姫たちの垣間見
年が明けて天正十七年(一五八九)。
年頭に、正室の朝日姫さまが京の聚楽第内にある徳川邸に引っ越すことが家中に伝えられた。京における徳川家の屋敷は、作事上手との評判の豊臣家の大名・藤堂高虎さまに依頼し、出来ていたのですぐに越すことができる。荷造りなどは豊臣方の使用人たちがするので、徳川方の女使用人は特に手伝うこともなく、送り出すときの警護に気を遣うくらいだ。
のちの九月一日に関白殿下が諸国の大名に対し、「聚楽まで妻を同道し、以後は在京させるように」と命じたので、これを先に知っていたのか、と須和はそのとき思ったのだった。
一方、年末に亀姫さまは、「大名の姫は顔も知らぬ相手に嫁ぐのが当たり前ですが、そなたたちの場合、できないこともないですから、おとうさまに申し上げておきますね」
と、言い置き、さらに、小松姫さまにお尋ねになった。
「小松は本多平八郎の長女。下に妹はいないのですか?」
「母を同じくする妹が一人、腹違いの妹が三人おりますが、みな幼うございます」
「それはよい。息子の嫁にいただけるか、聞いてみましょう」
そんな会話があった。
やがて内々に殿を通じて本多家に打診があり、成長したのち、小松姫さまの妹君・もり姫さまが奥平家の嫡男・九八郎家昌さまの正室として嫁いだのだった。
亀姫さまの申し出はことごとく通るようだ。
朝日姫さまの引っ越しの準備で御前さまの御殿が正月から慌ただしいのをよそに、亀姫さま立案の垣間見が実行された。
まずは、熊姫さまが来年、嫁がれる予定の本多平八郎忠政さまだ。
「小松姉さまは、『本多家の家族と最後に過ごす正月になるだろうから』と、おじいさまから宿下がりの許可を得ているのですね」
と、障子の陰から廊下を見ている登久姫さま。
「ええ、そうなの。迎えに行くようにと、殿……いえ、義父上がおっしゃってくださって……弟を連れて、来るはず」
答える小松姫さまの横には、息をひそめた熊姫さまがいる。
才色兼備の十七歳の小松姫さまは当然ながら、殿のお孫さまの十四歳の登久姫さま、十三歳の熊(久仁)姫さまは、美形ぞろいと評判の織田の血が出たのか、たいそうな美少女だ。この姫さま方を厭う若君などいないだろう。
「あ、来たわ。忠政さまは十五歳でしたっけ」
「ええ、まだ子どもで。精一杯、大人のふりをしておりますが」
姉から見れば、弟などそんなものだろう、と近くに侍っていた須和は思った。
「まあ、紅顔の美少年」
登久姫さまが驚いて小松姫さまを振り返り、障子の隙間から覗いていた熊姫さまが息をのむ。
「恐れ入ります。母に似まして。下の弟の忠朝の方が父に似ておりますの」
小松姫さまが苦笑している。
「熊姫」
そのとき、機敏な動作で登久姫さまが妹姫をいざなうと、お二人は廊下とは反対側の襖を開け、そこに滑り込んで閉めた。
廊下側から、「えへん」と咳払いがした。年賀の儀を終えた本多平八郎忠勝さまとご子息の忠政さまが小松姫さまを迎えに来たのだ。
「稲……いや、小松姫。よいだろうか」
平八郎さまの問いかけに対し、須和が障子を開け、頭を下げた。
「父上、忠政。お迎え、ご苦労様。参りましょう」
と、小松姫さまが立ち上がり、侍女を連れて二人のあとをついて行った。
次は登久姫さまの番だ。
正月十七日に、殿は宮中の射礼という行事にならって、駿府城で弓の競技を行うとした。そのとき、小笠原流の弓馬術の披露をしてもらうということで、小笠原家嫡男・秀政さまに流鏑馬を依頼した。
流鏑馬をする馬場には見学者のための桟敷が設けられ、女性用は御簾が下がっている。そこに三人の姫とお付きの者たちがいた。この三件の垣間見には、立会人として殿の側付きの侍女と須和、於茶阿局がいる。それぞれが見聞きしたことを、主に報告するのだ。
