五年(一五八七)、明国への通り道となる李氏朝鮮に明討伐の先導役となるよう、対馬の宗義調・義智父子に交渉させた。
対馬の領主の宗氏は、貿易や通交の立場から、また元商人で貿易の重要性をよく理解していた小西行長と共に、朝鮮とことを構えるのを反対し、話し合いで決着させようとしたが、明と朝鮮は友好関係を築いていたため、交渉は不首尾に終わり、秀吉の申し出を退けた。
天正十九年八月、愛児・鶴松を失った翌日、外交交渉のための供奉僧を選定し、「来年三月一日に出兵するので大名は出陣の用意をせよ、名護屋城の普請は黒田長政、小西行長、加藤清正に申し付ける」と命じた。
十二月に甥の秀次に関白職を譲り、太閤となった秀吉は朝鮮出兵に専念する態勢を整えた。
天正二十年(一五九二)、秀吉は全国の大名に動員令を発布した。
約三十万の軍勢を、大陸出兵組と名護屋在陣組とに分け、出兵組は主に九州・四国・中国地方の大名と九鬼水軍、名護屋在陣は東国の大名で構成した。在陣組は、東国で九月まで奥羽の一揆鎮圧のため軍役に勤めていたことを考慮された。他に、京の関白秀次の許に近畿・東海の大名を配して、全国的な臨戦態勢を敷いた。
渡海する軍勢・十五万八千八百人を第一軍から第九軍にわけた。
第一軍に宗義智・小西行長・松浦鎮信ら。第二軍に加藤清正・鍋島直茂・相良長毎。第三軍に黒田長政・大友吉統。第四軍に島津義弘・森吉成ら。第五軍に福島正則・長曾我部元親ら。第六軍に小早川隆景・毛利秀包ら。第七軍は毛利輝元。第八軍は宇喜多秀家。第九軍は羽柴秀勝・長岡(細川)忠興。
四月十二日、小西行長・宗義智が率いる第一軍が朝鮮・釜山浦に上陸し、戦いが始まる。
この天正二十年は十二月八日に改元して文禄としたので、これを『文禄の役』という。
攻撃の始まる前の三月十三日、殿は参内して、太刀・白鳥などを献上し、十七日に伊達政宗・上杉景勝たちと肥前名護屋に向けて出発した。このとき白須局が出した文が数日後、阿茶の許へ届いた。
それには、「お牟須さまが懐妊なされました」と書かれてあった。
(児が腹にいて、長旅は大丈夫かしら)
阿茶が心配するであろうことを見越し、それも書いてある。
「お牟須さまがおっしゃるには、『つわりが軽く、気づくことが遅れました。けれども、弥一郎のときも安産でしたので、きっと大丈夫です』とのことです」
そうは言っても、と阿茶は「くれぐれも、身体に気を付けて。弥一郎のことは見ていますから、安心してください」と消息[手紙]を書き、使者に託した。
江戸に残った十四歳の秀忠さまに、殿は榊原康政さまと井伊直政を後見として付けていった。お二人は武勇に優れているだけでなく、民政・外交交渉もできる方々だ。
それゆえ後見といっても、このお二人が主導して、少年の秀忠さまは話をよく聞き、政のやり方を学んでおられる。今、差し迫った事項としては、江戸の城と街を造ることなので、学問・武芸を学びながら、秀忠さまは普請場にたびたび出かけ、作業している者たちを激励しておられた。
「福松丸さま、兄君のなされようをよく御覧になっておかれるのですよ。東条松平家の当主となったあかつきに参考となるように」
と、阿茶はまだ元服前の福松丸君へ諭した。
福松丸君も真剣な表情でうなずき、兄君が帰城された際にはお出迎えをし、話をねだった。
井伊さまたちから江戸の様子は肥前名護屋にいる殿へ報告されているだろうが、阿茶からも定期的に江戸での奥向きの様子を書き送った。
肥前から届く戦の報せは、「連戦連勝」というものばかりだった。
(これなら殿が渡海されずとも、戦は終わるかもしれない)
そんな希望を抱いた頃、六月の下旬になって、白須局の配下のお糸という侍女が警護の侍と共に戻ってきた。
火急の用とのことで旅装束も解かぬまま阿茶の前に出たお糸は、手にしていた布包みを広げた。そこには、一枚の帷子と紐で縛ったひと房の黒髪があった。
