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お愛の方との別れ

 天正十七年(一五八九)三月、花の季節のこのときを須和は終生忘れることはなかった。

 花見といっても、駿府城の庭に植えられた桜を眺めるだけのことだ。お重に握り飯、野菜の煮物、かまぼこを詰め、米粉の団子・阿古屋餅あこやもちを添えて皆で食べながら、うたいの上手な者・踊りの上手な者の芸を見て、四人の御方おかたさまと若さま、姫さま方を中心に笑ったり、おしゃべりしたりして侍女たちも楽しんだ。

 この翌日、疲れたのか、お愛の方さまは寝込んでしまった。

「大丈夫」

 と言いながら、前夫の西郷義勝さまの遺児、繁勝どのと勝忠どのを枕元に呼んだ。

 繁勝どのは前夫と先妻との子で御方おかたさまが育てた。勝忠どのは前夫と御方おかたさまの子である。二人はすでに元服している。西郷家は御方おかたさまの伯父の西郷清員さまが殿の命で継いだので、二人とも奥勤めの御方おかたさまの許で育ち、今は長丸君に仕えている。

 床で半身を起こし、二人の息子に語りかけていた御方おかたさまは穏やかな笑みを浮かべていたが、息子たちは嗚咽を漏らすのをこらえていた。

 話し終わった繁勝どのと勝忠どのは、泣くのを我慢しているのが明らかに分かる顔をして部屋を出て行った。

 その日から、御方おかたさまは完全に寝付いてしまった。倉見局が医師を呼んだのだが、病の原因については首を捻るばかりだ。とりあえず、というところで婦人病の薬を置いて行った。

「もう一度、天海さまにご祈祷をお願いしてみましょう」

 須和が御方おかたさまに言うと、

「あのようなことは、二度はしないものなのですよ」

 と、やんわりと断られた。

 でも、と須和はあきらめきれず、早霧にお布施とお願いのふみを持たせて武蔵国の無量寿寺北院へ使いに遣った。

 数日後、早霧は天海さまのお弟子を一人伴って戻って来た。

「阿茶局さま、ご祈祷はできないそうです。御師さまがおっしゃるには、『命数が尽きておる。ご本人も自覚があり、覚っておられるゆえ、今はただ後生を願うのみ』とのことです。そして、これをお渡しするようにと、申し付かって参りました」

 墨染の衣を着た弟子の若い僧侶は、懐から二つに折りたたんだ紙を出して、須和の前に置いた。

 須和はそれを取り上げて開いた。

『五月』

 それだけが書かれてあった。

 眩暈がして倒れそうだったが、気力で踏み止まった。

「ご無理を申し上げました。ご足労をかけ、天海僧正さまには、お礼を申し上げてくださいませ」

 須和は東雲に食事の接待を命じ、使いの僧をもてなしてから送り出した。

(私のしたことを、殿はおそらくご存知であろう)

 奥向きのつぼねに若い僧侶が訪問したことなど、警固の伊賀者から聞いているだろうと予測し、須和は殿に面会を願って小姓へそれを伝えた。

 時を置かず、須和は殿に呼ばれた。

 上座に坐る殿に対して、須和は天海僧正に頼みごとをしたこと、その返事をもらったことを包み隠さず語り、もらった紙片を殿へ渡した。

「そうか、これが死期か……」

 紙を手にし、しばらくぼう然としていた殿は、須和に言った。

「お愛の好きなようにさせよ」

「……かしこまりました」

 そこを辞去した須和は、三島局と倉見局にも殿に語ったと同じことを話した。

 御方おかたさまの食はますます細くなり、四月に入ると、重湯しか喉を通らなくなった。

 お見舞いに、西郡の方さま、お都摩の方さま、お竹の方さまが次々とやってきた。

 長丸君と福松丸君、殿も忙しい中、時間を作ってやって来た。

 二人の若君には、「兄弟仲良く。父上に親孝行してね」と声をかけ、殿には、「子どもらのことをよろしくお願いいたします」と。

 倉見局を始めとする侍女たちには、これまで仕えてくれたことの感謝を、須和には、「子どもたちをお願い」と。

『いやです。いやです。逝かないでください』

 須和はそう叫びたかった。母のような姉のような大切な人だったのに、何故こんな早くに別れがくるのか。

 優しく良いお方が。どうして。

 世の不条理を恨んだが、須和は流れる涙を拭いもせず、御方おかたさまの手を握って、「お任せください」と無理やり微笑んだ。

 やがて、御方おかたさまは眠っていることが多くなり、天海僧正の告げた五月、その十九日に静かに息を引き取った。三十八歳だった。



 火葬ののち、お愛の方(西郷局)は駿府城下の龍泉寺に葬られ、法名は龍泉院殿とされた。後年、従一位を贈られた際、名を宝台院と改められた。

 お愛の方が亡くなったことを知った瞽女ごぜたちは、寺院の門前でその後生を祈った。


 後継の男子を産んだ側室といっても身分は奉公人なので、殿が喪に服することはない。西郷家の二人のご子息と徳川家の二人の若君が黒い衣服を身に着け、お仕えしていた須和たちは薄い鈍色にびいろの衣装を身にまとった。御方おかたさまのつぼねの調度類も黒い布が結び付けられている。

