奥州仕置と九戸政実の乱
天正十八年(一五九〇)、小田原合戦の最中、もしくはそれ以前に、関白秀吉の許へ、北関東の諸将の佐竹・結城・宇都宮、安房の里見、奥羽の津軽・最上・南部・相馬・岩城などが出仕し、当知行安堵を受けた。
一方、すでに陸奥・出羽を平定していた伊達政宗。
秀吉からすでに本領安堵を受けていた蘆名氏を天正十七年六月に政宗が蘆名氏の後継争いに乗じて襲い、居城の黒川城を奪って滅ぼしてしまった。これは私戦で領土を奪ったことになり、秀吉の怒りをかった。浅野長吉たちの取りなしもあって上洛することなく済んだが、小田原参陣を勧められた。ところが出発予定の前日に母・保春院による毒殺未遂事件が起きたため、六月五日になって小田原に到着した。死装束で秀吉の前に出たところ、意外にも許され、私戦で獲った会津・岩瀬・安積郡などは没収されたものの、他の知行地は安堵され、奥羽の仕置きの執行を命じられた。
北条氏を滅ぼした関白秀吉はそのまま軍勢を率いて八月九日に会津黒川城へ入ると、小田原に参陣しなかったという理由で、白川義親・石川昭光・大崎義隆・葛西晴信の領地を没収した。彼らは伊達政宗の勢力下に入った国衆で、政宗の力を削ぐ意味もあった。
秀吉は会津領と白川・石川領などを蒲生氏郷に与え、伊勢松坂から会津に移して奥羽の要とし、大崎・葛西領は直臣の木村吉清・清久に与えて、伊達政宗の領地の南北を押さえ、監視役とした。
その他の大名は上杉氏を含めて領知安堵を受けたが、妻子を在京させること、検地・刀狩りをすることを命じた。秀吉の行う検地はそれまでの指出[申し出]ではなく実測であり、石高が決まると、それに応じた軍役と普請役が課せられた。刀狩りは一揆を防ぐためだった。また、量る基準として、京枡の使用も強要した。
八月十二日に秀吉は奥羽を去り、帰路、駿府で小西行長たちと面談して明国への出兵の準備について相談した。あとは奥羽に配置した大名たちにまかせたのだ。
武力を背景にした上方勢のやり方は、奥羽の人びとの不安と恐怖を煽った。
秀吉は国衆や地元民によく説明して納得させるよう命じる一方、『これに抵抗する者がいるなら、城主であればその城に追い入れて全員を撫切りにせよ、百姓らは一郷も二郷も村人全員撫切りにせよ、たとえ「亡所」になってもかまわない、山の奥、海は艪櫂の及ぶ所まで追求せよ』とも命じた。
抵抗するのなら、皆殺しにしてもかまわないと言う。
秀吉たち軍勢が引き上げたのち、九月の下旬、出羽仙北地方で三万五千人ほどの一揆が蜂起した。由利・庄内地方でも一揆が起こった。
十月に入ると、奥州でも葛西・大崎氏の旧領で一揆が起こり、南の黒川郡、北の和賀・稗貫郡にも起こり、奥羽一帯に拡大する。主家が改易され、牢人となった侍たちだけでなく、他の下じもの人がそれに加わっていた。
出羽国[秋田・山形]の検地を行ったのは、前田利家・大谷吉継・上杉景勝で、仙北一揆・庄内一揆を鎮圧したのは、上杉景勝である。
陸奥国[青森・岩手・宮城・福島・秋田の一部]の検地を行ったのは、南部信直・浅野長吉・木村吉清で、和賀・稗貫一揆は浅野・南部軍に鎮圧される。しかし、大崎・葛西一揆は十月に蜂起が始まると岩手沢城を落とし、木村父子のいる古川城へ迫った。蒲生氏郷と伊達政宗に鎮圧が命ぜられ、蒲生・伊達軍の猛攻に一揆勢は撤退した。けれども一揆の勢いが衰えることはなく、氏郷は政宗が一揆を裏で煽ったのではないかと疑い、両者は不和となった。そこで秀吉は、十二月に甥の秀次を総大将とし、補佐に家康をつけて奥州への出陣を命じた。
「今回は侍女たちを連れて行かないのでございますか?」
年末に出陣のことを聞かされた阿茶は殿に訊いた。
「一揆の鎮圧だからな。万千代(井伊直政)と小平太(榊原康政)を先鋒として出したのちに、わしが着陣する頃には終わっていよう。それに主力ではない」
「それならば、ようございますが」
(女好きのこの男が我慢できるかしら。戦に女を連れて行くことは普通しないから、これが本来のあり方なのだけれど)
とも思ったが、阿茶は戦陣に持っていく衣装などを用意し、小姓たちに殿の身の回りのことを頼んだ。
江戸城で初めて家臣たちを集めての年賀を終え、天正十九年(一五九一)正月五日に、殿は軍を率いて出発した。
