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清見寺

 殿の侍女の一人として仕事の場を移してすぐ、須和はお愛の方さまに呼び出された。御方おかたさまの部屋へ赴くと、傍らに長丸君の乳母・大姥局おおうばのつぼねさまがいた。須和は好意的に見ていたが、接点があまりなく、挨拶を交わす程度の知り合いだった。

 人払いがされ、その場に三人だけとなると、御方おかたさまが須和に言う。

「須和、殿からの命です。『阿茶局に、さる者の子を養育してもらいたい』と」

 直接言えば良いのに、御方おかたさまを介してとは何か差しさわりかあるのだろうか、と須和が疑問を持ったとき、大姥局さまが口を開いた。

「その子は、わたくしの義理の甥なのでございます。父親が武田勝頼さまに最後まで付き従った側近で、天目山で討ち死にしてから、織田による武田狩りを逃れて妻子は姿を消しました。それが最近、居場所が分かりまして引き取ろうにも、わたくしの実家の岡部姓ではなく、『勇士であった父親の姓を名乗らせ、徳川家臣として家を興させたい』との殿のご意向がございまして、どうしたら良いかと御方おかたさまにご相談しましたら、『同じ武田の遺臣の寡婦であるなら、阿茶局にまかせたらどうか』とお言葉をいただき、御方おかたさまより殿へ言上していただいたところ、お許しが出たのでございます」

「なるほど。分かりました」

 息子が元服して手元からいなくなり、部屋には弥一郎がいるにしても幼子おさなごでお牟須の子だし、さちは母親の小夜の躾けが行き届いていて、さほど教えることもなく、むしろ側仕えの牧尾の後をついて仕事を見習っているので、今の須和に男の子を一人預かって育てる余裕は十分にあった。

「それで、その子の父親は誰なのです?」

 大姥局さまの告げた名は、武田氏の関係者にとって大変な大物で、須和も驚いたのだった。

 それは、武田勝頼一行に最後まで付き従った忠臣、土屋惣蔵昌恒である。



 大姥局の出身氏族・岡部氏は駿河国岡部宿を本貫とし、『吾妻鑑』に名が載るほど古くからの駿河の国衆であった。今川義元の曽祖父・今川範忠の代から家臣となり、天文五年(一五三六)の花倉の乱では義元を支持し、敵を制圧した功で感状を受けている。この岡部氏の中で徳川氏と関係が深いのは、岡部貞綱、岡部元信、岡部正綱の三人である。


 岡部貞綱は今川家臣であったが、信玄の駿河侵攻のとき、武田氏の家臣となり、今川海賊衆だった貞綱は武田水軍の将となった。永禄九年(一五六六)に亡くなると、嫡男の長綱は徳川家康に仕えて旗本となり、千五百石を領有した。


 岡部元信(長教)は今川氏重臣の岡部親綱の子で、織田氏との小豆坂の戦、安祥城の戦で戦功を挙げる。桶狭間の戦では、最前線の鳴海城にいた元信が主君の今川義元が討たれた後も敵をことごとく撃破し、主君・義元の首と引き換えに開城を申し入れたところ、織田信長がその忠義に感じ入り、義元の首を丁重に送り返した。駿河への帰路、近くの刈谷城を攻撃し、家康の伯父の水野信近を討ち取り、城を焼き払った。今川義元の没後も岡部元信は今川氏に仕え、後継の氏真に従ったが、今川氏の滅亡により、武田軍に降伏し、仕えることになった。天正二年の高天神城攻めで徳川軍に勝利し、武田勝頼が長篠の戦で大敗した後もそれを助けて徳川軍の遠江侵攻を何度も阻んだ。しかし、天正八年の高天神城の戦で、城代だった元信は織田信長の策で援軍を得られないまま最後に徳川軍へ突撃して全滅した。その後、家督を継いだ息子の真堯さねたかは武田氏が滅亡したあと、徳川家康に仕えた。


