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駿府城において

 須和が駿府に来るのは三度目だ。一度目は武田家の親族衆・一条信龍の家臣だった亡き夫に従って、ここで短い間だが暮らした。二度目は徳川家に勤めるため、甲府から息子と加兵衛一家と共に通過した。そのどちらのときも、武田と今川の戦のあとが生々しく、略奪と放火の痕跡があちらこちらにあった。かつて今川家の居館があり、小京都と呼ばれた面影もなかった。

 そして今回、東海道を御方おかたさまの輿に付き従ってやってきた須和は、その変貌に目を見張った。

 小天守閣を持つ駿府城が富士山を背に堂々とそびえ、城下には家臣たちが常駐するための屋敷が立ち並び、友野家・松木家を始めとする町衆が作った城下町がその周りに広がっている。

 三年後の天正十七年(一五八九)には徳川の領地、五ヵ国で総検地を行い、それまでの知行高の複雑な貫文かんもん制を改め、郷単位の俵高たわらだか制に改めることが予定されていた。これによって家臣たちが在地から離れて城下に常駐しやすくなるのだった。

(織田さまや関白さまの町造りを参考になさったのだろうか)

 須和はそう感じた。

 引っ越しを終えてからも荷物の整理や正月を迎える準備などで慌ただしく働き、明けて天正十五年(一五八七)となった。

 元日、家臣を集めての年賀の儀の前に、奥で徳川家の家族全員が衣服を改めて殿と正室さまへ新年の挨拶を行った。四人の御方おかたさまと、九歳の長丸君、八歳の福松丸君、五歳の万千代君、同じく五歳の振姫さま、殿の孫娘で十二歳の登久とく姫さま、十一歳の熊姫さまもその場にいる。

 大人たちがお屠蘇を順に飲み、侍女たちによって雑煮の膳が運び込まれる。

 殿の雑煮は角餅に餅菜、味噌仕立てだったが、御前さまのものは澄まし汁仕立てだった。

「その雑煮は、そなたの故郷のものか?」

 殿の問いかけに、御前さまはぼそぼそとつぶやいている。見かねた八束局が代わりに答えた。

「恐れながら、御前さまの故郷では、このような雑煮を食すそうでございます」

「そうか。では、それを我が家の雑煮としよう」

 殿が決めたので、翌年から澄まし汁の雑煮にすることになった。

(いつも、ぼうっとして過ごしておられる御前さまだけど、『たくさんあるから』と衣装を新調することもなく贅沢はなさらないので、その点、殿は気に入っておられるように見える)

 仕える女房たちは相変わらず派手な暮らしぶりだったが。



 昨年までの戦直前の緊張感はなく、穏やかな新年だった。しかし三月に関白秀吉が真田との仲裁をし、離反した信濃衆の真田昌幸、小笠原貞慶を家康の与力大名とした。それによって話し合いがもたれ、徳川家から花嫁を出すことが決まり、人選が始まった。家康に年頃の娘がいないからだった。

 その同じ三月十四日、久松俊勝が亡くなり、お大の方は落飾して、伝通院でんずういんと号した。

 そして六月七日、武田宗家を継いでいた穴山勝千代(信治)が疱瘡で亡くなった。

 穴山氏は甲斐南部の河内地方の国衆で、穴山信友が武田信虎の娘で信玄の姉の南松院を妻とし、その嫡男として信君のぶきみが生まれた。その信君は信玄の次女を正室に迎え、穴山家は二代にわたって武田宗家と婚姻関係を結んだ御一門衆だった。信玄亡き後、諏訪氏を母とする勝頼が武田宗家を継ぐことに信君は内心、反発していた。

 天正八年(一五八〇)に穴山信君は出家し、梅雪斎ばいせつさいと号したが、実権はまだ握ったままだった。天正九年から穴山梅雪は織田信長に内通し始め、天正十年(一五八二)の織田信忠の甲斐侵攻の際には、甲府にいた人質を逃がし、本領安堵と武田氏の名跡継承を条件に、家康の誘いに乗り、織田信長に内応した。結果、穴山梅雪は甲斐河内領と駿河江尻領を安堵され、織田氏の従属国衆となり、家康の与力として付けられた。