武蔵岩槻城に至ったとき、伊達政宗が京に呼ばれたことを知り、十三日に出陣を取りやめ、岩槻から江戸へ戻った。そして閏正月三日、上京のために江戸城を出発。二十二日に入京した。これは朝廷に献上物を持参するためであった。このとき阿茶は同行していない。於茶阿局、お牟須、お久の他、侍女をつけた。
途中、清州で殿は関白秀吉と会い、伊達政宗について取りなしている。それというのも、蒲生氏郷からの報告で勘気を蒙った政宗が殿に使者を遣わして頼ったからだった。
(伊達さまも難しいお立場じゃ。奥州を平定するほどの実力を持ちながら、京に豊臣家が出現したことから、従属せざるを得ず、警戒されているので、家を保つために腐心しておられる。もし、生まれるのが十年早かったなら、徳川も……いや、武田、今川、北条など関東の諸大名もどうなっていたか分からぬ。そのような御人に恩を売っておいて損はない)
何事もめぐり合わせじゃなあ、と阿茶は感慨深く思った。
そんな阿茶も徳川家の奥を整え、北条旧臣の娘や寡婦を御奥に受け入れ、一方で上方の情勢を掴もうと考えを巡らせ、お梶さまの教育と結衣を育てることなどして忙しい。
阿茶が若君の養母に決まったことを北政所さまが知っていたのは、筒井さまの侍女から漏れたことが、本多正信さまの調べで分かった。
筒井俊勝(順斎)さまは殿の異母妹・市場姫さまの再嫁先だ。
「あそこは本家が豊臣の大名であったな」
自分のうかつさを悔いた。別に養母になったことは隠すことではなかったので幸いだったが、これからは気を付けようと自戒する。
本多さまは大坂城、聚楽第の内に息のかかった者を潜入させているという。贈答などで知り得た情報を欲しいとのこと。そこは互いにすり寄せることで合意した。
また、家臣同士の婚姻には殿の許しがいるため、表役人の許にあるその記録を御奥にも共有させてもらい、今後の女同士の交流に役立てるため、右筆の神尾さまに頼んで能筆の親族の女性を阿茶の側仕えとしてもらい、文書を作成してもらっている。
新規に入った北条旧臣の女たちは奥勤めの日常の様子を見ながら、能力と信用度を見定め、中臈・下臈女房として使えるか、検討している。
お梶さまについては、殿の癖や性格など逸話を語りながら、古典などの教養、乗馬・武芸などを身に着けるよう誘導中だ。
「殿は吝嗇とよく言われますが、ただ貯めこむだけの吝嗇ではございませぬ。銭金で苦労した時期が長かったので、いざという時のために日頃から質素倹約に勤めておられるのでございます」
「戦に侍女を伴うことが多うございます。わたくしも以前、お供いたしました。そのためには乗馬、護身のための武芸を身に着けていたほうがよろしゅうございましょう」
「殿は大変、学問がお好きで、教養を身に着けるため、書を読むこともおすすめいたします」
「やはりお歳を召したせいか、侍女に腰をよく揉ませます。按摩や灸の知識もあるとよいかと」
などと折に触れて語り、それぞれの技にたけた者を付けて学ばせている。
そうしているうちに、上京した殿は三月十一日に帰国の途につき、二十一日に江戸城へ戻って来た。
表で秀忠さまと重臣たちの出迎えを受け、留守の間の様子を聞き取った殿が奥へとやってきた。
「大儀である」
と迎えた阿茶をはじめとする女たちに告げ、部屋でくつろぐと十二歳になった福松丸君と九歳になった振姫さまを側に呼び寄せ、自分がいない間に何をしていたか色々と尋ねていた。
その後、食事を摂り、殿が閨に呼んだのは於茶阿局だった。
御奥で変わらぬ日常が始まったと思ったのもつかの間、於茶阿局が懐妊した。
「このたびは、おめでとうございます」
於茶阿局付きの侍女から「主につわりが始まりました」と伝えられた阿茶は、さっそく部屋を訪ね、祝いの言葉を贈った。
「わざわざおいでいただき、ありがたく存じます。男児のような気がいたしますのよ」
嬉しげに相変わらずの様子で話す於茶阿局に苦笑しながら、阿茶は尋ねた。
「産所の当てはありますの?」
「ええ。娘が嫁いだ花井家に行こうかと」
殿はお久こと於茶阿局を召し出したとき、その実家・花井家の一族から家臣を取り立てた。近習を勤め、今は旗本となっているその花井吉成に於茶阿局は娘のお八を嫁がせたのだった。
殿に於茶阿局が懐妊したことと産所を花井家にすることを報告すると、宿下がりの許可が出た。
於茶阿局が御前から下がると、殿はお牟須を閨の相手に指名した。
「よいのですか?」