 衣類は貴重品のため、裕福な婦人でも小袖は二、三枚しか持っていないのが普通で、喪服が用意できたのは、位階を持ち、徳川家が五ヵ国を有する大名になったことによるのだろう。



 長く続いた戦乱の世で、地下じげの者は葬儀などすることもなく、遺体は打ち捨てられるか、良くて村の隅に埋められるか。武士といっても上級で豊かな者でなければ、葬儀など無いに等しく、時宗の聖が唱える念仏で送られるのなら上等。財があれば、家族と近しい家臣たちに野辺送りされるが、これはめったにないことだ。

 ちなみに、戦で死んだ者は、勝者側なら小荷駄隊に属する黒鍬者くろくわもの[土木や運搬に従事した者たち]や陣僧じんそうが遺体を回収し、遺族に渡した。一方、敗者側の遺体は打ち捨てられ、近隣の者たちが衣類や武具をすべて剥ぎ取り、あとは野ざらしで自然に白骨となるのに任せる。もしくは疫病の蔓延を恐れて近くの村の者たちが埋葬するか、その地を占領した勝者が埋葬した。

 後年の関ケ原の戦いのあと、徳川家康は金品を与えて近隣の村や庄屋たちに戦死者の処理をさせている。




 寺での葬儀が終わってから、主がいなくなった御方おかたさまの部屋に政務を終えた殿が毎日やってきて、一人ぼんやりとあぐらをかいて坐っていた。

 侍女たちもいるのだが、遠巻きにして誰も近寄らない。

「……そうだな。阿茶を母としよう」

 初七日の法要が済んだあと、御方おかたさまの部屋にいた殿がつぶやいた。

「三島局」

 顔を上げた殿が呼ぶ。

「はい、御前おんまえに」

 三島局さまが進み出た。

「元服前の子らに母親いないのは何かと不都合だ。阿茶局を長丸と福松丸の養母とする。時姫にも、そう申し伝えよ」

「御意のままに」

 三島局さまが承ったのを遠くで見ていた須和は、『何てことを言っているんだか』と当惑した。二人の若君の母は、お愛の方さましかいないのに。その代わりなんて誰もできはしない。

 西郡の方さまの名も出ていたので、後日呼び出されるだろう、と思っていたら、その日の夕刻、もう使いが来て、西郡の方さまの部屋へ連れて行かされた。

 側近の小島局のみを残して人払いした西郡の方さまは、始め上座に坐っていたが、人がいなくなると座から降り、須和の横に来て呼びかける。

「阿茶局さま」

御方おかたさま、そのような呼称はなさいませぬように。ぜひ呼び捨てで」

 須和が慌て、横並びから向かい合う形に坐り直した。

 徳川家の奥向きで、殿の正妻がいないこれまでは世継ぎの若君の母であるお愛の方さまが一番で、それに次ぐのは側に侍るのが長く、姫君の母である西郡の方さま。小督局さまはいないので、お都摩の方さま、お竹の方さまが三番、四番という序列が暗黙の了解として存在した。お愛の方さまがいない今、奥では西郡の方さまが一番となり、側室を一時務めたとはいえ、子のいない須和はただの役付き女房にすぎない。

「何を申されますか。殿が阿茶局さまを跡継ぎの若君の養母とされました。なれば、これまでの役付き女房のような扱いはできませぬ」

 ほほ、と西郡の方さまが優雅に笑う。

「そなたもよう知っておられよう? 殿が人に対する目利きであると。そなた、徳川次代の母であり、妻としての役割を期待されたのじゃ」

「いえ、まさか……そんな……」

 母親代わりというか、母親みたいにかわいがるのは嫌ではない。長丸君と福松丸君は幼い頃から身近にいたので、可愛いと思うし、お世話したい。でも養母となるのは責任が重い。さらに、〝妻〟? 正妻がいるのに、〝妻〟というからには、閨の役割をしない自分にとって、〝妻〟の役割だけをしろということで、面倒くさいことこの上ない。

 といった思いが須和の脳裏に一瞬で駆け巡った。

「逃れることはできませぬよ?」

 須和の考えを察したのか、捕らえた鼠をいたぶる猫のような笑みを西郡の方さまが浮かべた。

「はあ……」

 これは観念せねばならぬか。

「殿が『時姫にも申し伝えよ』とおっしゃったのは、これまでの奥の仕様を伝えよ、とわたくしは解釈いたしました」

 はきと申されぬ殿の悪いところが出たなあ、と須和は覚悟を決めて居住まいをただした。

「お言葉を承ります」

 須和は一礼した。

「良いでしょう」

 西郡の方さまがうなずいた。

「西来院殿さま――さきのご正室・駿河御前さまは今川氏の御一門衆、関口さまの御娘で、今川のお館さまのお声がかりで三河の松平さま、つまり殿へお輿入れなさいました。一男一女を挙げられましたが、今川義元さまが桶狭間で討たれ、殿が織田家と同盟を結んだことで、実家の両親は義元さまの後継・氏真さまによって自害に追い込まれました」