「いらしたわ」
小松姫さまが馬場を見て言った。
狩衣と指貫を着て、鹿革の行縢を身に着け、綾藺笠を被り、弓矢を持った若武者が馬を駆けさせてくる。
馬道を駆け抜けながら弓を射ると、見事に的の中心へ中った。
やんやと喝さいを浴びている。
「りりしい……」
これを見て、登久姫さまが頬を染めた。小笠原秀政さまは、二十一歳の若者だ。
一方、熊姫さまは正月の垣間見から、ぽーっとしておられる。
(お二人とも、婿君によい印象を持たれたようだな)
よかった、と須和は思った。
小松姫さまの婿となる真田信幸さまが駿府城に来たのは二月十三日のことである。これは真田との講和の際、すでに決まっていたことだった。信幸さまは人質のような形で駿府城にしばらく滞在し、上田に帰って行かれるのだ。
「品の良いお顔立ちをしておられますね」
殿との対面のため、廊下を歩いてくる真田家の人びとの中から、若君らしき人を見つけ、登久姫さまが言った。
姫君たちは前と同じく、障子の陰から眺めている。
「優しくて賢そうです」
熊姫さまも感想を述べた。
真田信幸さまは二十四歳。妻子がいるせいか、はたまた多くの戦を経験しているせいか、実年齢より落ち着いて見える。
しばらく黙っていた小松姫さまが、振り返って須和たちに訊いた。
「城においでの間、文を取り交わしてもよいでしょうか」
須和と於茶阿局が、殿付きの侍女に目をやった。
「殿にお伺いを立てて参ります」
侍女は答えた。
小松姫さまの要望は夕方には許可され、姫さまはさっそく文を書かれたようだ。翌日、ぽつりともらされた。
「妻女のまつどのは、側室になることを納得しておられるとか。わたくし、まつどのとご子息含めて護り、真田のよき家の妻になるよういたす所存です」
嫁いだあとに起こるであろうさまざまなことに対して、覚悟を決められたようだった。
(関白として豊臣秀吉は、大名同士や村々での私戦の停止令、海賊の停止令などを次々と出し、これによって諸国では戦火が止んだ。北条さまも実権を持つご隠居・氏政さまが上洛して関白に臣従を誓うことが決まって、関東での戦が遠のいた。徳川は滅ぼされるところを、朝日姫さまが輿入れすることによって戦をせずに済んだ。朝日姫さまには不本意なことであったけれど、いくら感謝しても足りないくらい)
乱捕りでの略奪・暴行・人取りがなく、戦のない平穏な日々がどれほど嬉しいことか。
この二月に駿府城では殿が主催する三百韻連歌会が行われ、平和な日常のありがたさを深く感じ入った。
そしてすぐ後に、連歌師たちが戻ると同時期、朝日姫さまが京へ引っ越して行かれた。そのことにより、駿府城での侍女たちの呼称が元にもどり、仕事の内容は変わらないけれど、須和は再び上臈となったのだった。
さて、婿殿を受け入れる姫君たちに安堵した須和だが、大きな気がかりが一つできた。お愛の方さまのことである。
御方さまは正月に風邪を召され、その後の回復がはかばかしくない。一月の終わりには床に就かれ、二月の中頃からは時々熱もある。医師の薬の効きが悪い。
倉見局、笹尾局、須和など侍女が食事のことなど心配して配慮するも、御方さまは微笑んで、「たいしたことはない」と答えるのだ。
そんなとき、義弟の松木五兵衛忠成がやってきた。
久しぶりに会う義弟は鬢の毛に白いものが混じっている。
自分も同じくらい年をとったのか、と改めて須和は思った。三十五歳になっていた。徳川家に仕えて七年経つ。
「用事はいろいろありましたけれど、会うのは久方ぶりですね。息災でありましたか、五兵衛どの」
