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狐の始末 2

 須和がしたことの意趣返しか、水瀬局は「上臈は毎日、御前さまへ挨拶するように」という通達を出した。真っ当な要求のため、八束局も反対できなかったようだ。

 朝餉のあと、世継ぎの生母であるお愛の方さまこと西郷局さまを先頭に、西郡局さまが続いて廊下を行き、西郷局さまには須和と笹尾局がつき、西郡局さまには於茶阿局と小島局が従った。その後ろには侍女が六人、付き従っている。その中に須和の側仕え、東雲と早霧がいた。

 正室さまのお部屋まであと少しというところで前方から下臈女房と側仕えを従えた水瀬局がやってきた。

 西郷局さまはその姿を認めると脇へ寄り、平伏しようとしたが、それを水瀬局が押しとどめた。

「西郷局さま、西郡局さま。立礼で結構。互いに上臈女房ではありませんか」

 にこやかに言った水瀬局に従い、西郷局さまと西郡局さまは脇へ寄ったまま、頭を下げてやり過ごす。ただ、お付きの須和たちはその場に坐り、平伏したが。

 水瀬局の一行が通り過ぎていく。最後尾の下臈女房が前を過ぎると、西郷局さまは頭を上げて前を向き、再び歩もうと足を前に出したとき、つんのめった。

「おふう!」

 須和がとっさに叫ぶと、笹尾局ことおふうが支えたので、西郷局さまは顔から落ちるところを、すんでのところで廊下に突っ込むのを免れた。

(こんなくだらない手を使うか)

 須和は御方おかたさまを無様に転ばせようとした下臈女房に低い姿勢のまま足払いをかけた。

「きゃあっ」

 下臈女房はひっくり返り、しかも不幸なことに廊下から落ちて庭の土に顔から突っ込み、土埃まみれになってしまった。

「何をしておる!」

 振り返った水瀬局が怒鳴る。

「あの方が」

 と、すっくと立った須和が打掛のつまを取って答えた。

御方おかたさまの打掛の裾を踏みましたの。こちらでは大変な無作法で無礼なことですけれど、大坂ではそれが正しい作法であろうと思い返し、わたくしも真似をいたしました。なにしろ東国は田舎でございましょう? 京・大坂の優雅な作法を知りませんの。これからもぜひ、ご教授願いますわ」

 にーっこり、とする須和に水瀬局がこめかみに青筋を立てて怒る。そして須和に詰め寄った。

「そんな作法などないわ! 阿茶局、こなたを愚弄するか!」

「わたくし、見ました。あの女房がわざと西郷局さまのお裾を踏むのを」

 西郡局さまを護るように前に立った於茶阿局が言う。

「朋輩同士で庇い合うか。徳川の者たちは関白さまを軽んじておるな。そなたたちは負けたのじゃ。関白殿下のご温情で生かされておることを気づくがよい。殿下はもったいなくも、その妹君をそなたらの主の妻として寄越された。それによって生き永らえたことを知れ。我ら大坂の者を愚弄したこと、関白さまによう言っておくぞ」

 水瀬局が勝ち誇った顔で告げた。

「ふざけたことを抜かすな!」

 地の言葉で、おふうが怒りの声を上げた。他の徳川方の侍女たちも殺気立っている。

「おふう。いえ、笹尾局さま、お静まりを」

 と、須和が諭す。

「水瀬局さま、『関白、関白』と連呼なされますが、従一位という高位の御方が、このような片田舎の女同士の小さな諍いに関白殿下が出張ってなどくるものですか。それこそ阿呆らしい」

「なに……」

 話しているうちに、庭に落ちた下臈女房が仲間に抱えられて廊下へ上がってきた。

「水瀬局さま、わたくし、こんな酷い有様に」

 と、鼻血を出した半泣きの顔で訴える。

「ま。それだけで済んでよろしかったですわね。御方おかたさまに何ぞあったら」

 いったん言葉を切った須和は目つきを鋭くし、低い声で告げた。

「刀などいらぬ。その細首、この手でねじ切ってやったものを」

 水瀬局と下臈女房が須和の脅しに真っ青になった。

「須和、いえ阿茶局。わたくしは大丈夫です。もうやめなさい」

 口喧嘩を見かねて、西郷局さまが声をかける。

 そのとき、正室さまの部屋の方角から人が来た。

「何の騒ぎですか」

 八束局とその侍女だった。

 鼻血を出し、土まみれの女房と冷ややかな目線の徳川方の侍女たちを見て、察したようだ。

「水瀬局さま、ご説明を。そなた、西郷局さまと西郡局さまを迎えに行ったのではないのですか。そうおっしゃいましたね」

「言いがかりをつけられました」

「違います。その女房が、御方おかたさまを転ばせようとしたのです」

 水瀬局が嘘をついたので、須和がすぐに訂正した。

「まあ、何と言うことを。深くお詫び申し上げます」

 八束局はその場で平伏した。

おもてを上げてください」

 西郷局さまが慌てて言うと、八束局は顔を上げた。

「どうして、敵の言うことを信じるのですか」

 水瀬局が声に怒りをにじませる。

「敵ではありません。朝日姫さまが嫁がれた家の方々です。水瀬局さま、そなたは何かと『関白さまが』とおっしゃいますが、妹君を徳川家に嫁がせたのはその関白さまのご意思です。関白さまは『和』を望んでおられます」

