表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/67

関東移封

 天正十八年(一五九〇)四月三日に小田原城が包囲され、二十一日に三浦半島の付け根あたりにある玉縄城の北条氏勝が降伏した。この時点で秀吉から伊豆をもらい受ける許可を得ていたのか、家康は四月二十三日に伊豆経営に着手している。その前日の二十二日に落城した遠山氏の居城・江戸城を受け取っているが、まだ関東に徳川氏が移封されるとは決まっていなかった。

 小田原落城前には「織田信雄と徳川が結託して関白を討つ」とか、さまざまな噂が流れたのでそれぞれの思惑が交錯し、関白秀吉が十四、五騎ばかりを連れているだけなのを見て、好機と捉えた井伊直政が、

「今こそ秀吉を討つべき時でありましょう」

 と、家康にささやいたが、

「秀吉はこのたび、わしを信頼して来たのに、籠の中の鳥を殺すような惨いことはできない」

 と、言って止めた。

 また流言で、「北条が滅びた後は、徳川家の旧地から、奥州五四郡に移し替えられる」というものもあった。

 これを聞いた井伊と本多の人びとが動揺する。

 それに対して家康は、

「もし、わしの旧領に一百万石も加増があれば、新領は奥州でもよい。年貢高の良し悪しに構わず、兵を多く召し抱えて、三万を国に残し、五万を率いて上方に攻め上れば、私の軍勢の旗先をさえぎりことが出来る者は、今の天下にはおるまい」

 と、家臣たちの動揺を抑えた。

 六月二十六日に、石垣山の一夜城から小田原城を望み、秀吉が家康に尋ねた。

「小田原城が明け渡されれば、そのまま居城に用いるつもりか」と。

 このときにはすでに、関東に国替えのことが決まっていたようだ。

「当分、それより他はあるまい」と、家康が答えると、秀吉は、「小田原城は境い目の城として家臣に預け、本城は江戸にしたほうがよい」と勧めた。

「奥州へ進軍する途中、江戸の様子をこの目で見て、相談しよまいか」

 と言うことで、小田原城が落ちて、北条氏の始末をつけると、関白秀吉は軍勢を率いて宇都宮へ向かった。

 その途上、江戸城を実見し、使者を送って「この城は、四方無障、天下無双」と言ってきた。

 江戸は水陸両方の交通の要衝だったからだ。



(『江戸』と言ったのは、好意なんだろうな。でも、悪意がどっぷりある中で言われてもなあ)

 家族に対する情愛の深さ、世話好き。一方での計算高さ、狡猾。それらが陽気に同居しているのが、関白秀吉なのだ、と阿茶はこのところ理解できてきた。

(越中の佐々成政さまは、一度は秀吉に刃向かったが許され、九州征伐で功を挙げたことで肥後一国を与えられたが性急な検地で国一揆が起こり、その責任を取って切腹された。同様のことを関白は期待していると、皆が言っている。生まれ育った三河や駿河から離して、徳川を弱らせるつもりなのじゃろうが、殿は当然、その意図をご存知であろうな)



 北条氏の降伏後、七月十三日に小田原城で論功行賞が行われ、徳川家康には北条氏の旧領関八州が与えられた。およそ百万石の加増である。とはいえ、安房の里見氏、上野に佐野氏、常陸に佐竹氏、下野に宇都宮氏・那須氏がいて、実際には四か国の領有であった。

 関八州のかわりに旧領の駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五ヵ国は取り上げられ、尾張・伊勢の領主だった織田信雄に与えられることになった。けれども信雄は国替えを拒絶したため、秀吉の怒りに触れ、追放された。徳川旧領の五ヵ国は秀吉の子飼いの部将に与えられた。

 尾張に秀吉の甥の秀次を置き、岡崎に田中吉政、酒井忠次のいた吉田には池田輝政、遠江の浜松に堀尾吉晴、久野に松下之綱、掛川に山内一豊、横須賀に渡瀬繁詮、駿河には中村一氏が入った。みな秀次の与力格の大名である。