 天正十年五月、穴山梅雪は織田信長へ御礼言上のため、家康と共に上洛した。そこでもてなしを受け、堺を遊覧したのち京へ戻ろうとしたとき、明智光秀の謀反と織田信長の死を知った。疑心暗鬼に陥った梅雪は家康一行と別れて逃走しようとするが、落ち武者狩りに遭って落命する。

 梅雪の妻は夫の死によって落飾し、見性院けんしょういんと号した。また、梅雪が亡くなったことで、九歳で家督を継いでいた勝千代が正式な当主となる。しかしこのとき十一歳という年齢のため、家康は岡部正綱を派遣して河内領を支配下に置き、穴山氏家臣は徳川家に従属したのだった。

 その勝千代が子のないまま十六歳で病死したため、穴山氏そして武田氏は断絶する。

 そこで家康は梅雪の養女で武田家臣の秋山虎康の娘であるお都摩の方が産んだ万千代を見性院の養子として武田の名跡を継がせることにした。



(殿から養子の話を聞かされたお都摩の方さまは放心状態だったと聞く。今すぐでなくとも、たった一人の我が子と別れなくてならないと知って、ぼう然となさったのだろう)

 お都摩の方さま、お竹の方さま。共に人質としてやってきた方たちは、生まれた子を頼りにして暮らしているように見受けられた。



 一方、五月に九州で島津を下した豊臣秀吉は七月に京の聚楽第へ凱旋した。

 家康はその凱旋の祝いを述べに上洛し、八月五日、近江大津に至ると、そこに秀吉が迎えに来ており、共に入京したのだった。そして八日、秀吉の斡旋によって、家康は権大納言となり、まだ九歳の嫡子・長丸も従五位下に叙せられ、徳川家家臣にも官職が授けられた。



 律令制が導入された奈良・平安の頃、位と官職にはそれぞれろく[俸給]があったのだが、武士が台頭し、公領や私領[荘園]を守護・地頭が蚕食して、それは名ばかりのものとなった。けれども、律令の儀典は形骸化しながらも継続している。

 正一位しょういちいから少初位下しょうそいのげまで三十階ある位階で、三位さんみ以上を四位しい五位をその予備軍の通貴つうきといった。貴は三位以上なので相当する官職は大臣以下参議、通貴は神祇官・八省・諸職しょしき・諸寮・諸国の長官かみ次官すけとなる。

 しかしこれらも時間の経過によって家業の世襲化が進み、四位以上が貴[公卿]、五位が通貴[大夫たいふ]、六位以下が地下じげとしょうされるようになった。

 また家格も形成され、摂政・関白にまですすむ摂関家、それに次ぐ清華家せいがけ、大臣になる家柄の大臣家、大中納言に至る羽林家うりんけ、大納言に至る名家めいけ、羽林家でも名家でもない半家はんけ、これらは御所の清涼殿への昇殿が累代許される「堂上とうしょう」と呼ばれ、以下は「地下じげ」という身分だった。

 ちなみに、今川家に嫁いだ寿佳尼の実家の中御門家は名家めいけで、武田信玄の継室の実家、三条家は清華家である。

 公家における正妻、家長と役割分担して家の内を取り仕切る妻は、家格が一つか二つ下の家から選ばれた。所領が蚕食され、嫁取りの婚資がない場合、女房身分の妻が家を取り仕切った。天皇家でも后妃を入れることがまれになり、三百年ほど皇后が立てられなくなった。

