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養母になる

 西郡の方さまとの会見の翌日、殿から呼び出しがあった。

「時姫から聞いたことと思う。阿茶、そなたを長丸と福松丸の養母にする。息子たちを頼むぞ」

「はい、謹んで承ります」

 須和は一礼した。

「つきましては、殿にお願いがございます」

「何だ。申してみよ」

「恐れながら。お愛の方さまと同じお香をいただきとうございます。若君たちに母君のことを忘れないよう、わたくしの衣類に焚き込めたいと存じますゆえ」

 須和の言葉に、殿がしばらく考え込んだのち、答えた。

「いや、それはならぬ。いつまでも死んだ者に恋々としていては、あれらのためにならぬ。そなた、お愛を慕っていたな。ならば、そなた用に少し分けてやろう。たまに香を焚いて、お愛を偲んでくれ。それが供養ともなろう。阿茶には、別の物をやるのでそれを身にまとうがよい」

 須和は気落ちしたが、礼を言って御前を下がった。

 三日後に、殿から二つの香合が届けられた。赤と黒の漆塗りの物だ。

 黒には、須和用の物が入っていた。爽やかな香りだった。添えられた紙には『藤紫』と書かれてあった。

 赤には、お愛の方さまが使っていた香が入っていた。懐かしい甘やかな香りだ。『紅梅』と紙が添えられてあった。

「もう、『須和』と呼んでくださる方はいないのだ……」

 須和は御方おかたさまのお香を焚きながら、しみじみと亡き人を思い、涙にくれた。



 御方おかたさまのために泣いて二日後、心を立て直し、その翌日、息子の五兵衛久宗を部屋に呼んだ。

「母上、改まって何でしょうか」

 息子を上座に据えた須和に、久宗が困惑して尋ねた。

「五兵衛に、謝罪とお願いがあります」

 真剣な物言いに、息子が戸惑っている。

「まずは謝罪を。これまで親として十分なことをしてやれず、苦労をかけました。不出来な母親でしたが、そなたは立派に育ってくれて、ありがたいと思うております」

 須和は両手を揃えて頭を下げた。

「は、母上。頭を上げてください」

 五兵衛が慌てる。

「これまでのことを、苦労など思っておりません。戦で父親を亡くした子など、それも下級の侍の子など親戚のかかりうど(居候)になって暮らしていくほかないでしょう。あの本家での暮らしの中で、母上は自分のできる精一杯の力で私に武芸と学問を教えてくださいました。若君にお仕えするようになって、それがどれほど役に立ったかしれません。それに、あのままだったら、成人したら本家の作男として追い使われ、一生を終えたことでしょう。母上のご決断によって、私は武士となることができたのです。殿へ直訴するため御坂峠を登ったあのときが我ら母子の生涯における分水嶺であったのかもしれませぬ。ゆえに、お恨みなど、これっぽっちもいたしておりません」

「そうね。あのときが運命の分かれ目だったのかもしれません」

 須和は顔を上げた。

「そしてまた今、岐路にいます。実は母君を亡くされた長丸君と福松丸君の養母となるよう、殿から命じられました」

「はい、存じております。先日、殿が若君さまたちをお呼びになり、母君さまの四十九日が終わったら、『阿茶局を養母とし、そちらに行かせる』と告げられておられました。お側に侍る我らも承知しております」

 母親を亡くしたばかりの子どもに何てことを言っているんだか、と須和は殿の配慮のなさに腹が立った。しかし、事務的には素早い対応だ。

「そこで、お願いがあります。若君たちの母親代わりになるについて、私は命がけで行う所存です。しかし一人では心もとない。五兵衛、そなたにも協力を願いたいのです」

「もとより、若君のことでは私に否やはありません」

 真顔で言い切った息子に、須和は笑みを浮かべた。

「頼もしいこと。五兵衛には、若君たちのお身体を側仕えとして護るだけでなく、心をも守ってもらいたいのです」

「それは、いかなることで?」

「福松丸君は東条松平家へ行くまでで良いでしょう。あちらへ行けば、もう我らの手が届くことはなく、殿も後見人など考えておられるでしょうから。長丸君については、このまま順当にいけば、殿のあとを継がれるお方です。人の上に立つということは孤独なものです。幼馴染とも言える土井さまと水野さまは、その御血筋から重要なお役目を承るでしょう。まつりごとの上で、ときに意見が対立するかもしれません。そんなとき、五兵衛には長丸君に寄り添ってもらいたいのです。もちろん、すべて肯定する阿諛追従あゆついしょうの輩になれと言っているのではありません。愚痴をこぼせるような、そんな相手になって欲しいのです。そうして、長丸君の御心を護ってほしい、ということです」

