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聚楽第での怪異

 東北から家康が江戸城に戻ったのは、天正十九年(一五九一)十月二十九日であった。


(もう少し早ければ)

 と、阿茶は思うのだが、お都摩の方さまと殿の間にはそれほど濃い情愛があるわけでもなかったようだ。

 十月六日に下総の小金で、お都摩の方さまが病で亡くなったことを奥州にいる殿に早馬で伝えても、「武田家へ弔問の使者を出せ」と指示が返ってきただけで、江戸に帰国しても特に悲しい様子も見せなかった。ただ、殿は信玄公の娘で穴山さまの寡婦にして万千代さまこと信吉さまの養母の見性院さまへ、とても気を遣った。

 むしろ、親しかったお竹の方さまが大変悲しまれ、気落ちされていた。

 阿茶は同じ甲斐出身で補佐のお仙さまに、「お竹の方さまの話し相手になって、お慰めしてください」と頼んだ。

 秋口から世間ではたちの悪い風の病が流行っているようで、奥向きでも侍女や小者たちの中に罹る者がいた。ひょっとしたら、お都摩の方さまもそれであったかもしれない、と阿茶は思う。

 幸いなことに御奥の若君と姫君にうつることはなく、伝い歩きを始めた結衣も病になることはなかった。城でこの病に罹った者も、寝込むことはあっても大事に至る者はいなかった。けれども、市井ではそうでもない。死者が何人か出たようだ。

 このことを市島局こと牧尾から聞いた二十日後、大姥局さまから「部屋へ来て欲しい」との伝言を受け取った。

 大姥局さまの部屋へ赴くと、局さまの横に一歳と二歳くらいの男女の幼児が乳母に抱かれている。

「ご足労ねがい、かたじけのう存じます」

「いえ、お気づかいなく。御用とは、もしかしてこの子たちのことでしょうか」

「さすがに話が早い。左様でございます。この子らは、岡田元次どのと千賀の子。兄は五郎三郎、妹は千代と申します。この子らの母の千賀は先日、流行り病で亡くなりました」

「なんと……」

 阿茶は言葉を失った。

 先夫を戦で亡くし、幼子を連れての苦労の末の逃避行。そのかいあって息子は徳川家に仕えることができ、自分は再嫁して子も生れて、千賀さまは幸せに暮らしているものとばかり思っていた。

「岡田さまも患い、昔ほどの働きができないとのことで隠居して、家督は嫡男に譲られました。そこで困ったのは、この子らの養育です。岡田家は嫡男一家が継ぎ、この子たちより年上の子どもがおります。成長しても、家臣なみの待遇でしょう。かといって、千賀には親族がいてもそれほど付き合いがなく、異父兄の土屋平三郎はまだ若い。岡田さまの許へ弔問に行ったときこの話を聞き、わたくしが引き取ることにいたしました」

「このこと、殿には?」

「まだ。母方からとはいえ、岡部元信の血を引く子ら。殿には、行く末のお考えもありましょう。どうか、阿茶局さまから、よしなに申し上げてくださいませんか」

 と、大姥局さまは頭を下げた。

「そのようなことなさらずと。水臭い」

 と、阿茶は大姥局さまを引き起こした。

「おまかせくださいませ」

 頼もしげに答えたものの、殿の反応は阿茶にも予想ができない。

(岡田家の分家や家臣―――徳川の陪臣にはなさらないと思うが)

 先触れを出して殿に会う算段をつけ、千賀さまの子の事情を話すと、殿は一つうなずいた。

「元次の妻女は残念なことであった。子どもらは大姥局が養育することを許す。どのように育つかまだ分からぬが――〝筒井筒つついづつ〟というのも、よいかもしれぬな」

 と、にやりとした。

『筒井筒』とは、『伊勢物語』にある幼馴染もしくは幼い恋のことだ。

(何をお考えだか)

 変な人だ、という初めての印象を改めて感じた。

 駿府城に移るとき、富士の浅間神社を復興させたように、十一月、殿は関八州の寺社に対し、寺領・社領をいっせいに寄進し、下野国の足利学校にも所領を寄贈した。

 また同じ十一月四日に、秀吉から許されて河内国狭山に一万石を与えられて大名に復帰した、督姫さまの夫君・北条氏直さまが病没したとの報が伝わった。

(督姫さまはさぞ、お嘆きであろう)

 阿茶はその心中を思い、冥福を祈った。

 こうして徳川家の天正十九年という年は暮れるのだが、豊臣家は弔事の多い年であった。

 義妹のお加代さまは一度顔を合わせたことによって、阿茶にますます親しみが湧いたのか、身辺のことだけでなく、主家の豊臣家のことも多く書き送ってくるようになった。他から入ってくる情報と考え合わせると、このようであった。