 立后の儀が再開されるのは、家康の孫の代になってからである。



 天正十三年五月に、正二位の関白で前左大臣の二条昭実にじょうあきざねと、正二位の左大臣、近衛信輔このえのぶすけが関白職を巡って争った際、信輔が秀吉に裁定を求めた。そのとき秀吉は、「どちらが敗訴してもその一家の破滅となり、朝家のためによくない」と言って、自分が関白になると申し入れた。それに対して、信輔は、「これまで五摂家以外の者がなった例はない」と答えた。すると、「信輔の父・前久の猶子となり、信輔と兄弟の契約をし、やがて関白を信輔に渡す」と、秀吉は主張した。その報礼として、近衛家に千石、他の四家に各五百石ずつ永代の家領として加増するといって、困窮している公家たちを動かした。

 このとき、信輔の父の前久は、関白は「一天下を預かり申す」官職である、と息子に説いた。

 秀吉はこれを根拠に、天正十三年十月二日、島津義久たち九州の諸大名に停戦命令を発した。

「関東から奥州の果てまで天皇の命令に従い静謐せいひつ[平和]なのに、九州で戦が続いているのはよろしくない。国郡の境目の相論は秀吉が双方の言い分を聞いて裁定する。まず双方とも戦をやめよ。これは天皇の意向なので従わない者は成敗する」[惣無事令]

 日本六十余州の支配権を持つ天皇から、秀吉が関白として実際の支配を委任されている、という考え方からの行動であった。

 軍事・経済を掌握した秀吉は、気前よく位階・官職を武士たちに与えたので、大量の武家公卿が出現し、同数の公家が公卿からはじき出された。公家と武家の関係の不安定な要因になりかねないのを見た家康が、慶長十六年(一六一一)に武家官位を朝廷官位の定員外とすることを提案するまで、この事態は続いた。



 凱旋祝いを述べ、官職を賜ってから八月十二日に家康は京を出発し、十七日には駿府に戻った。これ以後は比較的平穏な日々が続き、九月に三河田原、従二月に三河西尾で鷹狩を楽しんだ。



 他方で、駿府城の奥では「不穏」が忍び寄っていた。

 お愛の方さまがたびたび立ち眩みをされる。心配した周囲が医師を呼んで診てもらったところ、「血の道でしょう」とのことで薬を処方してもらった。

 お都摩の方さまも食が進まない。こちらも「血の道」ということで、薬を飲んで養生することになった。お竹の方さまが、つきっきりで面倒を見ておられる。

 五ヵ国を有する大名となったことで、奥に従事する侍女や端女はしためも増えた。みな、戦で夫や父を亡くし、暮らしていけなくなった女たちだった。

 その中に、お牟須むすという小綺麗な寡婦がいた。三歳になる男の子を伴っている。

「須和、お牟須は夫を長久手の役で亡くした者です。殿から『その子を将来、召し抱える』と言われ、本来はわたくしの側仕えとすべきなのですが、このところ体調が思わしくなく、須和に面倒を見てもらいたいのです」

 お愛の方さまが須和に言った。

「謹んでお受けいたします」

 須和は了承し、母子を自分のつぼね[部屋]へ連れてきた。

 お牟須の夫の三井弥一郎は曽祖父の代から武田氏に仕え、天正十年に武田氏が滅ぶと、徳川家に下って家臣となり、井伊直政の同心となって付属した。天正十二年に小牧・長久手の役が起こると、長久手で羽柴の別動隊と戦い、戦死。二十六歳だった。

 お牟須は生まれたばかりの息子を抱え、親戚の家に身を寄せていたが、子の将来を考えて、乳離れをすると旧主・井伊家の伝手を頼り、奥勤めに出ることにしたという。

「苦労をなさいましたね。夫を亡くし、幼い子を抱えて、さぞ心細かったでしょう。でも、ここにはそんな女ばかりがいます。困ったことがあったら、私でも他の者でもいいですから、相談なさってくださいね。まずは簡単な膳運びから始めましょうか。お仕事の間は、誰かが子を見ていますので、安心してお勤めに励んでください。それにしても、かわいい」

 お牟須の子は人見知りもせず、母親から渡された紐をかしかしと噛んで機嫌よく遊んでいる。

(私も殿との子がいたら、これくらいの年ごろだったか)

 須和の胸が、ちくりと痛んだ。








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