邂逅
峠の上の方に近づくにつれ、人影が見えるようになった。衣や髪形の様子から武士ではなく、近在の村の代表者たちのようだ。
村はオトナが物事を決定し、若者は村の働き手であり、戦闘員でもある。村それ自体が武装しており、年貢や夫役について領主と話し合う。国境に位置する村は常に戦に巻き込まれる危険を有しており、戦う双方に使者を送り、交渉して村に損害が出ないようにする。ここに来ている村の者たちは、武田家を国主と仰ぎ、求められた人数の軍役を出す一方で、進攻してくる徳川方と交渉し、村に攻め込まないよう嘆願し、交渉が成立したのだろう。酒肴を持って、出迎えているものと見える。
須和はその行列の最後尾についた。
人びとの後について坂を上がっていけば、白地に黒の三つ葉葵の旗を目にする。徳川軍だった。峠の天辺で休息しているようだ。
そ知らぬ顔をして、須和は順番に目的を聞く甲冑姿の係の兵の前に出た。
「そなたは……」
「神尾の後家でございます。成瀬様に御用のすじがあり、まかりこしました」
「ああ。成瀬様はここにはおられん」
え。いないのか。
と、須和は落胆した。気負ってやって来ただけに途方にくれた。
「おい」
答えた役人の横にいた兵が肘で小突く。
「残念だったな。用がないのなら」
と、その男が言いかけたとき、天幕の向こうから出て来た兵が急かした。
「残りの村の者たちを入れろ。殿がお目通りしてくださる」
そこにいた者たちが頭を下げて役人の前を通っていく。
須和もそれに紛れて通ってしまった。
天幕の向こうに行くと、幾つかの村の代表者がひと塊になっている。
奥の方に、大将の徳川家康らしき緋色の陣羽織を着た男が左右に武将を侍らせて床几に座っていた。
中肉中背、顔も美男でなくブ男でもない。目が大きい。色は白いほうか。声はよく通る。
そんな印象だった。
向かって左にいる武将が村の名を上げて、そこの人びとが前に出てひれ伏すと、大将がねぎらっている。
須和は村人たちの一番後ろにいた。そこの村が大将から声を掛けられて平伏し、頭を上げたとき、声を張り上げた。
「お願いの儀がございます」
「あ、これはうちの村のもんではありません」
後ろを振り向いた老人が叫んだ。
「女を残して、他の者は立ち去れ。ご苦労であった」
家康が言うと、兵に急かされ、村人たちがそそくさと退出する。
その場には、須和と息子の五兵衛だけが残された。
「女、どこの者だ」
家康の右側の武将がぴりりと言った。若い。二十歳くらいだろうか。なんとなく家康と顔かたちが似ていた。しかし、敵意が露わだ。
「忠利、噛みつくな。怯えるだろう」
「殿は、おなごに甘いのう」
制した家康を左側の壮年の武将がからかう。
(主従の関係が近いな。これが徳川家中か)
主従でありながら遠慮のないやり取りを見て、須和は驚いた。古くからの名族である武田家ではありえない。御裏様の屋敷で見た譜代の家臣は、みな立場をわきまえていた。
うぉほん、と壮年の武士が咳払いして問う。
「そのほう、どこの者だ」
「はい」
と、須和は京言葉に切り替えた。貴人には、土地の言葉より通じると思ったのだ。
「今川の臣で、のちに一条信龍様に仕えた神尾孫左衛門忠重が後家の須和と申します。これは、一子・五兵衛」
と母子揃って、平伏した。
「して、用向きは」
武士が重ねて問う。
「どうか」
と、須和は頭を上げて家康の膝の辺りを見た。
「徳川様には、雑兵の乱捕りを止めさせていただきとうございます。あれは地元の者に害が大きいだけで、苦しみを与えるばかりのものでございますゆえ」
本当は成瀬様に会って、五兵衛のことを頼むはずであった。けれども思いがけず、その主君の徳川家康にまみえることができ、須和の冷静な思考は飛んでしまい、常日頃思っていることを口にしてしまった。
「ああ、それなら」
と、忠利と呼ばれた若い武士が言った。
「我らはせぬぞ。殿と同盟を結んでおられる織田様が乱捕りをお嫌いでな。我らも同じくしておる」
一瞬、耳を疑った。雑兵たちの稼ぎは乱捕りという、人取りと略奪だった。それを禁じられて、雑兵らは戦でまともに働くだろうか。
「なんと……ご無礼を申し上げました」
須和は深々と頭を下げた。
ともあれ、乱捕りがないのなら、少しは安心だ。
「神尾というは、『吾妻鑑』に出てくる神尾か」
突然、家康が須和に声を掛けた。
「いえ、残念ながら。『吾妻鑑』を読んだことはござりませんが、鎌倉殿にお仕えした一族とは別の神尾と聞き及んでおります。元は加納といい、京の加茂神社に奉仕した者でありましたが、一家の者が勘勅を蒙り、駿河に流されてのちに許され、そのときに神尾と名乗りを変えたとか、聞き及んでおります」
「さようか。そなた、後家と申したが、生家はどこだ」
「はい。飯田氏でございます。武田の臣・飯田久左衛門直政を父とし、亡き信玄公の御幼少のみぎり武術指南をした飯田但馬守虎春は高祖父でございます」
これは武士の名乗りと同じじゃな、と思いながら須和は語った。
