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若君の元服と結婚 1

 奥向きの取り締まりは阿茶局が中心となることが決まった。殿付きの三島局さまとお愛の方さま付きだった倉見局さまは、八朔と登久姫さま、小松姫さまの輿入れが済むまで補佐をしてくれ、以後、お二人は出家して余生を過ごすとのことだ。八朔の贈答のときに徳川家親族の女性たちの許へ、贈り物とは別として西郡の方さまと阿茶局の連名で、それぞれの側近女房に宛て、担当が代わったことの挨拶状を添えるという方針に決まった。


 阿茶の暮らしの中心は、若君たちの部屋となった。若君たちの鍛錬や学びの様子、行儀作法を見守り、かぎ裂きなどの繕い物を見つければ、若君だけでなく側仕えの小姓たちをも捕まえて直し、空いた時間があれば、長丸君が元服の際、身に着けるであろう直垂を、殿と守り役たち、大姥局さまの意見を聞いて布地を選んで発注し、今は仕立てている。そして同時並行で家政を見ているので、殿の側に行くのは、一日に一回か二回。

 殿付きの侍女は、朝日姫さま付きの侍女たちが一緒に京へ帰ってしまったのでいない。だから気遣いのできる者を阿茶局が新しく選び直し、その中にお牟須も入れた。

 お牟須はろくが増えるので喜んでいた。息子の弥一郎が五歳となり、乳母も付いているのでもうだいぶ目を離しても大丈夫になっていた。「来年から手習いも始める予定で、出費が増えるのでありがたい」と言っていた。

 殿付きの侍女たちを取りまとめるのは、三島局さまがいる間は補佐として於茶阿局に頼んだ。性格的に合わない相手だったが、こういうとき頼りになる。

「ええ、おまかせくださいませ」

 笑顔で引き受けた於茶阿局だが、阿茶が八朔の贈答などで忙しくしている間に、殿とねんごろになってしまった。

 三島局さまから報告を受け、呼び出すと、晴れやかな顔で答える。

「お召しがありましたら、お断りなどできませんでしょう? 以前にも閨に侍っていたことがありますから、気安かったのでございましょうね」

 と、役女として阿茶の信頼を裏切ったことの罪悪感など、かけらもなかった。

(こういう女だったわよね)

 改めて、自分のうかつさを反省した。殿の側に侍るということは、側女そばめになる可能性が大きい、ということだ。

「わたくしたちは殿にお仕えしているのだと、くれぐれも肝に銘じてくださいませ」

「承知しておりますわ」

 自分の立身出世など考えるな、と言外に注意すると、軽く返された。

(殿は同時に何人も閨に呼ぶことをなさらないから、当分は於茶阿局だけであろう)

 それがいつまでかは分からないが。


 一月に家督を継いで小笠原家の当主となった秀政さまの許に、八月、登久さまが嫁いでいかれた。

 九月には、真田信幸さまの許へ小松姫さまが輿入れした。

 同じ九月に、私事だが義息子の守繫が嫁取りをした。お長屋でのささやかな婚儀に、神尾守世の代理で与一が出席した。後日、松木五兵衛に連れられて嫁御が阿茶の許へ挨拶に来た。平凡な顔立ちだが、しっかり者の印象を受けた。守繫より二つ年上だという。

「守繫の母と伯父の言いなりになっていると、破滅いたしますよ。よくよく考えて家政をなさい」

 と、助言したら、嫁御は真剣な表情でうなずいていた。



 公私ともに慶事が続いたが、世は不穏の度合いが増す。

 小松姫の婚礼に先立つ九月一日に、関白秀吉は諸国大名に対して、聚楽第まで妻を同道し、以後は在京させるように命じた。

 これは、北条氏に対する何事かが起こされる前兆だった。六月に臣従のための上洛の意向を示した北条家の実権を握る前当主・氏政は、夏を過ぎても京に上る様子がなかったからだ。

 戦をする前段階として、秀吉は諸大名の妻を人質としたのだった。ただ徳川家はすでに正室の朝日姫が上京して聚楽第内の徳川屋敷にいたため、当主が妻を連れて上洛することはなかった。



 これ以前に秀吉の裁定で、上野国の沼田城が北条氏に引き渡され、真田氏には信濃国伊那郡箕輪が与えられることになっていた。この取り決めは、家康が打診したことと同じだったが、秀吉は関白であり、天皇の権威を背にして決定事項としたのだった。

 沼田領について、秀吉は三分の二を真田から北条に割譲し、割譲分相当を家康から真田に渡すという案を示し、北条はしぶしぶその国分くにわけに従って七月に引き渡しが行われたのだが、北条側として納得したわけではなかった。そのため十月末、沼田城にいた北条家家臣の猪俣邦憲が秀吉の裁定を破って真田家の沼田領にある名胡桃なくるみ城[群馬県月夜野町]を奪い取るという事件を起こす。

