忠臣の子
駿府城へ着くと須和は先触れを出し、平三郎を連れて御方さまの部屋を訪れた。そこにはお愛の方さまと大姥局さまが待っていた。
「須和、ご苦労でした」
「もったいないお言葉」
須和は頭を下げた。
「そなたが土屋平三郎ですね。わたくしは西郷局と申します。長丸の母です。殿のご意向で、そなたは長丸の側付きになるそうです。年も近いようだから、気も合うことでしょう。息子をよろしくね」
お愛の方さまが、にこりとした。
「はっ」
と、平三郎が平伏する。
「わたくしは大姥局と申します。長丸君の乳母です。岡部の出なので、岡部局とも呼ばれております。そなたの父がわたくしの父、貞綱の養子でありましたゆえ、血の繋がりはありませんが伯母甥の関係になります。城にいる間、何でも相談にいらっしゃい」
大姥局さまも微笑んで言った。
「はい、よろしくお願いいたします」
一度頭を上げた平三郎が再度、平伏する。
そこへ「殿の御成りでございます」と先触れがやってきた。お愛の方さまと大姥局さまは上座から下がって坐った。
殿が廊下をやってき、開け放たれた障子の敷居をまたいで部屋へ入り、上座へ坐った。
そのすぐ後から、東雲に導かれた女人が来て下座に坐った。粗末な小袖を着た大柄な人だった。
平三郎が女人を目にし、「母上」と声に出さず、口を動かした。
「土屋昌恒さまの妻女をお連れいたしました」
庭で片膝をついた武士が告げた。三十代後半の年ごろに見え、がっしりとした体格の者だった。
「元次、ご苦労」
殿からいたわりの言葉を掛けられて、岡田元次は一礼して去った。
「土屋の妻女、名は?」
「千賀と申します」
「夫の忠義は聞き及んでおる。勇士の妻は烈女であったな。あの混乱の中、よくぞ子らを落ち延びさせた。土屋家の遺臣は井伊直政に預けてある。平三郎が元服したのちにはそれらを率いて土屋の家を再興するとよい」
「は……ありがたき幸せにございます」
驚愕の表情で一度顔を上げた妻女は、嗚咽をこらえて深々と頭を下げた。
「お愛、あとは頼んだ」
「かしこまりました」
一同が頭を下げる前を殿は立って去って行った。
「まあまあ、よろしかったこと」
大姥局さまが妻女の側に寄って話しかけている。同じ岡部の一族なので、顔見知りらしい。
二人が泣き笑いしている横で、御方さまがにこにこしていた。そしてひと通り話し終わった頃合いで、須和が声をかけた。
「積もる話はまだございましょうが、今はいったん収めて、まずは局へご案内いたしとうございます」
「ああ、そうでした。阿茶局さま、気が回らず申し訳ございません。どうか、二人をよろしくお願いいたします」
「お任せくださいませ」
大姥局さまへ微笑み、須和は土屋の母子を促して自分の局に連れて行った。
須和は上級侍女として三間を賜っていたが、土屋母子を引き取るにあたって一間増えた。
「こちらでお過ごしください。いずれ平三郎どのの側仕えなどが遺臣の中から選ばれてやってくると存じます。その間は不自由をお掛け致しますが」
「いえいえ。我ら母子は自分のことは出来ますゆえ、大丈夫でございます」
ねえ、と息子に言う千賀さま、見交わす平三郎どのも嬉しそうだ。
「それは良かったです。では、まずは身の回りの物を調えることにいたしましょう」
久しく離れ離れに暮らしていた親子の楽しそうな様子を見て、須和も心が躍った。
お牟須どのと千賀どのは同じ武田遺臣の妻女ということで話が合い、すぐに仲良くなった。また、家臣たちが井伊直政さまに預けられているという境遇も同じだったので余計に親しみが湧いたようだ。
殿はお牟須どのの亡き夫の家、三井家も再興させるつもりらしい。
須和が土屋母子を引き取ったすぐ後に、正室さまの一行が京より戻り、再び以前の生活が始まった。千賀どのは侍女として勤め始めた。寺で身をひそめているとき、どうしていたのか須和が訊いたら、「宿房で下働きをしていました」と答え、「城でも同じ仕事を」と言う千賀どのを、須和は行儀見習いの侍女と同じ仕事を与えた。名家の土屋家の寡婦を端女として使うわけにはいかない。ましてや、岡部の縁者だ。
そして二月もした頃、千賀どのに縁談が持ち上がった。大姥局さまから千賀どのに話があり、相手は寺へ迎えに来た岡田元次さまだという。
(この縁談、殿が噛んでいるな)
聞いたとき、須和はすぐに思った。どういうつもりだろう。
旗本の岡田竹右衛門元次について、早霧に調べてもらうと、福松丸君が養子となった東条松平家の後見、松平康親さまに仕えていた人で、三方ヶ原の戦で軍功を挙げ、殿の直臣となり、天正八年の田中城攻めのとき、大井川の増水を見抜いて、殿に兵を引くことを進言したことがあるとか。
(殿の信も篤いか)
千賀どのも殿の意向が働いていると察し、悩みながらも息子と相談した上、その縁談を受けた。平三郎どのは土屋の家を興し、千賀どのは再嫁するのだ。
須和は千賀どのの嫁入りの準備について殿にお伺いを立てる、ということで面会を願った。
「殿、岡部の千賀さまが岡田元次さまに嫁ぐ際、どのようにいたしたら良いでしょうか」
「うむ。費用についてはわしの方が負担する。実家というには、縁遠くなっておるからな」
千賀どのは岡部丹後守元信さまの年がいってからできたお子のようだった。
「御自らお召しになられないのですか」
須和が遠慮のないところを訊いた。この女好きが、父と夫が勇猛で忠義の将である女を閨に引き入れないことなどあるだろうか。
一瞬、ぐっとつまった殿が答えた。
「戦でさんざん徳川を翻弄した元信の娘ではなあ。あれの父親の軍勢に殺された家臣たちの遺族は良い顔をせぬだろう。それに阿茶も以前、言ったであろう? 正室を迎えて一、二年のうちに側女を置くのは外聞が悪い。ましてや、世に聞こえた土屋惣蔵の後家だぞ。同族の岡部局がうるさい。あれは、〝ならぬことは、ならぬのです〟とわしに食いつくだろう。もっとも、筋を通すあの性格を見込んで、長丸の乳母にしたのだが」
「それだけでございますか?」
「元次には成人して妻帯した息子と嫁にいった娘があるだけだ。夫を支え、子を守った烈女は、側室になるより男やもめの妻となって穏やかに暮らすのが良いと思ったまでだ。元次は細やかなことに気づく思いやり深い男だから、きっと幸せになるだろう」
家臣たちの幸福を願って、月下氷人(媒酌人)となったわけね。意外とお節介焼き。
「差し出たことを申しました」
須和は一礼してそこを辞した。
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岡田元次に再嫁した千賀は、一男一女を産んだ。
息子の土屋平三郎は、のちに秀忠と名乗る長丸の小姓となり、元服の際には「忠」の偏諱を与えられて忠直と名乗った。
土屋忠直は、天正十九年(一五九一)に相模国で三千石を与えられ、慶長七年(一六〇二)には上総久留里藩主となり、二万石を与えられた。そして慶長十七年(一六一二)三月、三十一歳で亡くなる。あとを継いだのは長男の利直。次男の数直は将軍・秀忠の命で家光に仕え、常陸土浦藩を与えられ、若年寄・老中となった。その息子の政直も京都所司代を経て老中となり、家綱から吉宗まで四代の将軍に仕えた。