「ほう。信玄公の武術指南とな」
家康の声が真剣味を帯びた。
「して、そのほう。京ことばは、どこで習った」
「娘時分に。信玄公のご正室、三条の御方様のお屋敷で奉公しておりました」
「なるほど」
と、家康が身を乗り出した。
どうしたのか、何が引っ掛かったのか、と内心戸惑っていると、壮年の武士が言う。
「殿、そろそろ出立の時刻でございます」
「そうか。須和とやら、飯田の屋敷まで誰かに送らせよう。忠利、後方に連れていけ」
そこで会見は終わった。須和は若い侍に連れられ、その後ろを歩いて峠を少し下り、隊列の最後尾・小荷駄隊のところまでやってきた。
「姉様……姉様でないか。どうしてこんなとこにおらっせる」
と、荷を背にした馬たちの間から、たっつけ袴の男が走り出て来た。
「おう、松木五兵衛。知り合いか」
「はっ」
と五兵衛は若い武士の前で片膝をついた。
「実家の兄嫁でございます」
「姓が違うが」
「わしは養子に出とりますゆえ」
「そうか」
と、武士は相好を崩した。そして態度を和らげる。
「妙な女だと警戒したが、松木の縁者であったか。それをはよ言え。小荷駄隊奉行の榊原様に話をつけてくる。あとはその下知に従えよ」
若い武士はそう言って須和たちを残し、去って行った。
「あの御方は」
「酒井忠利様。徳川様のご親戚じゃ。それにしても、五年ぶりかのう」
「はい。いつぞやはお世話になりまして」
松木五兵衛は目じりに皴ができ、口ひげをはやしたことぐらいで、他は変わっていないようだった。
「松木様のご家族やお義母様、加代様にもお変わりはありませんか」
須和が神尾の親族について訊くと、あれから静を引き取って一緒に暮らしており、松木五兵衛に男児が生まれ、加代のところにも子どもが二人生まれていて、みな息災だと言う。
「おまんが五兵衛か。大きゅうなったの」
須和の横で不思議そうに大人たちを見上げていた小さな五兵衛に、松木五兵衛は目を向けた。
「おなじなまえ……」
「そう、おじさまですよ。幼い頃会っているけど、覚えていないかの」
見上げる子どもに、須和は語りかけた。
「覚えておらんじゃろなあ。こーんなに小さかったからのう。それが今では、こんなに大きゅうなって、姉様によう似て」
目を細めて答えた松木五兵衛は、後ろにいた従者へ、馬と握り飯を持ってくるように伝えた。
「それにしても、姉様はどうしてここに。甲府にいるものとばかり思うておった」
問われて、須和はここまでやってきた経緯を話した。
「直訴とは、なんとまあ、危ないことを。斬られんで良かった。それに成瀬様は徳川様と一緒ではなく、甲斐のことをよく知っておられるとのことで、織田軍と共に木曽口から討ち入っておられる。秘密のこととて、警戒されてよけい危なかったなあ」
「そうだったの」
気が張っていたから、言上しているときは何とも思わなかったのだが。
「松木様は何故、徳川様とご一緒に」
御用商人として仕えていた穴山信君公が徳川の味方に付いたので、荷駄の御用を承ったのだと言う。松木の他八名が戦場での商いの許可を得たとも。
「穴山様は、もと河内の領主だったし、母御が信玄公の妹君であるから、勝頼公が武田の跡取りとされたのが気に入らんのじゃろう。もっとも本来の跡継ぎは、その御子の信勝公で、勝頼公は繋ぎのご当主とのことだ」
それは知らない。甲府の片隅で野良仕事や馬の世話に明け暮れる女には、世の中の動きなど別世界のことのようだった。だが戦となれば、そうも言っておられない。
徳川軍の戦意の高さと余裕を見れば分かる。武田は確実に負けるだろう。これまで信玄公のお陰で平和だった甲斐が蹂躙される。
それは嫌でも理解できた。
こんなことを話しているうちに、松木家の従者が馬と握り飯を持ってきた。
松木五兵衛は、甥の五兵衛を馬の背に乗せ、竹の皮に包まれた握り飯を持たせた。
「腹が減っただろう。食ってええぞ」
お礼を言って子どもの五兵衛が食べ始めると、初老の武士がやってきた。
書状を寄越し、「縁者だとか。それを持って石和の飯田家へ送ってゆけ」と松木五兵衛に命じて去って行った。
総本家か、と須和は嫌だなと思ったが、徳川様の言うことに従うほかない。
やがて、荷駄隊もゆるりと動き出した。
松木五兵衛が子どもの乗った馬の口取りをし、その横を須和が歩く。荷駄隊は兵站部隊なので、戦闘には直接関わらない。ここまで敵兵が来るのは、相当な乱戦となったときだろう。それは少なくとも、今ではない。
「先ほど、酒井様……とおっしゃる若い方が『織田様がお嫌いなので、我らも乱捕りはせぬ』と。素晴らしいことです。織田様は、どんな御方なのですか。さぞ民にお優しいご領主様なのでしょうね」
訊かれて、松木五兵衛は「うーん」と考え込んだ。
「おっそろしい御方かな。『第六天の魔王』と言う者もおるし」
最初に出て来たのが、そんな言葉だった。
乱捕りを止めるなんて、優しくて良い領主だと思って感心していたら、正反対とは意外なことだ。