 これを知った秀吉に対し、北条氏側は言い訳ばかりを述べて対処しようとしなかった。

 十一月に入って秀吉は関東の領主たちに、「十一月中に氏政の上洛がない場合、来春に北条討伐を行う」と通達した。

 そして二十四日、北条氏との手切れ書を北条氏のみならず諸大名に配布し、家康に対しては陣触れを出したことを伝え、戦の相談をするため上洛を要請してきた。

 こうなっては、と家康は関白秀吉と北条氏の仲介を断念した。



 北条氏へ嫁いだ督姫さまが二人の幼い姫君を連れて輿入れのとき従った者たちと共に駿府城へ戻って来たのは、関白秀吉の宣戦布告の翌日であった。

 出迎えた父君へ気丈に挨拶をした督姫さまは、奥へやってき、母君の西郡の方さまの顔を見たとたん、その場で泣き伏した。

(夫君で北条家当主の氏直さまとは仲睦まじかったとお聞きする。手切れとなって、戦で攻められる夫と攻める父の間で、おつらいことであろうな)

 周囲の侍女たちがもらい泣きし、阿茶も督姫さまの心中を思い、涙を流した。

 そこへ、殿からの使いの侍女がやってきた。

「阿茶局さま、殿がお呼びでございます」

「すぐに参ります」

 袖先で涙を拭った阿茶は、東雲を連れて殿の部屋へ向かった。

 そこへ着くと一礼してから中へ入り、上座の殿に挨拶をした。すでに人払いがされており、小姓たちはいない。ただ、謀臣の本多正信さまが殿の側らに坐っていた。

「阿茶よ、北条との戦がさけられぬこととなり、わしは十二月に入ってから上洛して関白殿下に会うことになった。そして一月には、長丸を人質として京へやることに決まった。そこで長丸は元服と婚礼を済ませる」

「御前さまだけでなく、北条との戦のため、若君をも人質として要求されたのですか?」

「人質のことは、前々から話があった。こちらから申し出ていた。関白がわしを疑っておらんといえども、周囲は違うからの。ただそれが今になっただけだ。万千代(井伊直政)などをつける。そなたは長丸につける侍女を選んでくれ」

「わたくしも、同道いたします」

「阿茶局さま、それは……」

 本多正信さまが止めようと言いかけたが、殿が制した。

「よかろう。無事に戻れ」

「承りました」

 阿茶はうやうやしく頭を下げた。

 その後、西郡の方さまの許へ使いを出して会見を願い、若君の上洛のことを話し、留守の間のことを頼んだ。

 阿茶は若君付きとして、幼い頃から親しんでいた、おふうこと笹尾局を指名して上臈とし、また自分の側仕えの三人の侍女を下臈女房としてつぼねを与え、配下の女たちをこれまで以上に自由に使えるようにした。以後、伊賀者の東雲は石津局いしづのつぼね、甲賀者の早霧は白須局しらすのつぼね、松木家の縁者で京言葉ができる牧尾は市島局いちしまのつぼねと呼ばれるようになった。

 十四歳になったさちは小間使いとして阿茶の身の回りのことができるようになっていた。一人前の侍女に育てるため、今回の上洛に連れて行くつもりだ。

 殿の身辺のことは、於茶阿局に頼んだ。

「憂いなく、出立なさいませ」

 にこり、とした於茶阿局に、阿茶は「よろしく」と言う他なかった。西郡の方さまの言葉には従うだろうと確信はしていたが、予想のつかないことをするので、いささか不安ではある。

 十二月十日に殿が上洛し、戦に同意する。徳川家は先鋒となることが決まり、歳暮の贈答と同時進行で戦いの準備が行われた。



 年が明けて天正十八年(一五九〇)正月三日、長丸君が駿府を出発した。供は、井伊直政、酒井忠世、内藤清成、青山忠成、そして小姓たち、その中に阿茶の息子・神尾守世と預かり子の土屋忠直もいた。付き従う小姓や供侍、侍女たちの顔はみな緊張している。

(戦にでも行く雰囲気じゃな)

 しかし、上役たちは平然としたものだった。

 井伊直政は徳川家の戦のとき常に先鋒を承り、赤の甲冑で揃えた武田氏の山県隊を主力とし、その「赤備あかそなえ」で有名だった。自分にも家臣にも厳しく「赤鬼」と呼ばれたが、以前、岡崎に大政所が来たとき、たいそう親切に接したので気に入られており、それゆえの人選であろうか、とも阿茶は思った。