「難しいですが……やってみます」

「ありがとう」

 にこり、とした須和はさらに続けた。

「ついては、その覚悟のほどを自らにも知らしめるため、いみなを替えてほしいのです」

「いかなる名に?」

「世を守る者――守世もりよと。私たちの世間といえば、この徳川の御家しかありません。その後継の若君の身と心をお守りする、という意味の名です」

「わかりました。小頭さまにそのように申し上げましょう」

 母子の会話は終わり、申請を出した新たな名は殿の許可を得たので、五兵衛は以後、神尾五兵衛守世と名乗ることになった。



 次に須和は二人の若君の乳母たちに面会を申し込んだ。大姥局おおうばのつぼねと福松丸君の乳母の相庭局あいばのつぼねは快く応じてくれた。

「このたび、殿に若君たちの母親代わりになるよう命じられまして、お二人のお話をお聞きしたいと存じ、このような場を設けさせてもらいました」

 自分の部屋に呼んだ須和は、二人に深々と頭を下げた。

「存じておりますよ。殿が大きな声で三島局さまに命じておられましたから、聞いていた侍女が何人もおります。その者たちから噂が広がっておりますゆえ」

 大姥局さまがにこやかに答えた。

「阿茶局さまなら、この大役、十分に務められましょう」

「わたくしもそう思います」

 大姥局さまの言葉に、相庭局さまも同調した。この方は東条松平家から来ている。

「ありがたいお言葉でございます」

 一礼した須和は、さっそく二人に若君たちの普段の様子や嫌いな物好きな物、得意なこと、不得意なことなどを尋ねた。

 そして最後に訊く。

「母君が亡くなったと知った若君たちは、お泣きになられましたか?」

「福松丸君は、それはもう大泣きされました。優しい母君が大好きであられましたから。でも、七日ごとの法要のために寺へ行かれ、わたくしが中陰ちゅういんのことをお話し、これが済んだら母君は極楽浄土へ行かれるのですよ、と申し上げると、だんだんと心が落ち着かれてきたようでございます」

 と、相庭局が答える。

「長丸君は、『自分は武士の子で、兄だから』と泣くのを我慢され、弟君をむしろ慰めておいでです。ご立派なことでございますが、わたくしには少し無理をなさっているように見えて……心配です」

 大姥局さまが顔を曇らせた。

「左様でございますか」

 須和は二人の言葉を聞いて思案し、若君たちとの正式な顔合わせの際について、相談した。



 やがて、お愛の方さまの四十九日の法要が終わった。その日に、西郡の方さまは奥の広間に役付きの侍女たちを集め、須和を自分の横に坐らせて、須和が若君の養母となったことと、奥向きを取り仕切る中心となったことを告げた。

 その場に集まった者たちが一斉に平伏する。

「よろしくお頼みいたします」

 と、緊張しつつ、須和も一礼した。

 母親が亡くなった場合、服喪期間(服)は十三か月との定めだが、謹慎期間(忌)は五十日なので、それが過ぎて衣服を改める。

 平服となった初日に、須和は二人の若君へご挨拶に出かけた。これはあらかじめ決まっていたことだ。

 若君たちが暮らす区域の広間となっている場の上座に、長丸君と福松丸君が坐っている。その両隣には乳母どのと守り役たちが並んでいた。小姓たちは、はるか下座におり、その中に息子の五兵衛守世と預かり子で元服した土屋平三郎忠直もいた。

