若君の元服と結婚 3
京に着いた翌日の十四日、長岡忠興さまが徳川屋敷を訪れ、若君に礼法を教えてくださった。また、武家伝奏[朝廷における取次役]を勤めておられる権大納言の勧修寺晴豊さまが祝いの品として小袖を一領持参された。
長岡忠興さまには束脩[授業料」を、勧修寺さまには元服が終わったのちに返礼品をお届けする予定だ。
十五日、元服は聚楽第の本丸御殿にて行われるのだが、その前に北政所さまのお屋敷・御亭に入り、装束を調えるということで、若君はそこへ徒歩で赴かれた。お付きは井伊さま、酒井忠世さま、守り役の内藤さまと青山さまを中心に数名の小姓たち、侍女団は阿茶と大姥局さま、笹尾局と武芸のできる侍女五人、加えて八束局とその配下の侍女である。
案内役の侍によって一行は聚楽第の内郭に入り、女童の先導で御亭の広間へ通された。
上座に立膝坐りをしていた女人がいる。その人が立ち上がり、若君を先頭にして座った一同に近寄って来た。
「よう来やァたなあ。どえりゃーかわいい御子や」
と、にこにこして長丸君を立たせた。
歳はいっているが色白で肉おきの豊かな美人である。貴人らしく金糸銀糸を使った派手な色合いの打掛を着ていたが、それと尾張訛りの言葉遣いがまるで合っていない。
「北政所さま、はしたのうございますぞ」
上座の左側に坐っていた四十過ぎと見受けられる侍女がたしなめる。一方、右側に坐っていた白装の尼君は微笑んでいる。
(左が東の局。北政所さまの生母の縁者で、関白が目をかけている越前敦賀城主・大谷吉継さまの母。右が孝蔵主。関白が長浜城主だったときから仕えている尼僧じゃな)
本多正信さまから伝えられた知識と現実を阿茶はすり合わせた。二人は北政所さまの最側近たちだ。取次はどちらかを通さねばならない。
「東、気取ってもしゃあない。私が組頭の娘から関白の妻に成り上がったことは、誰もが知っとることじゃ。お上から従一位の位をもろうても、私が私であることに何の変わりないことじゃもの」
いいな、この方は。
と、阿茶はこのひと言でいっぺんに北政所さまが好きになってしまった。
加代さまが心酔するはずだ、と思う。
本多正信さまの話では――
北政所さまは天文十八年(一五四九)くらいのお生まれで、関白さまとは十二歳ほど年下。殿とは七歳ほど年下なので、ほぼ同世代と言える。十三歳で木下藤吉郎と名乗っていた関白さまと生母の反対を押し切り、二人の仲を認めてくれた叔母・ふく(七曲殿)とその夫で足軽組頭だった浅野長勝の養女となって結婚した。天正二年(一五七四)、夫の羽柴秀吉が近江国長浜十二万石を賜ると、そこで城主夫人となった。中国攻略で姫路にいた夫の留守を守り、新しく作った長浜城下に「移住してきた者には年貢・諸役を免除する」という触れを秀吉が出していたところ、あまりにも移住する者が多く、村が荒廃することを恐れた秀吉がいったんはそれを禁止したものの、妻の反対にあって、それを取り下げている。大坂城が出来るとそこへ移り、夫が関白になれば、関白の正室の名称・北政所と呼ばれるようになり、公的には「吉子」と称される。
夫との間に子ができなかったので、親類の子を預かって育て、その子らは今では加藤清正、福島正則といった大名となっている。正室として女房衆をたばね、養子・養女を育て、朝廷への挨拶・贈答品の持参などでたびたび内裏を訪れ、私心なく人を見る目があるので、夫の秀吉から相談を受けることも多い。
豊臣家は夫婦二人で作った家であるといえる。
天正十七年(一五八九)五月に御産所として造った淀城で側室の浅井氏が男児を産み、鶴松と名づけられた。その子が生母と共に大坂城へ移り住み、対面ののち、北政所さまは大坂城から京の聚楽第へ居を移し、人質たちの監督を行っているが、実子がなく別居していても正室としての地位に揺るぎはない。
(生まれは下級武士の家だが、今川氏の寿佳尼さまのような才ある女性だな。この方との縁を大切につながねば)
その絶好の機会だ。
「きれいに着つけたるけど、京風にちいーと直そうな」
北政所さまは長丸君が身につけた直垂の襟元と肩、袖の具合と帯の位置を直した。
「誰ぞ、櫛をもて」
北政所さまがひと声かけると、一人の侍女が近寄り、蒔絵の櫛を差し出した。
「恐れながら」
と、そのとき阿茶が側近の孝蔵主に向かって声を上げる。
「後学のため、近くで拝見いたしたいと存じます」
「主さま、いかに?」
尼君が北政所さまへ問いかけた。
「ええよー。ええに決まっとるがね。位っちゅうのは面倒だね。直接、話もできんとは。あんたさん、名は? 直答を許すで」
「阿茶局と申します」
「ああ、この御子の養母とならした方かね。かかさまなら、そりゃあ子のことは知っときたいわな」
(何故、私が養母と知っている?)