 酒井忠世は西尾城主・酒井重忠の長子で、このとき十九歳である。

酒井雅楽頭さかいうたのかみ家の跡継ぎは出来が良いと評判だったな)

 賢そうな目をした若者だった。殿は若君の側近にするおつもりだろう、と察した。

 内藤さまと青山さまは傅役なので、順当。土井利勝さまは留守番のようだ。

 付き添う女房は、阿茶の他には乳母の大姥局さまとその侍女二人、笹尾局とその配下で武芸ができる侍女が五人、阿茶の小間使いの幸と、早霧こと白須局、牧尾こと市島局、その側仕えの侍女が二人ずつ、雑用をする侍女が他に十人ほど。

 阿茶は若君に付き従って上洛する前に、本多正信さまから豊臣家の内情を聞き、また自分でも調べてみた。

 豊臣家の武将の妻である義妹のお加代さまが言うように、今の豊臣家には北近江出身の、それも浅井の旧家臣が多いことから、南近江の甲賀出身の白須局と京に住んでいた市島局を連れて来たのだった。

 一行は東海道を西へ行く。

 阿茶は尾張の清須までは来たことがあった。小牧・長久手の役のときのことだ。悲しい思い出もあるが、今は若君をお守りすることに気がいっていて、過去を振り返る余裕もない。

 尾張の清須より先は未知の土地だ。むしろ好奇心が抑えきれず、駕籠に乗っているのも飽きたので、休息した際、馬に乗っていた幸と乗り物を交換した。だから、今は市女笠を被り、垂衣たれぎぬ姿で自分が乗っているはずの駕籠の後ろで馬の背に揺られていた。

 大垣を過ぎたら、しだいに山が迫ってきた。

(ここはどのあたりだろう)

 冬枯れの景色ながら、葉を落とした山の木々がなにやら賑やかだ。芽吹きの準備をしているのだろう。

 さらに一行が進むと、山と山が迫った間の小盆地のようなところに通りかかった。そこでは東西、鮮やかに景色が違う。西は山野がまろやかな印象を受けた。

 阿茶は娘の頃、淡路局から習った歌枕を思い出しながら、傍らを騎馬でゆく白須局こと早霧に、場所を訊いた。

「いにしえには、畿内と東国を隔てる不破の関があったところから、関ケ原と申します。近江国との国境くにざかい、わたくしの故郷の甲賀に近い場所でございますよ」

 と、教えてもらった。

「なるほど、美濃国の歌枕ですね」

 早霧と馬を離し、「人すまぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風」と『新古今和歌集』[雑中]の和歌を口ずさんでいたら、横に騎馬の侍がやってきた。

「お女中、きょろきょろしていると、馬から落ちますぞ」

 からかいを含んだ声に振り向くと、旧知の酒井忠利さまだ。

「おや。これは、ごきげんよう」

 と、垂衣たれぎぬを持ち上げて挨拶をすると、

「げっ。阿茶局」

 と、返って来た。

(相変わらず失礼な。若い侍女とでも思ったか)

「酒井さまには、つつがなく。昨年、ご嫡男がお生まれになったそうで、おめでとうございます」

「早耳だな。ありがとう。阿茶局……さまも、若君の養母となられたそうで、大層な出世をなされたな。あのとき、母子ともども召し上げた殿の慧眼には恐れ入る。そなたの息子の守世どのだが、突出した才はなくとも、物事を丁寧に誠意をもって成し遂げる姿勢、あれは良いな。若君のお側には、あのような者も必要だ」

 語りながら、忠利さまは若君のお駕籠の前後に付き従う騎馬の小姓たちをみやった。

 守世は駕籠の後ろにつき、左右を伊助と与一が徒歩で従っていた。

「ありがとう存じます」

 息子を褒められ、阿茶は頬が赤くなった。とても嬉しい。

「阿茶局さま、今の貴女の身分で馬はいけません。何かあったら、若君が悲しまれよう。今、行列を止めるわけにはいきませぬゆえ、次の休息のとき、駕籠に戻りなされ。きっとですぞ」

 忠告をして、忠利さまは離れていった。

(父親になって、少しは落ち着いたかな)

 阿茶はもう、弟を見るような思いだ。

 峠で出会ってから、忠利さまとも不思議な縁だなあ、とつくづく感じながら、忠告に従うことにした。


 その後、南近江を通って、一行は京に入った。










引用文献:『新古今和歌集』巻第十七 雑歌中 1599 藤原良経

歌の訳:(番人が住まなくなった不破の関所の板廂よ。荒れ果てた後は、ただ秋風ばかりが虚しく吹いていることだ)

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