 牧尾たち三人の腹心の侍女を連れてやってきた須和は、若君たちの前に坐り、手をついて丁寧に辞儀をした。

「殿の命により、母代わりとなります阿茶局でございます」

「うむ、よしなにな」

 長丸君が鷹揚に答えた。

 幼い頃から知って、互いに親しい間柄なのだが、これはけじめというものであるし、儀式でもある。

「阿茶は父上や母上の側にいたが、これからは私たちの側にいるのか?」

 十歳の福松丸君が無邪気に訊く。

「左様でございます。用事があれば、殿のところへ参りますが、これからは若さまたちのところにおります」

 答えてから、つと須和は立ち上がった。そして福松丸君の側に寄り、腰をかがめて両手を脇に差し入れると、ひょいと抱き上げた。

「わあっ。阿茶、何をするっ」

「お小さい頃、このように抱き上げて差し上げたこと、覚えておいででございますか?」

「そうか?」

 須和がそのまま、くるりと回ると福松丸君が笑い出した。

「あははっ。そうだな、阿茶は力持ちだ」

 福松丸君はご機嫌だ。

 須和は、弟君をだっこしながら、あ然としている長丸君を見やった。

「お愛の方さま……若君の母上はこの世の役目を終えて旅立たれました。今は極楽浄土におられます。これからは、若君たちをお浄土から見守っておいでです」

 と、そこで須和は福松丸君をそっと下に降ろした。

「彼岸におられる御方おかたさまは、若君たちを抱きしめることがかないません。ですので……」

 須和は次に長丸君を抱き上げた。

「あっ、阿茶っ」

「このように、阿茶が御方おかたさまの手足となりますゆえ、存分にお使いくださいませ」

 そう告げてから、長丸君にささやいた。

「武士の子であろうと、実の母が亡くなったときぐらい、泣いてもよいのですよ。唐土とうどや高麗には葬式のとき親族に代わって泣く〝泣き女〟という職業があると聞きます。嘆きの声が大きいほど、亡き人を想っているのだということです。我が国では、そのような風習はありませんが」

「……阿茶は物知りだな」

 長丸君が、ぎゅっと須和の背に回した手で着物をつかんで顔を伏せた。じわりと浮かんだ涙を隠したようだ。

 くるん、とそのまま回った須和は、今度は守り役たちに目を向ける。

「わたくしはこのような女郎めろうでございます。どうかご容赦くださいませ」

 驚きで目を見張っていた青山さま、中腰になりかけていた内藤さまがうなずき、守り役の中で一番若い土井甚三郎利勝さまが重々しく点頭てんとうした。

 この様子を二人の乳母たちは、ほほえまし気に見守っていた。



 乳母どのたちから若君たちの日常を聞いた須和は、父親である殿と接触が少ないのではないか、と感じた。

 父と子らがまみえるのは、殿が城にいるとき、それも朝の挨拶に若君たちがうかがった際に声をかけられるだけだという。

(ご嫡男のときもそうだったのか?)

『三郎が生まれたときは年が若く、子どもが珍しかったゆえ、ただ無事に育てばいい、と気ままに育てたら、親の言うことをきかない子になってしまった』

 と、こぼされたと聞くが、十歳余りで元服してから岡崎城をまかせ、ご自分は浜松に居り、顔をあわせるのは合戦のときだけとは、親子の会話があまりにもなく、それゆえご嫡男も間違えてしまったのではなかろうか。

 そう考えた須和は、乳母どのと若君の守り役たちとも相談し、朝の鍛錬の時間、父子を会わせる計画を立てた。

 須和が「若君たちに殿の鍛錬のご様子をお見せして、参考にいたしたい」と申し入れたら、許可が出た。

 その日は須和も袴姿の男装で従った。

 早朝の鍛錬は若君たちもいつものことなので慣れているのだが、父君の鍛錬を見るのは初めてだった。

 馬場で馬を責め、弓の練習をし、鉄砲を撃つ父の姿に、二人の若君は真剣なまなざしで見入っていた。

「長丸は弓をどれほどできるか。福松丸はどうじゃ」

 と、鍛錬を終えてから、息子たちに尋ね、それに対して若君たちが答えるのを見て、親子といえども話さねば分かりあえまい、とこういう機会をこれからも作っていこうと密かに考えた。

 しかし、このような穏やかな時間は、すぐになくなってしまうのだ。









いつも読んでくださり、ありがとうございます。一年ちょっとかかって、やっとテーマを回収できました。いいのか? 

「お局さまは見た」状態から、以後、飯田須和さんは「若君の養母」「家康の妻(仮)」になります。今しばらく、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。



2025年11月13日、日間 歴史文芸で65位になりました。

ありがとうございます。

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