八束局をちらりと見たが、小さく頭を振った。
(気さくな方だが、さすがにあの秀吉の妻。油断は禁物ということか)
阿茶が長丸君の養母となったことは、駿府城の奥にいる女たちと側近の家臣たちにしかまだ知らされていない。それを京にいる八束局が知ることはなく、なのに北政所が知っている。それが意味するのは、豊臣方が徳川の奥向き近くに細作を入れているということだ。
おもしろい。
阿茶の顔に笑みが浮かんだ。
(男は男の戦を。女は女の戦を、いたしましょうか)
「では、お言葉に甘えまして」
阿茶は立ち上がって近寄り、北政所さまの手元を覗き込んだ。
北政所さまは懇切丁寧に京風の髪の結い方を教えてくれた。
その後、本丸御殿には井伊さまたちだけが赴き、阿茶をはじめとする女たちが残された。
「元服は見れんでも、仮祝言は見えるよう、したるでね。嫁になるのは小姫といって織田の茶筅[信雄]さまの娘で、私らが養女として三歳から育てた子でね。今年六歳。そりゃあ、かわいいのだわ。私も楽しみにしとるで」
北政所さまは仮祝言を遠くからでも見えるよう取り計らうと約束してくださった。
阿茶は礼を言い、大姥局さまと笹尾局と侍女たちと共に、井伊さまたちが戻って来るのをそこで待ち、元服式を終えた一行がやってくると共に徳川屋敷へ戻ったのだった。
屋敷の若君の部屋に落ち着くと、大姥局さまが上座に坐る若君をしみじみ眺めて息を吐く。
「ご立派になられて」
と、涙ぐんでいる。
阿茶も同感だった。
(お愛の方さまにも、このお姿を見せて差し上げたかった……)
人質でなかったら、どんなに良かったか、と思ったのだが、守り役の内藤さまが意外なことを告げる。
「若君元服のおり、関白殿下が『大納言(家康)には良き子を持たれ。年のほどよりもおとなしく、さぞよろこばるべし。田舎風をかえて都ぶりに改め、返すなり。大納言にもさぞ待ちかねらるべきに、急ぎ帰国あるべし』と仰せられ、帰ることをお許しになりました。ただ、小姫さまとの仮祝言があります。それを終えたらすぐに駿府へ戻ることになります」
「まあ、それはよろしかったこと」
どうして気が変わったのか。
皆と喜びながら、阿茶は思った。関白は人質として留めておくより、徳川に恩を売った方が得策だと考えたのか。
(あの世の御方さまが御守りくださるのですわ)
阿茶はそう思うことにした。
長丸君が元服の際は、大政所さまが若君の髪を結い改め、『義理とはいえ、朝日の子の元服じゃものなあ』とつぶやいて涙ぐんでいたとのこと。
関白秀吉の名から一字をとって、「秀忠」と諱をつけ、近臣の井伊さま、内藤さま、青山さま、酒井さまなどにも衣を授けられたという。
「手厚く遇せられ、ありがたいことでございます」
「それよ、阿茶局どの」
井伊さまがすかさず注意をうながす。
「ああ、これが『関白の人たらし』」
なるほど、と納得した。知らないうちに術中にはまるところだった。
「修理大夫は、そう言うが」
と、秀忠さまが口を開いた。
「関白殿下は肩を抱き、頭をなでてくださって、陽気な方だった。大政所さまも、私におばあさまがいて接してくださったのなら、あのような感じだったろうと思えた。北政所さまについては、もう一人の母のような慈愛を感じた。事情が変われば、我が家の敵になる方々かもしれない。しかし、今日の印象もまた事実だ」
「左様でございますね」
阿茶がその言葉を受けた。
「これまでは、味方と思った家が敵になり、敵であった家が味方となるような乱世でございました。関白殿下はそれを禁裏さまの御威光をもって正そうとなされておられます。どう転ぶか分からぬのがこの世でございます。しかし今、豊家は我が徳川の敵ではございませぬ。疑えばきりがなく、油断してはなりませぬが、礼には礼をもって返すのが世の道理であります。このたびのこと、父君から御礼をされましょうが、若さまからも北政所さまへ季節の消息と贈り物などされると良いかと、阿茶は思います」
「礼には、礼を。……確かにな」
と、つぶやく井伊さま。
「若君の思う通りになされませ。ただし、父君にご相談なされてからでございますよ」
大姥局さまも口添えた。
「わかった」
秀忠さまが、にこりとする。
(豊臣家は、夫婦そろって人たらしだなあ)
どうやら関白一家に好意をもってしまったらしい若君を見て、阿茶はすごいと感じた。と同時に、若君が祖母である伝通院さまとはめったに会うことはなく、殿に頭をなでられたこともないことに気づいた。