 彼らは城を天守にあるものに作り替え、町を整備し、道を整え、継飛脚を常備した。



 論功行賞の前日、家康は江戸の水が海水まじりで飲むのに適さないとして、家臣の大久保主水忠行に命じて、武蔵吉祥寺の池水を上水道とする工事を始めさせた。

 かつてこのあたりは江戸氏が領した土地だった。しかし江戸氏は鎌倉期の終わりに勢力が衰え、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌がここに城を築いた。扇谷上杉氏を追い払った北条氏は江戸城に遠山氏を城代として置いていた。そこを今度は徳川氏が本拠とするのだ。

 この江戸城の東側は、満潮になれば潮がさすような葦原で、西南には広々とした武蔵野があり、城下には茅葺きの民家が百軒ほどあるだけであった。

 城内は三つの曲輪くるわ[塀や石垣などで囲まれた区画]があるのみの古い造りで、周囲に堀をめぐらして城の体裁を整えていたが、土塁をかきあげ、石垣は使われていなかった。建物も屋根が板葺きの古屋で、玄関には階として舟板が三枚並べてある粗末なもので、戦の際の火事を防ぐため、屋根の上に防火のための土砂が盛られていたため、それが雨によって葺いた板の間から泥水が部屋の中に落ち、屋内の敷物が朽ちていた。

 七月の後半、移封の準備をし、八千人ばかりを連れて小田原を二十九日に発った家康は、八月一日に江戸城へ入った。しかしこの惨状に本多正信が、

「あまりにも見苦しい。他はそのままになさるとも、玄関は御造営なさるべきです」

 と進言したが、家康は「無駄に立派なことを言う」と笑って、家臣たちの家を造ることを優先させた。



「次のものが控えているので、お早くお移り願いたい」

 という豊臣方の要請で阿茶が白須局たち配下の侍女たちと荷駄隊と共に箱根の坂を越えたのは、殿が江戸城に入った当日のことである。一日遅れで神尾家の者たちが、数日遅れで西郡の方さま、伝通院さまの一行、そして家臣の家族や使用人たちが家財と共に同じ道を歩んでくるだろう。

 山を下ると前が開け、広い平野が目に入った。空も曇ってはいたが、今まで見たこともないほどだだっ広い。連なる山々が彼方にかすんでいる。いや、尾張国に行ったときもこのようだっただろうか。

 駕籠の戸を少し開けて見る景色は甲斐国の山あいで育った阿茶にとって珍しいものばかりだ。しかし、田畑が荒れているのが気になった。

(このたびの戦で、北条領の民たちは田つくりどころではなかっただろう。麦を植えることもかなわず、今年の収穫は無いも同然。収穫がなければ、何万石の加増といわれようが、ただの数字にすぎぬ。殿の日頃の貯えがあるとはいえ、勘定方は頭を抱えていような。一方で、無傷の徳川領国に入る豊臣の家臣たちは収穫した米を受け取ることができる。――考えたものよ、あのハゲネズミ関白)

 と、阿茶は心の中で罵った。

『はげねずみ』とは、長浜城主だった頃の秀吉のあまりの浮気のひどさに、今の北政所さまがたくさんの手土産と共に安土城に参上し、主君・織田信長に訴えたところ、慰めと諭しの書面を下され、そこに記してあった秀吉をさす言葉だ。京に行ったとき、集めた噂話の一つである。

(甲斐と駿河の金山を取り上げられたのも痛かったな)

 当座の収入がないのは、勘定方の役人たちだけでなく、家政を取り仕切る立場にいる阿茶にとっても頭の痛い問題だ。

 そんなことを考えている内に江戸城へ着き、駕籠を降りて門内へ入れば、於茶阿局と大姥局さまたちが出迎えてくれた。小田原の陣からそのまま殿に従って一足先に来ていたのだ。