 岡部正綱は貞綱の兄・久綱の子で、大姥局にとって甥にあたる。今川家譜代の家臣として武田信玄の二度にわたる駿河侵攻の際には激しく抵抗し、武田側にその武勇を高く評価されて臨済寺の鉄山宗純師を介して開城し、武田氏の家臣となる。従属後は三方ヶ原の戦、岩村城の戦、高天神城攻めなどに参陣している。清水湊の武田水軍を率いていた貞綱が亡くなったあとは、その後任となった。けれども信玄亡き後、武田氏が衰退し、織田氏による武田攻めが始まると穴山梅雪と共に徳川氏に内通。武田氏が滅亡すると家康の家臣となった。天正十年、伊賀越えの際に穴山梅雪が死亡すると家康の命によって穴山氏の甲斐・河内領に派遣され、領地の保全を図り、また家康の甲斐平定に尽力したが、天正十一年十一月に駿河国において四十二歳で死去した。後継は息子の長盛で、小牧・長久手の戦、上田城攻めなどに参戦。継室に松平康元の娘で家康の養女を迎え、先妻の娘・菊姫はのちに家康と阿茶局の養女として鍋島勝茂に嫁いだ。


 大姥局の父・岡部貞綱は、武田氏に従属した際、信玄から甲斐の名族・土屋の姓をもらい、土屋豊前守貞綱と名乗った。そして永禄十一年(一五六八)に十三歳で初陣し、今川氏との宇津房合戦で貞綱の家臣を討ち取った金丸惣蔵かなまるそうぞうを自らの養子にしたいと信玄に申し出、許可を得て、惣蔵は土屋昌恒つちやまさつねと名を改めた。

 土屋惣蔵昌恒の父は、武田晴信(信玄)の傅役で、武田家では使番を勤めた金丸筑前守虎義である。金丸筑前守には息子が七人いて、土屋惣蔵昌恒は五男であった。

 長男の金丸平三郎は信玄の奥近習衆だったが、落合某に逆恨みによって殺害され、次男の平八郎が奥近習となり、信玄から「昌」の字を与えられ、昌続と名乗った。初陣は川中島の戦で、永禄十一年に土屋家を継いで土屋昌続と名を変え、二十二歳で侍大将となる。信玄の側近として数々の戦に参陣し、信玄が死去した際にはその遺骨を甲府に持ち帰っている。そして長篠の戦で壮絶な戦死を遂げ、後継がいなかったため、加えて養父の貞綱も討ち死にしたため、惣蔵が兄の土屋家の名跡と二つの土屋家の遺臣も受け継いだのだった。

 ちなみに、金丸筑前守の三男はのちに、お都摩の方(下山殿)の大伯父で、岩村城の信長の叔母、おつやの方の婿となった武田軍の猛将・秋山虎繁の養子となり、秋山昌詮と名乗ったが病死。末弟で七男の源三郎が秋山氏を継ぎ、秋山親久と称した。

 金丸氏を継いだのは四男の金丸助六郎定光で、信玄と勝頼に侍大将として仕え、弟の土屋昌恒、秋山源三郎親久と共に勝頼に従い、死んだ。

 金丸定光の子は生き延び、その子・土屋左馬助昌春は、徳川家康の次男・結城秀康に仕えた。

 六男の金丸正直(土屋惣八郎)は、武田勝頼の長男・信勝に仕えていたが、武田氏滅亡後には家康に仕え、兄弟の中で唯一、生き延びた。


 天目山で奮戦し、「片手千人斬り」の伝説を作った土屋惣蔵昌恒には、二児がいた。母は高天神城の城主で討ち死にした岡部元信の娘で、五歳になる嫡男・平三郎を連れて甲府から逃げ、それより幼い次男の嘉兵衛(重虎)には乳母と家臣たちをつけて信州新野の瑞光院、開山和尚の光國瞬玉を頼って落ち延びさせた。