元服式の翌日、若君は御礼のために勧修寺さまのお屋敷に赴き、十九日に徳川家から返礼に綿五十把が贈られた。
そして二十一日に聚楽城外郭の内にある浅野長吉邸で仮祝言が行われた。
浅野家は北政所さまの養家で実家、また、当主の浅野長吉さまは殿が在京中、碁を打つほど親しい間柄だ。
浅野長吉(長政)は尾張国春日井郡の宮後城主・安井重継の子で六歳のとき織田家の弓衆で母方の叔父の浅野長勝に引き取られた。叔父の後妻の七曲殿の妹・朝日と婿の杉原定利(旧姓・木下)の娘で養女のややの婿とするための養子だった。ややの姉がのちの北政所こと寧々である。また、実父の妹は尾張の国衆・蜂須賀正利の妻となっている。正利は蜂須賀正勝(小六)の父、という縁戚関係だった。
妻・ややの姉の寧々が浅野家の養女となり、木下藤吉郎(秀吉)と結婚するにあたって、浅野長吉は信長の命で秀吉の与力となった。信長の死後は秀吉に仕え、戦功を挙げ、また行政手腕もあったので、京都奉行に任ぜられ、検地にも深く関わっている。
(豊臣、徳川双方に縁があるので、浅野さまのお屋敷が婚儀の場所に選ばれたのだな)
阿茶はそう感じた。
婚礼の出席者は男性ばかりだ。介添えの女房が婿君と嫁君の横にいて、いろいろと世話を焼いている。
その様子を離れたところから御簾越しで、北政所さまに従い、阿茶と大姥局は見せてもらった。
徳川方の者でなく、北政所の侍女という仮の形であるので、阿茶は大姥局さまとは会話ができない。感激の涙で目を潤し、二人で眼差しを交わした。
(嫁御の姫さまのほんにおかわいらしいこと。雛人形のような婿君と嫁君じゃなあ。織田さまとなら、良いご縁じゃ。ああ、御方さまにこの婚礼を見せて差し上げたかった……)
それは何度、思ったかしれない。
徳川方は井伊さまを始めとし、酒井さま、内藤さま、青山さまが正装姿で並んでいる。
豊臣方は関白秀吉。相伴に右大臣の菊亭晴季、大納言の勧修寺晴豊、大納言の中山親綱、大納言の日野輝資、参議の高倉永孝、参議・前田利家、栄覧・久夢法印という華麗な顔ぶれである。
婿と嫁が幼いので、形ばかりの三献の儀が行われた。それが終わると、関白秀吉が声を上げる。
「やあやあ、めでたや」
小柄な身体から、どうしてそれほど大きな声が出るか、と阿茶が思うほどだった。
「ととさま、ねむい」
小姫が両手を上げて、だっこをせがむ。
「そうか、そうか。ねむうなったか」
優しい声で関白が答え、小姫を抱き上げた。
「小姫は部屋に引き取ろうな」
そう言って、傍らにいた侍女に姫を渡した。
折を見て、井伊さまが関白に御礼を申し上げる。
鷹揚に応じた関白は秀忠さまの退出も許した。それで、二人の守り役が若君を控えの間へお連れした。
「あとは御膳と能じゃ。私らも抜けようぞ」
北政所さまが身体をゆすって笑い、立ち上がった。
阿茶たちもそれに従った。
徳川屋敷へ戻り、あとは帰る準備をするだけ、とひと息ついた阿茶たちの許へ、八束局が報せを持ってきた。
正室の朝日姫さまが身まかったのだと。
この報せはすぐに井伊さまや守り役、留守居役の方々にも伝えられた。
本当は十四日に亡くなっていたのだが、死の穢れによる物忌みをさけるため、二十三日、つまり明後日に発表するのだという。徳川方に密かに漏らしたのは、葬儀について夫である殿に指示を仰ぐ必要があったから、と八束局は説明した。
穢れとは、神前に出るのがはばかれる出来事、死・出産・月の物などのことで、物忌みの期間が過ぎると元の状態に戻ると信じられていた。穢れに触れた者はそれが清められるまで神事や参内を慎み、歌舞音曲、慶事は停止、もしくは延期せねばならない。朝日姫の死が秘匿されたのは、長丸君の元服と小姫との結婚を実現しなくてはならない事情――小田原出陣前という事態が豊臣方にあった。
(若君元服の折の大政所さまの涙には、そういう訳があったのか。元服式の前にはもう亡くなられていたのだ)
阿茶は得心がいった。
徳川方では駿府に早馬を送り、その返事がきてすぐに本丸御殿から正室さまのご遺体を引き取って、死の発表があってから葬儀をし、京の東福寺に葬った。病がちになってから、朝日姫が臨済宗に帰依していたからだった。また、駿府の瑞龍寺にも墓が建立された。これは少し後のことだ。
(農婦から兄の出世によって富貴な身の上になられた方だが、はたして幸せであったかどうか)
数奇な運命をたどった女人に対し、阿茶は心から冥福を祈った。
そして一行は、二十五日に帰路についた。次は北条との戦である。