「阿茶局さま、遠路お疲れでございましょう」

 この中で、側室の於茶阿局より若君の乳母の大姥局さまの方が、身分が上だ。

「大姥局さま。出迎え、ありがたく存じます。皆さまの荷物も持って参りました。荷解きはどこでいたしましょう」

 と、答えながら周囲を見回す。ずいぶん煤けた城だ。

「城内に遠山さまの古い侍屋敷が残っていて、今はそこにおります。松平家忠さまが縄張りをなさって、御大工頭の木原吉次が普請を始めています。雨漏りの手当は終わったようです。落ち着いて暮らせるようになるに、しばらくの辛抱でございますよ」

「しかし何とも――あばらな、いえ、古風な城ですね」

「これほど古びてはおりませんが、どことなく岡崎城に似ておりますでしょ?」

 ほっほっ、と大姥局が笑う。

「確かに。わたくしたちが今のところできるのは、質素倹約とお掃除だけですか」

「関八州の大大名となっても、以前とすることは変わりありませんねえ」

 阿茶と大姥局が笑い合っていると、岡崎城に行ったことがなく、浜松城と駿府城の暮らししか知らない於茶阿局がけげんな顔をした。

 それから控えていた小者たちへ命じて、馬や荷車に乗せてあった荷物を侍屋敷に運び込む。

卒爾そつじながら。阿茶局さま、殿がお呼びでございます」

 と、小姓がやってきて言う。

「参ります」

 阿茶は後のことを大姥局さまに頼み、幸を連れて小姓の案内に従った。

(潮の香りが強いな。海が迫っている。浜松城と駿府城も海が近かったが、これほどではない。魚が釣れそうではないか)

 曲輪の中に入ると、古屋の解体が始まっていた。その埃っぽい中を、袖口で口元を覆いながら、旅装束のまま、阿茶は二の曲輪――本丸と思しき場所まで緩やかな坂道を上って行った。

「阿茶、来たか」

 陣羽織姿の殿が作事を担当する松平家忠さまと共にいた。説明を受けていたようだ。

「はい、つつがなく」

 立ち止まって一礼した阿茶にじれたのか、殿が道を下がって来た。

「こっちじゃ。見せたいものがある」

 近寄ると突然、阿茶の左手を取って歩き出した。

「あ、あの。殿?」

 触れられるのは、久しぶりのことだった。たこのできたがっしりした殿の手の感触に、側室として傍にいた頃のことを思い出す。

「ちょうど良い。雲が切れた」

 殿が立ち止まって彼方を指した。

 そこへ視線を移せば、雲間から富士山の優美な姿が見える。

「富士の御山が……」

「ここに最初に城を築いた太田道灌が、『我がいおは松原つづき海近く富士の高嶺を軒端のきばにぞ見る』と詠ったように、富士がよう見える。阿茶も好きであろう? 鍛錬のとき、富士の御山の方に向かって祈っておるからな。わしも幼い頃から見続けた富士の御山が大好きじゃ」

 富士山を見て喜んでいる殿を前にして、阿茶は胸が熱くなった。

 これがどういう感情か分からないが。

「ほんに。富士の御山がよう見えて、阿茶も嬉しゅうございます。守られているような気がいたしますゆえ」

「そうであろう」

 殿が機嫌よくうなずいている。

「家忠、富士の御山がよく見える場所も作ってくれ」

 殿が注文をつけているのを横で聞きながら、阿茶はほわほわと良い心持ちでいた。


 城内の堀を埋め、家臣たちの知行割を急ぎ、榊原康政を総責任者にして、青山忠成と伊奈忠政の二人が奉行となって、微禄の者ほど城近くに知行地を拝領し、「往来するのに一晩かかるほどの地は、微禄の者には与えるな」と家康は命じた。また一城の主となる者は自身で沙汰を下した。