 光國瞬玉は信玄の叔父である。土屋昌恒は光國瞬玉和尚に辞世の句と頼状を残し、形見も託した。この和尚の許で土屋嘉兵衛は出家したのだった。



「惣蔵どのが光國瞬玉和尚を頼ったのは、息子を生き延びさせるためと、後生を願ってのことでしょう」

 と、大姥局さまは須和へ語った。

「母親が嫡男と共に逃げたのは、いずれ家門を再興させるためもあったのでしょうね。でも、織田の侵攻で混乱した中、父親の土屋と金丸の一族は頼れなかった。織田に見つかれば、土屋の嫡男ということで殺されるかもしれない。そこで、駿河国まで逃げて来て、実家の岡部家の寺を頼ったようなのです」

「あの混乱の中、母子で山越えは大変なことだったでしょう」

 須和はその苦難を思いやった。

 武田水軍の本拠地、清水湊。そこにほど近い今泉村に曹洞宗・楞厳院がある。そこは岡部家の菩提寺でもあった。

 楞厳院の南栄舜道なんえいしゅんどう和尚は母子を快く受け入れ、土屋平三郎を養育した。しかし大きくなるにつれ、しかるべき寺で修行させたほうがよいと考えたのか、興津の清見寺へ身柄を移した。

(清見寺は、駿河では臨済寺、善得寺と共に臨済宗の古刹で、今川家の太原崇孚たいげんそうふ雪斎さま所縁ゆかりの寺。この辺りから殿の策略の〝匂い〟がするが。……まったく、回りくどいんだから)

 ここからが、須和の出番のようだ。



 やがて九月の始めの天気が良い日、鷹狩をする殿に須和は従った。笠を被り、面布めんぷをつけ、中臈女房なので輿に乗っている。身分の低い他の女房たちは馬に乗っていた。須和の側仕えの三人も同行している。

 鷹狩を終えて休息するため、殿は観月の名所としても有名な清見寺へ立ち寄った。

 奥へ通され、住持の大輝和尚と殿が親しく会話している。この三世住持の大輝和尚へ、殿は天正八年(一五八〇)、朝廷に申請して高僧に下賜される紫衣を与えていた。

 そこへ一人の喝食かつじきが茶を持ってやってき、作法にかなった美しい所作で殿の前へ茶碗を置いた。喝食かつじきとは、禅寺で食事を用意する有髪の稚児のことである。たいていは美少年で、男色の相手にもされる。

 須和は小姓たちと共に殿の近くに控えていた。

「何者の子ぞ」

 殿が問うと、和尚が答える。

「土屋昌恒の子でございます」

 狂言の舞台でも見ているようね、と須和は思った。殿と住持は知っての上での会話だ。知らないのは、当の本人と周囲。

 少年が驚きで目をぱちぱちさせている。

「これはなんという偶然か。和尚、ぜひもらい受けたい」

 大輝和尚が「御心のままに」と答え、それにうなずいた殿が振り返る。

「阿茶、そなたが面倒を見るように」

「御意」

 須和は一礼した。

 少年が和尚の指図で御前を下がると、須和も退いて後を追った。

「もし、そなた」

「はい」

 と、少年が振り返り、須和を見るとそこで端座した。

 須和もその前で坐る。

「殿よりお世話を申し付かりました、阿茶局でございます。どうか、よしなに」

「こ、こちらこそ、どうかよろしくお願いいたします。平三郎と申します」

 挨拶を交わしていると、後ろからやってきた殿の小姓が片膝をつき、須和にささやく。

「ご母堂を旗本の岡田元次さまがお迎えに参ります。お女中を一人お借りできないか、とのこと」

 うなずいた須和は振り返って言った。

「東雲、行ってください」

「かしこまりました」

 後方で控えていた東雲が小姓と共に去っていく。

 須和は平三郎に私物をまとめるように言い、お世話になった方々に別れの挨拶をするのにも付き添い、平三郎を連れて殿とは別に駿府城へ戻ったのだった。

 二人で輿に乗っての帰路の途中、聞き出したことによると、「年は十一歳」「父は武田氏の家臣で戦死したと聞いていたが、土屋昌恒だとは知らなかった」

「衆道の関係はまだ誰ともしていない」とのことだった。

(事情を知っていた楞厳院と清見寺の住持がこの子を守っていたようだな)

 須和は察した。そして、殿は忠臣の子を自らの家臣にするのだろう、と確信したのだった。









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