と、お牟須に訊くと、
「わたくしが、という気持ちもありますけれど、このような日が来ることを覚悟しておりました」
と、頬を染めて答えた。
家中では、「殿、ご寵愛の三人衆」として、お牟須、阿茶、茶阿の三人の名が挙がり、「殿の後家好き」と揶揄する者もあった。後家ならば、子を産んでいるので確実に子を成すだろう、それを見越してのご寵愛と言うのだ。
(実利的な殿の性格から、そう言うのだろうが、ちょっと違う)
お梶さまを大切にしている殿を見ていると、そう思う。
「ご寵愛三人衆」の一人に名が挙がっても、阿茶は別に良い気はしなかった。他の側室に嫉妬する気持ちもなかったが。殿に対して気持ちが醒めたのかもしれない、と自分でも思った。
やがて天正十九年(一五九一)六月、奥州の九戸政実の乱の鎮圧のため、秀吉から徳川家へ出陣命令が出された。殿は七月十九日、井伊直政・榊原康政・本多忠勝・松平康元ら家臣を率いて、江戸を出発した。
このときも侍女たちは連れて行かなかった。
(これは関白から課せられた軍役だからか)
と、阿茶は察した。
天正十八年の七月から八月にかけて行われた関白秀吉の奥羽地方における領土仕置(宇都宮仕置、または奥州仕置)への反発は一揆という形で奥羽全土に広がったが、仙北、庄内、和賀・稗貫の一揆は天正十八年の内にはぼ鎮圧された。
奥州仕置の際、宗家後継者争いをしていた南部家は秀吉の裁定によって南部一族の田子信直が宗家として認められ、他の一族は家臣とされた。それに反発した南部一族の九戸氏が年を越した天正十九年三月に挙兵する。
すると大崎氏・葛西氏の旧臣が連動するように五月に挙兵し、四万の兵を集めた一揆軍は諸城を落として勢力を拡大していった。前年に伊達政宗と共に出陣命令を受けた蒲生氏郷は、政宗が一揆を煽っているという疑念から、前年の十一月に攻略した名生城に籠って出て来ない。そのため、伊達軍は単独で一揆勢と戦い、激戦の末、最後は兵糧攻めで一揆勢が立てこもった本城の寺池城を七月四日に落とし、首謀者十数名の処刑によって、一揆を収めたのだった。
これより前、奥羽で起こっている一揆の鎮圧を目的として、関白秀吉は天正十九年六月に奥州を再仕置するための軍を編成した。
白川口に総大将・豊臣秀次が率いる三万の兵と徳川家康の軍が加わり、仙北口に上杉景勝、大谷吉継、津軽方面には前田利家、前田利長。相馬口に石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱。他に伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信たちは諸将の指揮下に入るよう秀吉は指示した。軍勢は北進し、蒲生氏郷、浅野長吉と合流して、八月には南部領近くまで進撃した。
九月一日に九戸氏の諸城が落ちると、九戸政実は九戸城へ籠った。
三方を川に囲まれた天然の要衝、九戸城の周囲を約六万の兵が囲み、攻防を繰り返した。徳川からは井伊直政が出て、浅野長吉軍と共に戦ったが、城は容易には落ちなかった。
じきに雪が降る季節となることに焦った軍監・浅野長吉は九戸氏の菩提寺・長光寺の住職を使者に立て、「投降すれば一族、城兵の命は助ける。政実、実親の兄弟は上洛して関白殿下に釈明すればよい」と、城を明け渡すよう説得させた。
それに応じ、九月四日、九戸政実は七人の城将と共に剃髪し、白装束で豊臣秀次に降伏した。だが、秀次は浅野らの助命嘆願にも耳を貸さず、政実たちの首をはね、一族郎党、妻子、城兵たちを二の丸、三の丸に閉じ込めて火を放って焼き殺し、残りは撫で切りにし、一人残らず殺害した。
九戸城を焼く火は三日三晩、夜空を焦がしたという。
この間に一揆を収められなかった木村の改易、その旧領への伊達政宗の転封、政宗の本領没収という再仕置も行われた。伊達政宗は米沢から岩手山城(宮城県)へ移され、旧伊達領は蒲生氏郷に加増された。
これによって全国の統一が成り、再仕置の翌年四月から朝鮮出兵が始まるのだ。
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皮肉なことに、九戸政実の乱の凄惨な結末から四年後に豊臣秀次は妻子と共に秀吉の命によって殺され、二十四年後、秀吉の息子とその生母が業火の中で命果てることになる。