 前年から病気がちだった関白秀吉の弟・秀長が正月二十二日に亡くなり、小田原合戦が終わったのちの七月九日、夜四つ時[午後十時頃]に、小姫が七歳で聚楽第の本丸御殿において没した。

 これによって、秀忠との婚約も立ち消えとなった。

 小姫の死後、不思議なことが起こった。七月九日の夜、虚空に光が飛んだ。

 見た者たちが人魂だと騒いだので、吉田神社の神職で公家の吉田兼見へ招魂祭を執り行うよう豊臣家から要請された。

 聚楽第にいた鶴松君と北政所も体の具合が悪く、奥州での大規模一揆のことが上方にも伝わり、城中の人びとが不安に思っていたときでもあった。

 吉田兼見は翌日から祈祷を執行することを申し入れ、穢れを移して捨てる身代わりとしての撫物なでものを用意してもらうよう請うた。

 七月十一日に撫物として、関白秀吉と北政所が身に着けていた帯二・帷子かたびら二・鏡二が招魂の壇に飾られ、祈祷が始まった。十七日に結願けちがんし、そのことを伝えると、「目出度い」との返事があったものの、北政所の腹痛が続いていたので、さらに祈祷を続けるよう、老女のひがしの局より手紙で伝えられた。

 結願となって穢れを落とした秀吉は、その日のうちに鶴松君を連れて淀城へ移動した。政庁である京の聚楽第と淀城を秀吉は行き来していたが、療養していた鶴松君は治ることなく、三歳で亡くなった。

 秀吉の悲嘆は周囲の者が目を逸らすほどであった。遺骸は妹・朝日姫の眠る東福寺に移され、秀吉は元結もとゆいを切って二泊三日の御籠おこもりをし、愛児の死を追悼した。関白に倣って、元結を切る公家・武家も多かった。

 八月七日、妙心寺において鶴松の亡骸に最後の別れを告げ、秀吉は清水寺に入って過ごし、九日にはそこから有馬へ湯治に出かけた。



(武士が人魂ごときで、そんなに騒ぐか?)

 祓えの儀式が行われたと聞き、最初に阿茶が持った感想がそれだった。

(光り物というが、夏のこととて蛍か何かを見間違えたのではないか? もし人魂であっても、そんなもの墓地に行けば、いくらでも見ることができよう。その人魂が小姫さまと仮定しても、七歳の幼子が恨みを持つとは思われぬ。寂しくなって遊びに出て来てしまったのなら分かるが。それにしても……武力で天下をとった御方も、ずいぶんとお公家の風習に染まったものよ)

 そう感じたが、幼くして亡くなった小姫さまは秀忠さまの婚約者でもあったので、「おかわいそうに」と思った阿茶は、天海僧正が住持をしている喜多院に供養料を持たせた使者を送り、小姫さまの冥福を祈るご祈祷をしてもらった。




 この話には続きがある。

 死穢しえの場所となった淀城の破却を秀吉は決定し、隠居所としての伏見城の築城に着手する。朝鮮出兵の準備をすると同時に、天正十九年十二月二十八日に関白職と聚楽第を甥の秀次に譲り、自分は太閤と称した。

 その二年後の文禄二年(一五九三)四月十四日、再び吉田兼見に祈祷の依頼があった。今度は関白となった豊臣秀次の正室・池田氏(池田輝政の妹)からである。

 使者が言うには、「北政所さまの養子の姫君が先年亡くなり、その霊気が気にかかるので社壇を作って安鎮させたい」とのことだった。

 秀次の正室が、小姫の亡霊を鎮めるための神社を勧進したい、という。

 兼見は「大坂城で神社造営の予定があり、聚楽第は一度祓いをしたので不要」と答えるのだが、秀次の娘で二歳の八百やお姫が病のため、清め祓いをしてほしいとの要請が十六日にあった。秀次の了解をとり、十九日から祈祷と清めを行った。

 聚楽第では、八百姫とその年に生まれた妹の亀姫が病に罹っており、四月七日に生まれた男児も重病で、加持祈祷の甲斐なく六月六日に亡くなり、八百姫も翌年の六月三日に早世した。

 大坂城でも四月二十四日から十七日間の行法の後、小姫の御霊のための社が造営された。


 諸将が朝鮮半島で戦っているときの出来事であった。








あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


新年早々、幽霊話ですいません。

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