 知行割が終わったあと、「今回与えたおのおのの知行地に、手軽く陣屋を造って妻子を置き、単身江戸城に出仕するように」と家康は命じた。

 関東に入国した当初、家臣たちを近くの民家や寺に仮住まいさせたり、小屋のような陣屋を建てて、そこに住まわせたりした。

 この移住は九月には終え、使者を大坂に遣わして「五ヵ国をお渡しする」と伝えたら、関白秀吉は「非常に迅速である」と、大変驚いたのだった。


 知行割は徳川の直轄地を江戸周辺に集中させ、旗本たちを城下に、一万石未満の者を江戸から一夜泊まりの場所に据え、一万石以上の者たちを徳川氏に対抗する力を持つ安房の里見氏、上野の佐野氏、下野の宇都宮氏・那須氏、甲斐・信濃に封ぜられた豊臣の家臣たちに対峙させる位置に置いた。

 大身の者の知行割については、秀吉の意向も反映された。

 移封前に関白から、「今回の転封によって、井伊(直政)、本多(忠勝)、榊原(康政)の三人には特に加増すべきだが、おのおの如何ほど与えられるか」と尋ねられ、「六万石ずつ与えようと思います」と家康が答えたところ、「それではあまりにも少ない。十万石ずつ与えよ」と指示されたので、その通りにした。

 井伊直政には上野国箕輪十二万石、本多忠勝に上総国大多喜十万石、榊原康政に十万石が与えられた。他に、北条氏の本拠地だった小田原には重臣の大久保忠世が四万石をもらい、秀吉の養子だった次男の秀康は結城家に乞われて婿に入って結城秀康と名乗り、十万石をもらって徳川の大名となった。

 そして百万石余りといわれた徳川直轄領には、大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官として置き、統治した。

 一方、徳川の与力大名だった諸家は、小諸の依田氏が上野国藤岡へ、松本の小笠原氏は下総国古河へ、諏訪の諏訪氏は武蔵国奈良梨へと移され、依田が三万石、小笠原が三万石、諏訪が一万石ほどと、所領高を大幅に減らされた。しかし真田氏のみは、本領安堵され、引き続き上田に留まり、上州沼田領は父・昌幸とは独立した形で長男の信幸が領し、真田氏は豊臣秀吉の直臣となったのだった。



*****



 江戸城の修築は城内の空堀を埋め、局沢つぼねさわ[吹上御苑あたり]、芝崎[神田橋門内]にあった寺を移転させ、城の敷地を広げることから始まった。さらに江戸前島の付け根部分を横断するように船入り堀を掘らせた。これは平川の河口から江戸城に通じており、資材や生活物資を運ぶ水路だった。のちに「道三堀」と呼ばれる。同時に町割に着手し、三河と駿河から連れてきた職人たちが住まわせ、また町年寄を定めた。

 江戸の城と街を造る一方、三浦半島の三崎に小浜氏・向井氏などを在番させ、海上往来の監察にあたらせた。また、伊豆下田に田原戸田氏の庶流・戸田忠次を配して、徳川の海賊衆に船荷の検査も実地させた。



 江戸城とその街造りは上方の伏見城築城の手伝いのため、一時中断する。再開されるのは関ヶ原合戦後の慶長八年(一六〇三)のことで、家康は諸大名、ことに西国の大名に対して「御手伝い普請」[天下普請]を命じた。

 江戸城北の神田山を切り崩し、日比谷入江[日比谷公園、霞が関、新橋あたり]を埋め立て、広大な市街地を造成した。

 慶長十一年(一六〇六)の工事では、藤堂高虎が縄張りをし、細川忠興、前田利光、池田輝政、黒田長政など三十二家の大名が動員され、六月に本丸、二の丸、三の丸をはじめ、天守台石垣が完成する。

 こうした江戸の城と街づくりは家康入府以来五十年、徳川三代にわたって続けられ、寛永年間の末にほぼ完了することになる。





引用文献:太田道灌の和歌 『江戸城の見取り図』中江克己著、青春出版社 P18

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