 西郡の方さまが語ることは、須和が調べたことと合致していた。そのため須和は目を伏せ、静かに聞いていた。

「わたくしが殿のお側に上がったのは、その頃のことです。わたくしは今川氏家臣の鵜殿氏の支族、柏原鵜殿の長忠の娘ということで前の御前さまのお許しがあり、側室となりました。けれども養女で、実父は長忠さま家臣の加藤義広と申します。娘の頃は寿佳尼さまのお屋敷で行儀見習いをしていましたの。信玄公の継室、三条夫人の許にいた阿茶局さまと少し似ていますでしょ?」

 須和は、はっと目を上げた。

「は……はい。よくご存知で……」

「調べものが得意なのは、そなただけではありませんのよ?」

 ほほ、と西郡の方さまが笑う。

「お愛さまは、おっとりとした方でしたので、阿茶局さまの過去など知らなかったと思います。知らないまま、可愛がっておられたの。よい方でしたわねえ」

 ふっ、と懐かし気に西郡の方さまが遠くを見やった。

「前の御前さまは」

 と、目線を須和に戻すと同時に西郡の方さまは話題も戻した。

「実家の伝手を失っても、虐げた今川氏の者として三河者たちから蛇蝎のごとく嫌われても、正室としての役割を全う為されようとしておいででした。でも、間違っておしまいになったのです」

 ふう、と西郡の方さまは息を吐いた。

「長篠の戦の前でした。信玄公が亡くなってもまだ武田氏には勢いがあり、近隣の領地を飲み込んでいたのを見て、前の御前さまと嫡男の信康さま――岡崎三郎さまは新興勢力で得体のしれない織田信長より、まだ話の通じると思われる武田氏と同盟すべきだと思われたのです。当時、殿は遠江攻略のため、拠点を浜松に移し、御前さまと三郎さまは岡崎城の護りとなされ、離れて暮らしておいででした。三郎さまの意見に同調して岡崎では武田に味方する者が多くなり、それが殿に対する謀反と捉えられ、三郎さまの正室の徳姫さまの織田さまへの直訴もあって、事態は三郎さまの自害、御前さまの幽閉にまで至り、それを恥として、御前さまは自害されてしまったのです。――娘と共に浜松にいたわたくしが御前さまの異変を知ったのは護送が決まってからのことでした。お側にいたら、何かしらお止めできたのではないかと今でも悔いが残ります……」

 いったん言葉を切った西郡の方さまは、須和に視線を戻して言う。

「阿茶局さま、武士の娘として生まれ、公家の屋敷で育てられたそなたなら理解できるでしょう。武家の妻は、家政を統括して家の子郎等を束ね、出陣などの夫の留守を取り仕切り、一家の束ねを為さねばなりませぬ。公家の妻は、家を構成する者たち――子ら、側女、庶子、使用人たちを統括し、食料や衣料の調達・管理をするのは同様ですが、祖先の追善仏事を行い、家業を支える、という役目があります。武家公家共に、妻なりの伝手で情報を入手し、夫と相談し、また夫を支えて家を存続させてゆく使命があるのです。公家屋敷で行儀見習いをしたそなたなら分かるでしょうが、武家の場合、正室がおらねば継室を娶るということをいたします。しかし公家の場合は婚姻に家格の定めがありますので、ふさわしい家からの嫁取りができないときは家女房がその勤めを果たします。そう、まさに阿茶局さまのこれからの役割です」

「そ、それは……」

 重たすぎる。

 須和は重責を思って、うつむいた。簡単な母親代わりというわけではなさそうだ。若君たちの母と正室の代わりをさせようとしている?

「お愛さまとわたくしは、これを二人で担ってきました。お愛さまは家の内のこと。わたくしは対外的なことを。でも、お愛さまが亡くなり、わたくしも年を取りました」

 そう言われても、西郡の方さまは四十代半ばとはいえ、白髪はなく皴も目元にあるくらいで若々しい。

「殿の命で御前さまのお孫さまたちを娘のように愛しみ育てて参りましたが、このたび輿入れ先が決まって肩の荷が下りたような思いがいたします。そこに、殿が若君たちの養母として阿茶局さまを指名されました。確かに数多いる侍妾の中で、そなた以外考えられないと、わたくしも思います。相談くらいは受けますけれど、これもめぐり合わせと思って覚悟なされて?」

 於茶阿局さまが言うように、おっとりとしながらも威圧感がある。西郡の方さまの微笑みに逆らえない。

「はっ。身命を賭して尽くす所存にございます」

 須和は抗うことができず、深々と頭を下げた。









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