「ですが」

「男は戦で首級を上げ、褒賞を得る。一方、女子おなごの戦は殺すのではなく、実家と婚家をつないで次代に家を続かせること。朝日姫さまはその女子おなごの戦の大将です。我らはその家臣。大将の為すべきことを阻害する者はいりません」

「何をおっしゃるやら。こなたは殿下から命じられて。八束局さまこそ、こなたの言うことを聞くべきでしょう」

「わたくしは北政所さまから『朝日姫さまを護れ』と申し付けられました。そなた、わたくしに命じるというのなら、北政所さまとわたくしの実家の浅野家をないがしろにするということですね。よう分かりました。そのように復命いたしましょう」

 八束局は水瀬局に鋭い視線を投げかけたあと、立ち上がって西郷局さまと西郡局さまに柔らかな笑みを向けた。

「どうぞ、こちらへ。御前さまがおまちかねでございます」

 と、先導する。

 八束局の侍女が水瀬局たちを睨んでいるうちに徳川方の一行は通り過ぎ、最後尾についた八束局の侍女は水瀬局たちを牽制するかのように打掛の裾を払ってあとに続いた。

 最初のときと同じように正室さまとの会見はすぐに済み、八束局が告げる。

「水瀬局が大変なご無礼をいたしました。あの者には罰を与えますゆえ、どうかご容赦くださりませ。御前さまへご挨拶は、あの者が言った毎日ではなく、十日に一度ほど、御前さまの都合の良いときに、と変えさせていただきます」

 と、一礼した。

 正室さまとの会見を終え、西郷局さまと西郡局さまがそれぞれの部屋に落ち着き、いつもの日常が始まる。

「須和、わたくしのために怒ってくれたのでしょうけれど、喧嘩はいけませんよ」

 御方おかたさまに咎められ、須和は「申し訳ありません」と頭を下げて表面上、反省の態度をとった。

 その夕刻、自室へ引き取った須和は側仕えの東雲と早霧に尋ねた。

しのびわざを使う者を知りませんか? やって欲しいことがあります」

「アレの始末でございますか」

 早霧が、うっふと笑う。

「まさか。殺すまではいたしませんよ。関白殿下の御威光を笠に着て、また同じことをやりかねないので、お灸をすえるだけです。髪をね、こうばっさりと」

 須和は顎の下あたりで右手を左右に振った。

「切っても、かもじにすれば良いだけなので、あの図々しい女なら、平気な顔をして出仕してくると思いますが、少しでも反省をしてもらいたくて」

「ならば、我が伊賀の者がやりましょう。奥の警備に伊賀者が多うございますので、騒ぎになっても誤魔化しがききます」

 東雲がそう答えた。

「では、甲賀はその補佐を。こんな面白いこと、伊賀だけにさせません」

 早霧がくすくす笑っている。

 話がまとまると、二人は姿を消した。

 しかし、その夜、騒ぎは起きなかった。

 翌朝、身支度をし終えた須和に東雲と早霧が復命する。

「行ってみたら、先客がおりました」

 東雲が言う。

 水瀬局の部屋へ忍び込んだら、すでにそこで口に布を押し込められ、緋袴だけの半裸の姿になった水瀬局とあの下臈女房が手足を侍女たちに押さえつけられて、楊の鞭で背を打たれていた。

 それを眺めていたのは、八束局。

『そなたらの主に伝えなさい。狐女の始末は、こちらでつけるので手出しは無用、と』

「大人しい方だと思っていましたのに、恐ろしい」

 早霧が感想を述べる。口ほどには「恐ろしい」と思っていない様子だった。

「そうでなくては。関白殿下の妹君の護衛など、北政所さまから命じられるわけがない。腹が据わった御方のようじゃ。あなどれん」

 そういう方だと分かったら、そのように対応するまで、と須和は心を決めた。

 翌日、水瀬局と数人の侍女が「所要のため」と浜松を離れた。

 須和は本多正信さまに連絡を取り、奥での出来事を伝えて、文使いを止めることをやめてもらった。人が出て行ったのなら、無駄だからだ。

 そして水瀬局たち一行は三河を出て尾張を過ぎ、鈴鹿の山の辺りで消息を絶った。



 野盗に襲われたのではないかと、それを聞いた者たちは囁いたが、大政所の下向と殿の上洛、そして駿府城への引っ越しの準備と立て続けにあり、その中で去って行った水瀬局たちのことは忘れ去られ、十二月に駿府城へ引っ越してから、正室さまは前の方と同じく「駿河御前」と呼ばれるようになった。









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