「申し上げます。過日……六月十八日、お牟須の方さまが産気づかれ、ご産所とされた民家でお苦しみの末に姫君をお産みあそばされましたが、難産ゆえお命を落とされ、姫君も産声を上げることなく儚くなられました。葬儀は現地でなされ、わたくしは主の命によって、これらの遺品をご子息にお渡しするようにと……」
と、懐から出した文を差し出し、泣き伏した。
阿茶の横にいた幸が、にじり寄ってそれを受け取り、戻って阿茶へ渡した。
はらり、と文を広げた阿茶は、白須局からのそれを読んだ。
(お産は、初めの子が安産だったからといって、油断できないのに)
立ち上がって遺髪と遺品の前へ行った阿茶は、髪を手に取り、撫でた。
「お牟須、がんばりましたね……」
と、阿茶は涙を流した。
それを拭わないまま、お糸に声をかけた。
「ご苦労でした。白須局に返事を書きますから、そなたは出立までの数日、休んでいてください」
「はっ、仰せのままに」
お糸は一礼して部屋を辞去した。
「幸、お梶さまを呼んでください。弥一郎はまだ手習いから帰っていないと思うので、戻り次第、わたくしの許へ来るようにと伝言を。そのときには乳母と守り役も一緒に」
「かしこまりました」
幸が出て行くと、阿茶はしばらく物思いにふけった。そして、お梶が来るという先触れが来たとき、部屋の隅で控えていた市島局こと牧尾に遺品を包み直すよう命じて席に戻り、居住まいを正した。
「お呼びとのことで参りました」
お梶が側仕えと共にやってきた。
阿茶は、お牟須が亡くなったこととそのため殿の御世話の手が足りなくなったことを伝え、お梶に名護屋へ行ってもらう、と告げたのだった。
お梶は、お牟須が亡くなったと聞いたときには、痛ましそうな顔をしたが、殿の許へ行くと聞いた際には、目を輝かせた。お牟須のことを慮って、嬉しそうな表情はしなかったが。
(お梶さまも十五歳となった。もう側室としての勤めを始めてよいでしょう。教養など基礎はできたことでもあるし。〝妻〟の仕事は、おいおい教えていけばよいか)
そう阿茶は考えていた。
お梶の側仕えの遠縁の女も安西局と名を授け、お梶付きの役女とし、市島局に仕事を教えるよう命じた。
名護屋行きの準備などの打ち合わせで三人が退出すると、幸が戻ってきた。
「あと一刻もすると、お戻りになるそうです」
「そうですか。ご苦労」
この年、九歳になる三井弥一郎はまだ殿にお目見えしておらず、小姓などの御役目を賜っていない。そのため、お牟須の局に住みながら、城外の寺に通い、そこの住職から学問を教えてもらっていた。
阿茶が白須局宛ての手紙を書いていると、先触れが来た。
座につけば、弥一郎と三井家から付けられた乳母と守り役がやってきた。
「弥一郎、母君が留守をしていても、学問・武芸に励んでいると聞き、嬉しく思います」
「はいっ。お言葉、ありがたく存じます」
弥一郎が元気に返事をした。
初めて会ったときは三歳。よう大きくなった、と阿茶の目に涙が浮かんだ。
「呼んだのは……つらい報せです。しかし、そなたは幼くとも三井家の当主。ですから、わたくしも正直に伝えます。……そなたの母、お牟須さまが亡くなりました。難産の末のことだったそうです……」
「まさかっ。御方さま」
ひっ、と乳母が絶句した。守り役はうつむいて両ひざの上でこぶしをきつく握った。
「今日、肥前名護屋から、報せと遺品が届きました」
つと幸に目をやると、幸が布包みを弥一郎の前へ持ってき、広げる。
「母上……ははうえっ」
遺髪を見て、その死を理解したのか、弥一郎は髪を両手で捧げ持ち、胸に抱きかかえた。
「お牟須さまの願いは、そなたの健やかな成長と三井家の再興です。そなたが元服するまで、わたくしが後見いたします。殿も悪うはいたさぬでしょう」
嗚咽を漏らす弥一郎に、阿茶は告げた。
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お牟須は唐津の寺に葬られた。号は正栄院。
子の三井弥一郎は家康に近侍し、元服すると吉正と名乗った。旗本として千五百石を賜り、寛永二年(一六二五)に四十二歳で亡くなった後は、その息子の吉次が三井家を継いだのだった。