「は、恙なく。姉さま……いえ、阿茶局さまにもお変わりないようで。奥向きで出世なされ、わしも儲けさせてもらっております」
松木五兵衛は笑顔で答えた。
「して、今回の用件とは? ご機嫌伺いだけで、忙しいあなたが来たわけではありますまい」
「はい」
と、口元を引き締めた松木五兵衛が頭を下げる。
「まずは、謝罪いたします。阿茶局さまに託した甥の守繁でございますが、年末から産みの母と伯父を引き取って養っております」
あの女か……。
須和は自分たち母子を追い出したとき、高らかに笑った女を思い出した。だが、すぐに動揺を抑えた。
「聞いておりません。守繁につけた伊助と萩野が何も言ってこないということは、血縁がただ頼ってきただけなのではありませんか?」
「最初はそうであったようですが、松木家からつけた使用人が言うには、勝手に奉公人を辞めさせ、金を借り、博打をし、素性の知れぬ輩を引き入れようと、年明けから引っ掻き回しておるそうで。伊助が止めておるようですが、いつまでもつか。傷は浅いうちに手当したほうがよかろうと存じます。守繁の不行跡の影響は、久宗にも及びかねません。ぜひとも、阿茶局さまの裁定が必要です。わしは、あれを推薦したことの罰をいかようにも受けますゆえ」
「……五兵衛どのの罪など、ありましょうや」
須和は静かに答えた。
「〝武士として生きたい〟という守繁の願いを叶えたのは、叔父としての情ゆえのこと。それ以後のことは、守繫自身の責任です。よう報せてくださいました」
と、頭を下げた。
「姉さま、そのようなことは」
慌てた松木五兵衛に、顔を上げた須和は微笑みかけた。
「五兵衛どのには、助けてもらってばかりです。この話は、ここまでにいたしましょう。ところで、甲府の松木家の皆さまはお元気にお過ごしですか?」
近況を聞き、商売のことを尋ね、世間話をしているうちに、須和はお愛の方さまの病気のことを松木五兵衛に語った。
「舅さまに使ったお薬のようなものはないでしょうか」
「いやあ、わしは医師ではありませんで、ようわかりません。お大名家に仕える医者が手をこまねいていることに口出しはできませんが……そうですなあ。気持ちを強う持つために、祈祷などされては。駿府の叔父が、昨年から武蔵国にある無量寿寺北院の住職になられた天海さまのご祈祷が霊験あらたかとか申しておりました。一度、ご依頼してはいかがでしょうかな」
「それは良いことを聞きました。さっそく調べて殿に申し上げましょう」
松木五兵衛の話に、須和は一筋の光明を見出したように感じた。
東雲と早霧に命じて、天海のことを調べてもらった。生国は分からなかったが、比叡山延暦寺や大和国の興福寺で天台宗を学び、足利学校にいたこともあり、経典の学問と密教修法の顕密両方の仏法を修めていることは確かで、験者としても名が知れていた。
須和は倉見局と三島局に相談して、了解を得てから殿に申し上げた。すると殿は、足利学校にいたという経歴に興味を示し、家臣を動かして天海について改めて調べ、祈祷を頼んだ。
駿府城に三月の初めにやってきた天海は、殿と同じ年頃の初老の僧だった。護摩壇を作って数日祈祷をしたら、不思議なことにお愛の方さまの食欲が増し、五日もすると床払いができるほどになった。
礼を述べる御方さまに、天海さまは、
「今回は幸いなことでございましたが、人には命数というものがありますれば」
と、ささやいた。
御方さまは、花が咲くような笑顔でうなずいておられた。
そのとき、もっと詳しく訊いておけば良かった、と須和はあとになって悔やんだのだった。




